読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

目明きの恋

彼、才能ないから。友だちが言い切って、私はははあ、とへんな声を出す。それからなんとなく左右を見る。どうしたのと彼女が言う。私はもぞもぞと訊きかえす。いや、なんていうか、あなた、彼のこと、好きなんだよね。彼女はうなずき、それから眉を上げて言…

私のためにほほえまないで

職場の上長は有能であってほしい。それはもちろんのことだけれども、恐れ戦くほど有能じゃなくてもいい、私は思う。有能さと機嫌のよさの総計が高いほうがいい。どんなに有能でもやたらと不機嫌な、情緒の安定していない人のもとでは働きにくい。そう考える…

泣き虫、けむし

いつも笑われていた。だから物心ついたときには、隠すことに力をそそいだ。誰にも見られないところで、ひとりきりで、這いつくばって手早く済ませる。僕は早くから、そうしなければならないことを知っていた。嘲笑の要因をなくすことはできなくても、隠す技…

寄付への欲望

個人が個人にカネをやるのは精神的に負担が大きい。もらうほうにとってもあげるほうにとっても、なかなか危険なおこないだと思う。そう、あげるほうにとっても、実は負荷のあることだよ。自己評価が下がることもある。え?うん、まあね、あるよ。生きてれば…

人にカネをやるとはどのようなことか

彼はたいそう軽蔑したまなざしで私を見下ろし、キモ、とつぶやき、それから、やるの、と訊いた。エサ、やるの。私は先ほどから地面にかがみこみ、でれでれと猫をなで、気味の悪いことばづかいで話しかけている。そのようすがキモいことはまったく否定しない…

飛び込み営業スクリーニング

最初は、電話とか要らないと思ってた。固定電話。要らないじゃん。僕は要らない。でもうちの会社には要る。ファックスもある。この業界でもいまだにファックス使う人が残ってる。だから固定電話なんかもちろん、ぜんぜん現役だった。自分を標準だと思っちゃ…

三十代の余生

交通事故に遭った。乗っていた車が凍った高速道路でスリップした。前後左右に大型のトラックが走っていた。制御をうしなった自動車の動きを後部座席から見た。その数秒のあいだ、運転手は前後左右をみてより助かる確率が高い方向にハンドルを切っていたのに…

向こう側からの会釈

死者が私に向かってほほえむ。私は、それに慣れている。ときどきほほえみをかえす。彼らはとても遠いところにいるから、とても小さく見える。消そうと思えば私はそれを簡単に消すことができる。けれども、そうしない。 なんの不思議もない。ネットワーク上に…

あたりまえの朝の通勤

電車の席に座っている。隣の男が頭を強く掻く。視界の端にこまかい何かが落ちてくる。私は身を縮める。できるだけ満員電車に乗らない人生を選んできたけれど、ときには他者の都合に合わせなければならない。目の前には人が詰まっている。立錐の余地をぎりぎ…

夜逃げの部屋

何年かごとに、他人あての郵便物を受け取る。開封はしない。私のじゃないからだ。受け取り拒否の意思を示して郵便局なりダイレクトメールの発行元なりにかえす。 ひとり暮らしでいつも賃貸で引っ越しをよくするから、引っ越してすぐは前の住民あてのなにかが…

悪い魔術

この人たちは今、機嫌が悪い、とわたしは思う。よくはわからないけれど、少なくとも上機嫌ではない。直前の会話をふりかえる。何か気を悪くする要素があっただろうか。あるいはもともと腹を立てていたから絡みにくい返答をしたのだろうか。 わたしはさらに会…

正しさより必要なもの

ぜったいに病院になんか行きたくないと彼女は言う。ため息をつく。どうして自分の意思に基づいた行動を邪魔するのかと尋ねる。死ぬからだ、と私は思う。このままではあなたが、あなたを必要とする小学生の子どもと夫と老いた両親を残して、死んでしまうから…

生存率向上のための要件

マキノさんお金あまるでしょう、この歳になると。うん、ちょっとだけ余る、若いころと生活がそんなに変わらないからかな、家賃をすこし上げたくらい。そしたら差額が余る、と。そう、意識して切り詰めてるわけでもないんだけどね、根が貧乏性なんだと思う。…

そんなものはありません

私はつまらない科学の子なので、医療の場でもないのに血液型を訊かれると半笑いをかえす。いうまでもなく血液型は性格を左右しない。多くの場合、真実ではないとわかっていて会話のツールとする遊びなのだろう。そうであるにせよ、遊びとして幼稚だと思う。…

お母さんと呼ばれていたころ

わたしの兄は海外出張中に事故に遭い、現地の病院から動かせない状態になった。義理の姉の一報を受けて駆けつけたら、義姉の両親もいて、たいそう立腹していた。義姉は無表情だった。その腕のなかで生後三ヶ月の姪が眠っていた。 義姉から電話がかかってくる…

