傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

テレビみたいな人

彼はわりに早い時期から「他人と世界は一定以上理解することができないものだ。なにか特定のものを深く理解する動機もない。適当に表面をさらってうまくやっていけばいい」という信念を持っていた。
だから彼の努力はすべて、最大多数にとっての価値を獲得することに向けられた。有名な大学、有名な会社、花形とされる部署。およそ誰とでも話せる人当たりのよさ、相手の求めるものを察知し、その場に適応する能力。どんな分野の話題でも十分は話せる広範な、しかし掘り下げられることのない知識。
彼はだから、「俺はテレビだ」と言う。テレビは多くの人にとって必要な、自明の存在であり、簡単にチャンネルを変えることができ、深みがないからこそ接する上でのストレスが少なく、ときに華やかでセンセーショナルで、でも決して、与えられた大きな規則を破ることはない。
「それが物足りないこともないわけじゃない。でも路線変更はしない。なにしろテレビにはいろんなものが支払われる」
彼がそう言うので、私は何が支払われるのかと尋ねた。彼は派手に笑って、まじかよ、馬鹿か、そんなの誰にだってわかる、と言った。
「つまりさ、滅多なことじゃつぶれない会社でそれなりの給料をもらえて、退屈じゃない仕事ができるんだよ。いろんなところで優遇されるし。それで親は安心する、たくさんの相手とうまくいく、女の子にもてる。可愛くてスタイルがよくて、大学出たてくらいで、気が利いて、頭も悪くない女の子たちに。そしてそういう女の子の誰かがいずれ俺の奥さんになるわけ。でもまあ、わかんないか、センセイはテレビ持ってないからな」
彼はときどき私をセンセイと呼ぶ。ファーストネームのあとにつけて、あからさまな揶揄として。
その呼び方、やだな、と私は言う。なんだか女教師もののアダルトビデオのタイトルみたいでいやだ。
彼は見せつけるように品のない笑いかたをして、似合う似合う、眼鏡とタイトスカートがほしい、と言う。