傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

すずめの明日

すずめって明日とかあるのかな、と彼は言った。なあにと私は訊いた。
すずめはあんまりお利口そうではない。ああいう生き物には過去の記憶がないと聞いた。それなら明日も昨日もないだろう。行動は条件に対してプログラミングされていて、思考はしない。記憶もしない。だとしたらたとえ嵐にあおうが、けがをしようが、そのときの不快感があるだけで、死ぬ直前まで死ぬのも怖くないのではないか。明日がないというのは、つまりそういう世界にいるということではないのか。彼はそんなふうに話した。
うんと昔に読んだ図鑑によると、ほとんどの動物には、人間のような自我はないということだった。なにしろ彼らには記号というものがない。でも繰り返し経験したパターンは学習する。人を見たことのないすずめと街中のすずめは人に対する反応がちがう。だから時間を明確に意識することはなくても、過去がゼロということはない。過去がゼロでなければ、未来もゼロではない。だからすずめにも、それなりに明日みたいなものはある。たぶん。
私がそうこたえると、なるほどと彼は言った。すずめにも過去はある、OK。そうすると、僕らの物語的な意識や記憶と、パターンを覚えるだけの動物の意識の間には境界があるのかが気になる、つまり、質的なちがいみたいなものが、うーん、なさそう、なんかこう、だらだらっと連続しているような気がする。
パターンの認識だけで生きているような人だっているだろうしね、と私は言った。知的な能力とは関係なくって、端的に、物語を必要としない人。
彼は少し黙り、たぶんいる、とこたえた。でもそれは怖いな、あんまり認めたくないよ、すべての人はそれぞれの物語を生きていると思いたいよ。
しばらく経ってから、あのさあ、すずめのことだけど、と彼は言った。まだ考えてたのか、と私は驚いた。彼は仕事をしたり、プールで泳いだり、掃除機をかけたりしながら、少しだけリソースを割いてバックグラウンドで特定のものごとを考えつづけるくせがあり、私はその「平熱の執着心」みたいなものを目撃するたびにびっくりする。
彼は言う。
物語を持たないというのがどういうことか、僕にはやっぱりうまく想像することができない。一生懸命試みたんだけどだめだった。物語の先端にあるものこそが意識だと思ってしまう。けれどたしかにそれを持たない生き物も、人間だって想定することができる。それをちゃんと想像できないことがくやしい。他人はみんな自分みたいだと思っているなんておもしろくないよ。すずめのような明日を持つ人のことを、もっとありありと想像したい。