傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

それを擬似的に手に入れるための二つの方法

 骨、と彼女は言う。ここの骨が出ているのは普通じゃあないのよ。指がわたしのその、意識したことのなかったラインをなぞり、離れる。口をあいて上を向いてこのうえなく無防備な、銃口をくわえて殺されるのを待つ人みたいな顔を、わたしはゆるゆると常態に戻す。真冬の平日の夜の繁華街にほど近い住宅地の、古い木づくりの家を改装した、小さい三和土で靴を脱いで上がる、決してフローリングなんかではない板張りのカフェの、すり切れかけた黒革のソファの、よく磨かれた木枠に肘から先をあずけた、等閑な大人の顔。家にいるみたいに彼女はくつろいで、まるで家族みたいな顔をして、わたしを見ていた。
 そんなわけで上口蓋の骨に出っ張ったところがあるのって、普通じゃないのですって。気になってお医者に行ったら、わたしのはどうやら歯ぎしりが原因みたい。そのように話すと、マキノは口を半開きにして、おそらくは舌を用いて自分の口中を探り、それから言う。出っ張りなんかないけど、みんなにはあるの。ないよとわたしは言う。みんなにはない。ある人にはある。わたしにもあった。歯ぎしりをしてそれでもって骨が過剰に育ってまんなかでぶつかってその線ができたみたい。歯ぎしりをして生きるのはつらいねとマキノが言う。そうだねとわたしはこたえる。つらいのかもしれない。でも気づかない。それをするときには眠っているし、横に人がいたって、やっぱり眠っているから。
 マキノは得体の知れないものを観るようにおずおずと私の顔を眺め、それからばりばりと音を立てて短い首を回し、ついでに肩を上下させて、言う。ねえ、あなたってそんなに簡単に人の指が口に入るのを許す人だったかなあ。わたしはだまって笑う。簡単ではない。まったく簡単ではない。目の前の人間がそれに気づくほどわたしを見てものを考えていると思ったことがなかった。少し動揺した。
 マキノは両手で不格好にスマートフォンを操作してからそれをぐいと押し出す。その人、こういう感じの人?小さいガラスに真新しいランドセルを背負った子とその母がうつっている。骨の細い小柄な親子。まるい目の下に皺を寄せて笑う母の髪は茶色く染めたくせ毛。子の髪は帽子でよく見えない。でもきっと似ているのだろう。
 わたしはそれに触れずに空を手で払う。マキノはにたにた笑ったままそれをしまう。私、子どもの写真もらっちゃうくらい、玲子と仲、いいからさあ。得意そうに言う。知ってるよね、だって、あなたがたまに連絡くれるのって、ほとんど、玲子の近況が気になるというだけの理由だものね。わたしの視界はさっと白く曇り、それからもとにもどる。あかるい声を出す。へえ、知ってたんだあ。
 わたしはマキノに関心を持ったことがない。だからよく知らない。わたしの目的がわかっていただけ、見直した。わたしが昔、どうしようなく引きつけられた女の子は、なぜかこのぼんやりしたのとやけに仲が良かったから、だから近づいた。若い時分には、親しげなそぶりをして拒絶されなければ、友だちと見なされた。それをそのまま、十五年ばかり引っぱった。マキノは言う。
 玲子が学生時代に好きだった人、いたでしょう、ほら、私たちの学科の、ちょっと人気あった先生。わたしはぞっとして、それから抗議する。マキノにそんなところまで踏み込まれるいわれはない。だって知ってるんだもんとマキノはこたえる。へらへら笑う。あのころ、玲子が好きだった先生、当時、講師とかだっけ、よかったねえ、おんなじになれて。わたしはマキノをにらむ。わたしは去年、准教授になったので、同じではない。そんな意味じゃなくても、わたしはあの男と「おんなじ」になんか、なれなかった。職種くらいしか、似せられるところがなかった。
 マキノはたぶん、特定の他人に対する長く激しい執着だの、身を切るような一体化の願望だの、そうしたものには縁がないのだ。だから平気で中年太りして、それをださい服で包んで平気で出歩いて、酒を飲んで楽しそうだ。うらやましかった。
 マキノは口をひらく。あなたは、あなたが好きだった人がかつて好きだった人と同じ仕事をしている。向いてたんだろうし、よかったなって思うけど、でも、たとえば今、誰かを好きになって、その人が別の人を好きなら、あなたはどうするのかなとも思う。あなたは、もうできあがっちゃったから、別の人とおんなじにはなれないよ。わたしはそれを鼻で笑う。マキノも笑う。わたしは手洗いに立ったふりをして、わたしの口蓋に触れた女の恋人からのメッセージを確認する。「彼女とうまくいっていないんだ」。わたしはほほえみ、返信を打つ。