正しいバカンス

はい、これ。旅行?そう、年末年始だから食べもの系はだいたい配り終わってて、こんなのだけど。ううん、うれしいよ、ありがとう、年末年始はけっこう休めた?今回は死にかけの有給を救ってあげることができた。珍しいね。うん、わたしの有給はだいたいむな…

あの島

十代のころから肩と背中が凝る。学生時代、何をしたら治るだろうかと訊いて回ったら、鍼灸をやっている人から、若くて動けるんだから指圧も鍼も灸も後まわしで運動しろと言われた。動かしてほぐす、腕を回せ、腕を。運動歴は?中長距離か、それなら水泳かな…

ふたりきりの祝祭

冷蔵庫を空にするのは楽しい。ふたり暮らしで、それなりにまめに料理をしていて、それでも忘れていたようなものが出てくる。冷凍庫の中身をかたっぱしから出していた彼が尋ねる。きみ、いつのまにかこんなの買ってたの。こんなのって?フライパンから目を離…

夢三夜

久しぶりに夢を見た。 彼女は目を覚まし、詰めていた息を吐き、いつもと同じように起床の儀式をおこなった。彼女は個人的な就寝の儀式と起床の儀式を持っている。起床の儀式はベッドのなかに入ったまま何度かまたたきをし、片手でカーテンをあけるところから…

あなたはこれを好きだった

はい、これ、いっぱいもらったから、お裾分け。私がそう言うと彼女は小首をかしげ、それから、笑った。声を出して笑う彼女を久しぶりに見て私はうれしかったけれども、その笑いにはもちろん屈折が感じられた。 ハンドクリームは二本目、と彼女は言う。ボディ…

さよなら幻の不惑

今年はおたがいいろいろあったねえと藤井が言う。いろいろあったと私も言う。「いろいろ」の内容をおおむね話しおえるとデザートにたどりついている。いつのころからか年末にふだんより張り込んで祝祭的な食事をとることが、私と私のいちばん古い友人の年末…

一時避難所として必要な技能

自分には子がないくせに小さい子のいる家に行くのがわりと好きで、呼ばれるとにこにこして行く。それだから私は数名の子に「ときどき来るおばさん」として認識されているんだけれど、今年は久々に新生児が誕生した。自分が産んだのでもないくせになんとなく…

やまとなでしこの声

お高く止まって相手を品定めしな、と私は言った。そして粗雑に、凶暴になる。あなたと同じくらい美しいけれど凶暴な友だちがいてね、ふたりで話してて知らない男から「お綺麗ですね」って言われたときなんか、一瞥だけくれて、「存じております」って返して…

口説く男を憎まないためのたったひとつの条件

そうだ今日は男の人から口説かれたのに不愉快じゃなくてね。不愉快じゃないのは珍しいからうれしかったよ。つきあうことはないだろうけど、なんだか感謝しちゃう、私の世界の殺伐度がすこし下がった気がするから。 彼女はそのように話す。殺伐度、と私は思う…

部分的自己開示と嘘の化合物

えー、独身なんですかあ。彼氏は当然いますよね。え?意外。ていうかもったいないです。見る目ない男多いですね?鶴見さんこんなにキレイで仕事もできるのに、なんなんでしょう。だめなやつ多いからなあ。あ、もしかして鶴見さんのほうから振っちゃうんです…

考えるのは寝てからになさい

彼女は疲れていた。どうしてと訊くと、わかんない、とこたえた。はじめてがんばってべんきょうしたからかなあ。わかんない。とにかく疲れた。私たちは高校一年生で、夏休みを控えていた。 みんな中学とか小さいころから、なんかこう、すごい塾とか行って勉強…

持ち上げられ中毒

私の連絡先リストには見えないタグがいくつかついていて、つまり私にだけ認識されているタグということなんだけれども、そのうちのひとつに「待てない人」というのがある。どんなに些末な用件でも二十四時間以内に回答しないと追撃が来るのだ。最初のメール…

悪いメビウス

その男の顔立ちは中学生の面影を強く残してはいなかった。けれども私にはすぐにわかった。私が知るかぎりもっとも卑しい声をその男は持っていた。大人になってもそれは変わっていなかった。よりくっきりと、臭気を強くしているように思われた。それは背後か…

死にまでいたる恋の完成

結婚は死にまでいたる恋の完成である、などというせりふがありますが、あんなのは嘘です。なぜ嘘かといいますと、多くの家庭では、恋をしたといって結婚して、そのあとはすっかり、稼ぐなり世話をするなり、家庭での役割になじんで、恋もへったくれもなくな…

大人は後追いいたしません

子どもが後を追ってくる。 ふだんは落ち着いた子だ。うんと小さいのに人見知りもあまりせず、何度か遊んだら私の名前も覚えてくれた。ただし発音はあやしい。それがまたかわいい。そうしてぐずったり泣いたりはあんまりしない。多少のかんしゃくはあっても、…

