傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幸福に帰る

 重いでしょう、と彼女が言う。重いねと私はこたえる。ごめんねと彼女が言う。誰かに聞いてほしくて。ひとりじゃ受け止められなくて。
 こういう会話は何度目だろう、と私は思う。何十回もしたと思う。私は、人の話を聞くのが好きだ。何を聞いてもおもしろがっている。おもしろおかしい話じゃなくても、今日みたいに重苦しい話でも「おもしろい」。要するに他人をコンテンツだと思っているのだろう。不幸な話であっても、自分まで苦しくなることはない。その場では喉の奥からなんか上がってくるような感じがするけど、引きずらない。共感能力というものがあんまりないのかもしれない。
 けれども私はそのことを言わない。ちゃんと共感しているいい人みたいな顔をしている。善良で友情あふれるまともな人みたいな顔をしている。そのほうが得をする。友人だからといって自分の卑しいところまで見せる必要はない。そういう種類の嘘はほかにもいくつもついている。積極的な嘘ではなく、誤解を解かないという程度の、嘘。
 かまわないよと私は言う。私はあなたの配偶者と友だちになることはない。だからあなたの配偶者についてどういう話を聞いてもぜんぜん問題はない。受け止めきれない話を聞いたら私みたいに害のない相手に吐き出してすっきりするといいんだよ。あなただけじゃないよ。みんなそうやってバランスを取っているんだよ。
 そうねと彼女は言う。でもねえ、わたし、昔は、そうじゃなかった。好きな人が本人にはどうしようもない要因で過大な苦しみを負っているようなとき、わたしは、誰かに話してバランスを取ろうなんて思わなかった。バランスなんかどうでもよかった。一緒に苦しむことが愛だと思っていた。今でもそう思う。でもしない。夫の苦しみを一緒に苦しんで何もできなくなったりしない。仕事してごはんつくって食べて子どもの面倒みてお盆の帰省の手土産を買ってマンションの自治会の集会に出て、ねえ、わたしは、笑ったりもして、平気でいるの。
 彼女は平坦な声でそのように話して、それから、自分の発言に対する証拠のように、笑う。いつでも出力可能な、健全で歪みのないほほえみ。私たちはとうにそれを習得している。いいことですよと私はこたえる。私たちは自立した大人だから、必ず幸福な状態に帰ってくる。私は思うんだけど、不幸なままでいたら、自立はできない。地盤としての幸福をかためなければ私たちは自立することができなくて、その幸福は、誰かがいてくれるとか何かを持っているとか、そういうのではなくって、生きていることがだいたいいいことだという、確信みたいなものなんだ。
 私たちはもちろんいろんなものを手に入れるし、いろんなものを失う。昔は、すてきだと思った男の人に相手にされない程度のことでも世界が終わるような気がしたものだけれど、今はもちろん、そんなことはひとつの爪痕も残さない。世界は平常に運行される。些末なことだけじゃない。生きていれば思いもよらないことだって起きる。うつくしいことも、恐ろしいことも。人は病気になるし、死ぬこともある。私たちが誰かを愛したって、相手に何ができるわけでもない。愛したって病気になる。愛したって死ぬ。私たちは息がうまくできないような痛みを長く長く感じる。それでも、世界は終わらない。どれほど痛みを感じても、私たちは、幸福に戻るの。そこが私たちの帰るところなの。私たちの幸福は、もう、誰からもほんとうには奪われることがないの。
 私の長い宣言が終わると、彼女は息をついて、そうね、とつぶやいた。それはとても、いいことね。でもわたしは、そんなもの、投げ捨ててしまいたい。自治会役員なんて、手土産の調達なんて、部屋の掃除なんて、できなくなってしまいたい。娘を抱きしめて泣きわめいて過ごしたい。いつもどおり仕事をしているなんてばかみたいだと思う。動揺して仕事に支障をきたすのが愛情だと、どこかで思っている。こんな状況でもごはんがおいしいなんておかしいと思っている。幸福になんか帰りたくないと思っている。
 そうだね、と私は言う。自立した大人であることなんか、投げ捨ててしまいたいよね。私が無神経だったね。いいのよと彼女はこたえる。結局のところわたしは、何もかもうまくやりつづけるんだから。ちょっと拗ねてみたかっただけ。この人はやさしいなあと私は思う。大人になると、感情を吐き出すときにさえ、相手に気を遣う。そんなものこそ投げ捨ててくれたらいいのに、と思う。理解と共感に欠ける私を罵り、おまえはなにもわかっていないと言ってくれてかまわないのに。