傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

親切の単位

私はそのとき十八で、雨の住宅街を歩いていた。通り過ぎた家から、白い髪の小さい女の人が出てきて、待って、と大きな声で言った。私は立ち止まって彼女を見た。彼女は右手で綺麗な模様のついた小さい傘をさし、左手に、彼女が持つとずいぶん大きく見えるビニール傘をもっていた。
彼女は私を見上げ、腕をいっぱいに伸ばしてそれを差しだした。お嬢さん、これ、使って、いいから、いいから、余ってるの、ね、風邪をひくから、これ使いなさい、そんなふうに無造作に雨に濡れてはだめよ、それじゃあね。
そのころ私は、雨に濡れることなんか平気だと思っていた。強い雨でなければ、それほど不愉快でもなかった。正確にいうと、不快な感覚が全般に鈍く、苦痛を感じることがあまりなかった。でもそれ以来、「無造作に雨に濡れないよう」気をつけるようになった。
ビニール傘は親切の単位として流通している、と私は思う。親切な人々は玄関やベランダ、あるいは職場のデスクの横に、適度に古びたビニール傘をたくわえている。そうして雨が降りだすと、傘を持っていない人にあげる。いいから、いいから、たくさんあるんだから、と言って。
それに比べて私はどうだろう。私はすぐ傘をなくす。自分が今までになくした傘のことを想像するとぞっとする。いつか夜更かしをして始発に乗ったとき、いちばん後ろの車両で忘れものを詰めこんだ袋を見た。それはカーキ色をした無骨な布の袋で、車掌席の前の扉にぐったりともたれかかっていた。私のなくした傘たちはあの中に入ってどこかへ消えてしまったのだ。誰かが雨に降られたときに助けてあげることもなく。
私は今日も傘をなくした。電車の中に置いてきた。そして人からもらった。
もらった傘をさして家まで歩きながら思う。
私だって人にいいことをしたい。傘一本分くらいは親切になりたい。なくさないように注意深く生活して、今度はこれを、だれかにあげよう。