傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女の円い眠り

彼女は山手線の大崎駅からいくらか歩いたところに部屋を借りている。彼女は夜遅くそこに帰ってゆっくりとお風呂につかり、少し眠って身支度をして早朝のうちに家を出る。
そしてまた眠る。山手線の中で、綺麗なグラデーションに塗ったまぶたを閉じて、ビジネススーツを着て、膝をきちんと揃えたままで。いちばんいい席は壁際で、そこでならいくらでも眠れるのだそうだ。彼女の頭は会社の最寄り駅のアナウンスをしっかり覚えていて、それが耳に入るときっちり起きて降りる。そのほかのアナウンスでは起きないのかと訊くと、不思議そうな顔をして、いいえ、ときどき寝入りばなや寝起きに聞くけれど、とてもいい気持ち、夢みたいにやさしい声、と言う。
どうして山手線なのと訊くと、彼女はごく当たり前のことを親切に教えるときの口調で、終点がないから、と言った。終点がなくって、遠くへも行かないから。私、電車のなかで眠るのが好きなの。電車の中では安心して眠れるの。ずっと前からそうなの。彼女はそう説明し、私はうなずく。そういえば彼女は、電車に乗るととても素直な、どこか小さい子のような、おだやかな顔になる。あれはきっとねむたいときの顔なのだ。
彼女は就職活動をするときも、山手線上に勤められることをだいじな条件としてひそかに持っていたのだという。よく眠れるから、と彼女は言う。中央線や総武線はだめ、とんでもないところに連れていかれてしまうから、逗子って知ってる?私行ったことがあるの、眠っていて連れて行かれたの、とても遠いの、あと成田や、土浦や、大船も遠いの、山手線はすてき、ぐるぐる回って、どこへも行かないから。
私が時計を見ると、彼女は一緒に出ましょうと言って、私たちは駅に向かう。
このまま帰るのと訊くと、彼女はふわふわと浮き足だった様子で、一周していく、と言う。座れないから眠れないでしょうと訊くと、とても可笑しそうな声で、いやね、立ってたって眠れるじゃない、と言う。あれはあれでなかなかいいものよ。
私は地方から引っ越してきたばかりだったので、そのときようやく気づいた。彼女はきっと、大崎が山手線唯一の終点だから、そこに住んでいるのだ。

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