傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

何者でもなくても

春なのにデートもしないの、と彼女は小さい声で歌った。それから携帯電話を見て、まだかなあ、おなかすいた、と言った。おなかがすいて死にそうなの、と私も小さい声で歌った。私たちはもう一人の友だちが仕事を終えて合流するのを待っていた。
彼女は最初に就職した小さい会社から同業種の大企業に転職してしばらく働いていた。けれども社風が合わないので、前の会社の誘いに乗って戻ることにしたのだという。もう大きい会社とかどうでもいい、気持ちよく働けることのほうが大事、あと今日みたいに友だちと美味しいごはん食べられればそれでいいや。彼女はそう言う。
そうかあ、と私は言う。彼女は不満そうに続ける。でも、前の会社に戻るって言うともったいないもったいないって言われるんだよね。もったいなくなんかない、あんなジャイアンみたいな上役がいるところなんか。男の人たちは飲み会で仕事の自慢しかしないし。それで今度お食事でも、とか言われたって、仕事自慢だけじゃどういう人かわかんないんだから興味もてない。
私は少し思案して、それについては男の人たちにも言い分はあるみたいだよ、と説明する。聞いたところによると、多くの男の人は、仕事を通じて「自分はこのような価値のある人間である」というふうに感じていて、それが少なからずよりどころになっているんだって。それで会社の大きさを誇ったり、業績や評価を口にしたりする。自分を認めてほしいという気持ちがあればなおのことで、だから好かれたい相手には余計に言っちゃうんだって、自慢がましいことを。
職業の詳細より、なにが好きでなにが嫌いかとかのほうがよほど必要な情報だと思うけど、と彼女は言った。
私は聞いた話をそのまま口にする。うん、私もそう思うよ、でもあちこちに出回っている通念や周囲の人の感覚の影響を受けて社会的なものごとによりどころを求めるのはしかたのないことでもあって、何者かでなければつらいという気持ちを、できればちょっと認めてほしいって、そう言われたよ。おとこ族の一人としてそのように願っている、って。
彼女はけらけらと笑い、なあに、おとこ族って、と言う。性別が男性ならみんなあてはまるわけでもないし、あと女の人にもそういう人がときどきいるから、じゃないかな、と私は言う。彼女はまた声を出して笑い、それからもう一人の友だちが走ってくるのを見つけて、言った。自慢にもそれなりの切実な理由があるわけね、でも今日のところは何者でもなくても平気な三人でごはん食べよう。