傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

前半だけのサマー

誰かと映画にいきたい、というメールを受けとって、『(500)日のサマー』を観にいった。彼女と会うのは五年ぶりで、もともとそれほど親しいわけでもない。なんで私と映画に行くんだろうと思って、家族と出かけたりしないのと訊いた。
あんまり、と彼女は言う。夫は長期出張中、私は育児休暇中、赤ちゃんとふたりっきりで、それがずーっと続くのもなんだか良くない感じでね。母が来てくれたから娘を預けたの。
ママ友とかいないのと訊くと、いない、もともと友だちが少ない、と彼女は言う。あなたもあんまり友だちいないでしょ、だから映画くらいつきあってくれると思って。独身で暇そうだし。
まあね、と私は言う。彼女は正しいことをあっさりと口にするたちで、お愛想ということばを知らず、おおかた仏頂面でいる。私はそれが嫌いではない。真顔だから一見不機嫌にも見えるんだけれど、中身はそれほど不機嫌な人ではない。彼女の無表情は、生来の正直さと、正直でいつづけられる環境を今まで確保していた証だ。
彼女の顔だちは仏頂面でいるときのほうがきれいに見える、と私は思う。笑顔はなんだかはかなくて、見ていてちょっとかなしくなる。
『サマー』の主演俳優は恋をしている人のだらしない顔つきの演技が上手く、実にばかみたいでよかった。私がそのことを口にすると、彼女はそういえば、と言う。昔うちの夫もああいう顔してた。へんな顔する人だなと思った。あなただってきっとそういう顔してたんだよと私が言うと、彼女は首を横に振る。それはない。絶対ない。だって私そういうのよくわかんないもの。急に踊ったりとか。
あれは映画だ。しかも空想や心境を示す場面だ。実際は急に踊ったりしない。
私がそう言うと、そんなのわかってると彼女は言う。でもそういう気持ちになるってことなんでしょう?私にはそういうの、ない。だからああいう映画を観るとへんな病気になった人のファンタジィっぽい話なんだって思う。
私は少しショックを受け、そういう気持ちになることないんだ、とつぶやいた。ない、と彼女は繰り返した。そんなのってそこらへんにごろごろ落ちてるもんじゃないと思うんだけど。
私は少し途方に暮れて、それから説明する。ああいう現象はそこらへんにごろごろ落ちてる。いろんな人がそうなる。強烈なやつだと、世界が変わって見える。すごく美しく見える。あまりに世界が美しいので立ちつくしてさめざめと泣く。そこまでいかなくても、なんとなく楽しかったり、そのくせすぐ悲しくなったり、ふわふわっとした気分になる。
彼女は心底あきれた顔になって、それじゃまるっきり、ただのばかじゃないの、と言った。
ああ、ばかだとも。恋というのは要するに特定の対象にわけのない幻想と執着を抱くことなのであって、お利口のもとであるところの客観性からどんどん遠ざかるのは必然といえる。彼女は客観的でおおむね正しく、だからそのことがまるで理解できないのだろう。
私はそう思って、でもなにも言わない。彼女は小さい声で話す。お話にあるから、この世にはそういうこともあるんだろうと思ってたけど、まさかそんなにたくさんの人が経験しているとはね。だいたいの人たちは人情っぽい好意と合理的な判断で一緒にいるものだと思ってた。ときどき知っている人が浮かれてたけど、私にはあんまりそういう心境を語ってくれなかったし。
よほどのこと仲の良い相手でないと、あんまり縷々語るものでもない。なにしろみっともないし、表現しにくいし、気恥ずかしい。そんなことより相手のことをしゃべっていたほうが楽しい。
でも私にも一回くらい、そういうことがあってもよかったな。彼女はそう言って顔ぜんぶを使ってくしゃくしゃと笑い、私をかなしい気持ちにさせた。

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