傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

たぶん夫

彼女が記念写真を見せてくれたので、この隣の人が結婚相手だよね、と訊いた。たぶん、と彼女はこたえた。たぶん?
彼女はいくぶんぼんやりした顔で話した。彼と知りあって数ヶ月しか経っていないこと、すぐに恋人になり、相手の家の事情で急いで結婚したこと。
彼女が途方にくれた顔をしているので、なにか困ったことでもあったの、私は訊いた。たとえば彼の家は代々かえるの神さまを祀っていて、毎日十匹のいきのいい蠅をつかまえて捧げなければならないとか。
私の冗談のできがよくなかったせいか、彼女はごくうっすらとしか笑わず、悪いことや変なことはない、こたえた。夫の親族はいい人たちだし、自宅には夫と二人で住んでいるので、生活上の摩擦みたいなものもない。
帰ってくるの、と彼女は話しはじめた。帰ってくるの、なんだかすてきな人が。私が残業した日には先に帰っていて、おかえりって言う。私が前の家から持ってきたソファの上で私が買った本を読んでたりする。私それを見て、かっこいい人がいるなあって思う。となりに座ってもいいかしら、って思う。明日彼が帰ってこなくても、それはそれで当たり前のような気もする。でも帰ってくるの、あの人は毎日、なぜだか。
それってかなりすてきな生活だねと私は言う。彼女はうなずく。相変わらず戸惑った顔をしていた。
彼女は彼のことがすごく好きなんだろうなと、私は思う。もともと友だちだった人ならともかく、つきあいはじめの時期なんて、相手のことをよく知らないのがふつうだ。そうして、ただ無根拠な意志だけが互いを結びつけているような、相手が突然連絡を絶っても対外的にはべつだん問題にはならない、あいまいな時期を過ごす。そのあいだに相手の細かい人となりや、生活の作法や、社会的な関係なんかを知って、その一部に関与していく。あるいは関与しないことを選択する。
彼女の場合はその過程をとばして結婚したわけで、だから実感が湧かないのもある意味で妥当といえる。恋に落ちるというのは非日常的な、いささか病的な心の動きをともなうもので、「やっぱり皿洗い機がほしいねえ」みたいな生活の構築作業と平行してそれを保持するのは難しい。
彼女の場合はだから、彼のいる生活そのものが非日常になってしまっているのだろう。このふたりはもうちょっとのあいだ別々に住んで、休日にカフェで待ち合わせしたりするべきだったのだ。おそらく。
私は提案する。「彼が帰ってこなくても不思議じゃない」っていうのはやめない?そういうのってばかにならないんだ、つまり、ことばにしたことを実現しようとするところが人にはあるから、だから「この人は私の夫。炊飯器からごはんをよそっている。かっこいい。ひゃっほう」とか思うといいよ、人にもそう話すといいよ、そうしたらそのうち慣れて、彼がいて当たり前、彼があなたの夫で当たり前と思えるときがくるよ。
彼女は少しうれしそうにうなずいてくれたけれど、私はひそかに、でも今の彼女の感覚はなかなかいいなと、そうも思う。おとぎ話みたいでいい。
ひどく好ましい男が、なぜだか毎日、家に帰ってくる。彼女は彼と話し、彼と食事をとり、彼と眠る。ある休日の夕方、彼はごく自然な仕草でソファから立ち上がり、そのまま出てゆく。彼女は二度と彼に会うことができない。

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