傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

見えないなあ、聞こえないなあ

 なんなの今日、「中間管理職のかなしみをつぶやく会」なの、もっと明るい話題を出そうよ、そうだ子どもとか、向井のとこ、今かわいい盛りじゃないの。かわいいとも、ものすごくかわいいとも、でもイヤイヤ期ってやつでもある、もうたいへん、正直仕事よりたいへん、そんなわけで子の話題でもやはり愚痴になる、すまない、そうだ独身組こそ恋愛の話でもしろ、なんかこう華やかなやつを。ねえよ、そんなもん。そもそも自分が独身のときに華やかな恋愛をしたか思い出してみたらいいよ。
 遠い故郷に帰って就職した友人が出張で来ているというので学生時代の同級生と集まったら、話題がなんだかえらく地味で、それで誰かが抗議の声を上げたのだった。しかしそれも人生が順調な証左というものじゃあないかしら、と私は言う。私たちになんらかのささやかな役割が割りふられているのはそんなに悪いことじゃないでしょう、みんなこの年齢まで生きていて、それぞれの場所でこつこつやってきて、いくぶん認められている、というようなことでしょう。
 槙野その、生きてるだけでラッキィ的な考え、どうにかなんないわけ、暗すぎて一周回って相田みつをっぽいっていうかさあ。人間だもの。サヤカあんたそれ、職場のいやなやつを対象として起きる感情にも言えるわけ。私は少し考える。そうしてこたえる。わからない。すごい嫌いな人いる、目に入るからどうしよう、耳は閉じられないからどうしよう。人間だもので済まされない。
 心頭を滅却するのですよ、サヤカさん。ひとりが言う。彼はなぜかときどき敬語と敬称を遣って話す。合掌してみせる。腹黒くってどうしようもないお坊さんみたいだと私は思う。続きが発声される。ああ、見えないなあ、聞こえないなあ。なにそれ。これを三回、心の中でとなえる、そうしたらほんとうにその人はいなくなるんだ、そいつの姿が視界にあってそいつに由来する音が届いていても、僕の世界にいないから、返事だって平気でできる、僕の呪文のひとつ。誰かが軽く笑って言う。麻木さあ、いいやつだし俺は好きだけどときどき人間としてぎりぎりOKなこと言うよな。彼は小首をかしげる。OKならいいじゃないか。いや、ぎりぎり。そっちがメインなんだ。そう、そっちがメイン。
 サヤカその人、上の人、下の人、つまり、サヤカより。尋ねられてどちらかというと上、と私はこたえる。彼らは話しつづける。上ならまだねえ、自分の部下が嫌いな人だとほんときつい。そうそう、不公平になっちゃいけないから。でも嫌い。そう、嫌い、どうしようもない。ねえサヤカその人だめな人なの、いろんな人から見て。私は即答する。だめな人だよ、誰の悪口も言おうとしない慎重な人が、いいところ見つけられないって、言っちゃったの、私、聞いた。じゃあいいじゃん、それってラッキィだよ、いい人だったら、きついよ。なに瑞樹の部下にそういうのがいるの。まあね、私のアシスタント、有能で、頼んでないことまでしてくれて、私の仕事見ていつかそういうことができるようになりたいですなんて、おべっかも完璧、でも私は苦手、できればいてほしくない、でもそういうわけにいかない、評価はちゃんとしてる、評価は公平にしている、つもり、でも、できてるのかな、私。
 そいつ、男。誰かが唐突に訊き彼女は小さい声でこたえる。そうだよ、どうして。そいつが瑞樹を好きで、それが透けて見えるから、いやなんじゃないの、好きな相手以外に恋愛感情向けられると基本苛つくから。もてる男むかつくと誰かが言って言われた男は大げさに腕で頭をかばう。彼女はそれを見て笑って、言う。そういうんじゃないよ、ずいぶん若い子だし、私は、もしかすると、有能で若い人に追い落とされるのが怖いのかもしれない。
 嫉妬って手に負えない、と私もその会話に加わる。それも、恋愛じゃないやつ、人に指示をするようになって、相手にある種の権力を持っていて、それで相手に嫉妬したら、どうしようって、いつも思う。子どもの話をしよう。二歳の子を持つ向井が唐突に言う。子どもが生まれたときにいちばん持っちゃいけないと思った感情、やきもち、奥さん取られるんだって、そう思った、思っちゃいけなかった、だから、もう思わない。
 ああ見えないなあ、聞こえないなあ。全員がその声の主を振りかえる。彼は話す。これはいけないとみんなは言ったよ、でもみんなしているじゃないか、やめようよ、子どもに奥さん取られてやきもち焼いて、部下が若くて有能で妬ましくって、それでいいじゃないか、みんな目をあけて、耳のなかから指を抜いて、それからそいつを飼いならそうよ。