傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

はずかしさを否定しない

息子が発表会に来ないでほしいって言うんです、と彼女は訴え、長いため息をついた。
彼女の四歳の息子はそれまで楽しそうに保育園に通い、発表会で披露する踊りを踊っていたんだけれども、ちかごろ練習をいやがるようになり、保育士が尋ねても理由を言わない。保育士から相談された彼女が家で息子にどうしてと訊くと、息子は「ママに見られるのがはずかしいから発表会がいやなの」と言った。ママが行かなければ踊るのかと訊くと、うんと頷く。
そりゃあねえ、お遊戯ははずかしいですよ、と彼女は言った。
はずかしいと言われたら、否定はできません。だって私もやれって言われたらいやですもの、お遊戯。頭に紙でできた花とか飾らなきゃいけないし。でもそれはもう少し大きい子の感覚じゃないですか。ノリノリでお遊戯して、ママが見に来てくれなきゃいやだ、くらいのことは言えないものかと思います。なにしろ園児なんだから。
そうですねと私は言う。それが望ましい幼稚園児というものですよね。
でも、と彼女は言う。自律や礼儀の問題ならともかく、この場合、園児なんだから園児らしくしなさい、では理屈が通りません。
たしかに、「もっと無邪気でいろ」というのは、子どもにとってわりときつい要求といえる。「はずかしいのを我慢しなさい」というならともかく、自然に感じる感覚そのものを否定することはなるべく避けたい。私がそう言うと、彼女はうなずいて続ける。
たとえばプールに入るのに水着になるのがはずかしいと言ったら「はずかしくなんかない」と諭せます。だって、水着を着ることがはずかしくないと感じる子になったほうが、息子自身が楽しいはずですから。でも、ママ限定でお遊戯を見られるのがはずかしいと言われたら、ごり押しして「はずかしくなんかない」と言い切ることは、私にはできません。はずかしいという感覚自体は大切なものです。
私はなんだか嬉しくなり、私その考え方、すごく好きです、と言った。彼女はありがとうと言い、でも発表会行きたいですよう、となさけない声を出した。私だってビデオ持ってうきうきして発表会に行って、ズームでばっちり息子を撮って家で何度も見たりしたいですよ、それをあの子ったら、まったくもう。