傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ロックスターにもなれない

ところで、しばらく休暇を取ろうと思ってね、と彼は言う。私はびっくりした。人間としての限界まで働き続けている人だったからだ。
「一段落したんだ。だからしばらく休暇をとって、ひとりで旅行してこようと思う」
彼は何秒か黙る。私は待つ。
「ちかごろ仕事に情熱が持てない。仕事の内容は変わっていない。むしろ刺激になるはずの要素が増えた。周囲もすごく優秀で、ちょっと前なら一緒に働けるだけでうれしくなったような人たちだ。でもぜんぜん心が動かない。典型的なバーンアウトだね」
他人事のように彼は言う。私は少し考え、そういうときは女の子と遊んだらどう、と提案する。癒やしてくれそうな人がいいと思うよ。
彼はうつむいて苦笑する。
「なにも欲しくないし、誰も欲しくない。そういう人間が、さあ癒してくださいって誰かに寄っていったって、うまくいくわけがない。そんなのはちょっと考えればわかることだよ。だいいち僕はそんなに女の子に人気があるタイプじゃないんだ。そのあたりをちゃんと認識してくれないと困る」
私はごめんねと言い、旅行はいいね、と話を変える。私、旅行って大好き。
私たちはしばらく旅行の話をする。私は、帰ってこないなんてことはないよね、と念を押す。まさかと彼は言う。
「旅に出てそのまま帰ってこないなんてドラマティックなことするほど若くない。帰ってきたくなくなるところなんかないだろうし。どんなに珍しいところに行ってもそんなに感激しない。少し前からそうなんだ。わかってるけど、でも行く、ほかにすることがないから」
世の中のほとんどすべての営為には、あるいはほとんどすべての環境には、なにかしら人の興味を引くものがあると、私は思う。世界はその程度には豊饒であり、個人は(たとえどれほどすぐれた個人であっても、あるいはどれほど無力な個人であっても)それを感じる能力があり、またそれが既知であるほど万能ではない。私はそのように考えている。そのような信仰をもっている、といってもいい。
彼はひどく退屈している。そしてひどく疲弊している。彼の退屈と彼の疲弊のあいだには密接なつながりがあるように見える。
彼は以前、世界には驚嘆が満ちているに違いないという、私のそれと似た信仰を持っている人物に見えた。でも今、彼は退屈している。すべては陳腐であり、均等に価値のない代物だと感じている。世界はすでに消費された残りかすなのだと思っている。それは彼の疲労が彼の感覚を削りとっているためではないのか。
私はその仮説を口にしない。その可能性については、彼自身がよくわかっているだろうからだ。今ここで彼の予想を裏づけることに、つまり彼の退屈さをささやかに上塗りすることに、意味があるとは思えない。だから私は頭の中を探して冗談を引っぱりだす。そうだね、旅に出るのはいいね、退屈だからって、今からロックスターになるわけにもいかないし。
「残念なことにね。もう信じちゃいけない側の年齢だ。変な服も着られない」
彼は少し笑う。
「僕はいったいどうしてしまったんだろう。僕はこんな人間じゃなかった、いろんなものが欲しかった、いろんなものを美しいと思っていた、くだらないものにとらわれたことだってあった、でもなにもかもをくだらないと思うより、つまらないものを求めているほうがずっとずっとましだ。ほんとはわかってるんだ、世界が残りかすなんじゃない、僕が残りかすなんだ。少しでも気持ちを動かすものは記憶の中にしかない。僕にはもうなにも残っていない。ロックスターにもなれない」
あなたは残りかすじゃない、とだけ、私は言う。