傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

へその緒を切る

クビになってよかった、と彼は言った。
彼はそれまで、自分は仕事が好きなのだと思っていた。毎日終電で帰り、ときには会社に泊まり、土日はどちらかだけ休み、そのうちほとんどの時間を眠って過ごした。彼はインターネット関連のエンジニアで、自宅にも仕事ができる環境を整備していた。それで彼は、家にいるわずかな時間にも作業することがあった。年末年始などで会社に入れないときには、自宅の環境はとくに役に立った。
昨年、彼の会社は大幅な人員整理をおこない、彼は事実上、解雇された。
彼は苛ついた。それから落ちこんだ。その次に彼は、職場でしていたようなことを自宅でするようになった。以前と同じように睡眠を削り、長時間ひたすらに。
彼の同業の友人は、その話を聞いてこう言った。
「次の仕事が決まるまで好きなものをつくるって、すごくいいことだと思う。僕がクビになってもそうする。だって失業したらたいていの人は自信をなくしちゃうし、技術者が自信を回復するにはいいものを作って誰かに喜んでもらうのがいちばんだからね」
彼はその台詞を聞いて、後ろから殴られたような気がした、という。
なぜなら彼はいいものを作って誰かに喜んでもらいたいなんてちっとも思っていなかったからだ。彼がしていたのは「うしなった職でしていたことと類似する作業を繰り返す」ことであって、なにかの生産では実はなかったからだ。その作業を楽しんだことなど、実は一度もなかったからだ。
彼は自分にとっての仕事がなんであったかを、離れてはじめて知った。彼には深い欠落のようなものがあり、気づかないふりをしつづけたいなにかがあった。だから彼は穴の空いた部分のもたらす痛みや、彼になにかを求めるものたちの声を無視するための麻酔薬を必要とした。彼にとっての仕事はそういうものだった。その他の世界をぼんやりと遠ざけるための装置だった。好き嫌いの対象ではなかった。
彼の友人は「どんなものを作ってるか教えてくれたら、話が合いそうな人を探すよ」と提案した。彼はありがとうと言った。ありがとう、でも今は仲間とかは必要ないんだ、でもほんとうにありがとう。
彼は今、新しい会社に勤めている。そして仕事が好きだと言う。
「もちろん、つまんないこともいっぱいある。会社に行くのがいやになることもしょっちゅうある。でもおもしろいこともあるし、やっていて気分がいい作業もある」
以前は会社に行きたくないと思ったことがなかったし、おもしろいと思うことも、気分がいいと感じることもなかったのだという。
「なにより、一度離れてみたら、この業界はいいなと思った。だって、おもしろいよ、インターネットとか。前はそういうこと考えてなかった。『インターネット』みたいな広範囲なものが意識の中に入ってくる状態じゃなかった。僕は与えられた仕事の中に浮かんで生きてて、へその緒みたいなチューブがついてて、でもほんとの赤ん坊とは違って仕事のほうも僕をちゅうちゅう吸い上げてる、みたいな状態だった。クビになって強制的にへその緒が切れて、やっとまともに好きになれたんだと思う」
それに、と彼は少しためらってから言う。
「目をそらしていることって、だいたい虫歯みたいなもので、麻痺しているうちに穴がじわじわ大きくなる。いつかは痛みをちゃんと感じて治療をしなくちゃいけない。もしかしたら一生痛いかもしれない。でもそのほうがいいんだ、痛かったり気持ち悪かったり、たまに楽しかったりするほうがいいんだ、なにも感じないよりいいんだ、絶対。最初は仕事で麻痺しなきゃ耐えられなかったんだと思う。でも耐えられるまで強くなったら、それを切り離して自分の足で立たなきゃいけない。そしたら仕事はべつの意味をもつ。もっといい意味をね。だから僕はクビになってほんとうによかった」