感情の解像度

一昨年の四月、私のチームに新人が入った。まっさらな新卒だ。経験はもちろんなかった。しかし、驚くほどよく勉強する。ひとつ知らないことが出てくれば十は調べてくる。作業スピードが異常なまでに速い。しかも長持ちする。長時間の残業や休日出勤のあとも…

その苦しみは誰のもの

彼女が離婚を告げると夫はいやだという。離婚する理由がないという。彼女は不審に思いながら説明する。だっておなかの子はいなくなっちゃって、私はもう産めなくなったのよ、私の不注意で。事故は不注意じゃないし、そういう問題じゃない、と夫はいう。子ど…

ロストデイズ・リハビリテーション

彼は友人夫妻を招く。彼は学生時代の仲間を招く。彼は親族を招く。彼は料理が得意だ。買って二年も経っていない、高性能のオーブンレンジを使う。なんか焼いて。彼女はよくそう言った。なんか焼いて、おいしいやつ。だから彼はそうした。彼女はかんたんな料…

ストレスなんかありません

マキノさんはのんきでいいねえ。ストレスなんか、ないんでしょ。 ありませんねえ、と私はこたえる。表情のバリエーションというのはこまやかな感情や感覚のやりとりに用いるためにあるので、この手の相手には三種類しか要らない。笑顔のようななにか、無表情…

編み込まれたパズル

やたらと交友関係の豊かな友だちが年に一度、山と海があるところに大勢の人を呼ぶので、都合がつけば私も行く。何度か見た人と初対面の人と、この場の外でもつきあいのある人がいる。みんなで炭に火をつけていろんなものをてきとうに焼いて食べ、小さなグル…

グラノヴェターによろしく

ありがとう、ありがとう、ほんとに助かったよ、今度なんかおごるし、それだけじゃ足りないから、ええと、こないだ旅行先で見た古代の祭壇みたいなのにあなたを乗っけて秋の収穫を捧げてははーって祈る、心の中で。私がそう告げると彼は笑ってマキノの空想は…

隠された対立

家にいるので暇だろうと言われる。暇ではない。ずっと、何かしている。二歳の子と遊んでいるのは文字どおり遊んでいるのだと思われている。夫が子と遊ぶのは自分が遊びたいときだから、そう思うのかもしれない。夫はそのような自身をイクメンと称する。凝っ…

幽霊を作る

そうそう、こないだたまたま、ハルナと連絡取ったんだ、元気そうだった。旦那さんとすごく仲いいんだね。 友人からのメッセージの最後の一文で私は一時停止する。すこし考える。それからその話題を思考の外に置いて三日間寝かせる。結論が出る。正解のない結…

愛なき世界

すれ違いねえ。そう、すれ違い。ほんとはおたがい好きなのに、ってやつ。それじゃ話は簡単じゃない、いや、そのふたりの話自体は、ぜんぜん、簡単じゃないけど、解決策は単純でしょ。どうすればいいっていうの。そりゃ、第三者が、お互い誤解してるよって言…

一身上の都合 二人目

あの、私、このチーム、辞めたいんです。 チームに不満があるわけじゃなくて、すみません、個人的なことで、たぶん社会人失格な感じの理由なんですけど、マキノさんが、話してもいいって言ってくれたから、話しちゃいますけど、いきなりクビになったりはしな…

一身上の都合 一人目

会社を辞めます。 辞表を作る前にまずは直属の上司に話をするって、検索したら出てきたので、お時間いただきました。辞める理由は「一身上の都合」でいいんですよね、すみません、ゆとりで。あ、マキノさん、世代で区切ってなんか言うのって嫌いでしたよね、…

のらりくらりと逃げている

今は毎日なにしてるのと訊くと掃除、と彼はこたえた。古いものって手をかけてやらないとあっというまに荒廃して人の気分を悪くさせるから。ボロ屋はボロ屋でも清潔であればそう悪くないものなんだ。僕は掃除に関してはけっこう有能で、一週間と一ヶ月と半年…

子どものあの質問に対する良き回答の例

ママはどうしてちんちんがないの? 来た、と彼女は思った。それから「ママには」が正しい、と思った。でも言わない。まだそこまでの言語能力を要求される年齢ではない。彼女の子は実によく質問をする。親を歩く辞書みたいに錯覚しているきらいがある。ある程…

鯨骨生物群集 他人

久しぶりに「恋愛」をしたという彼女の話を聞いて私はできるだけ薄汚く笑った。よく飽きないねえ。私の下卑た口調を期待していたにちがいない、冷ややかな目が私を見下ろした。私たちはL字型に席をとり、うつくしい庭に面した、たぶんこのお店ではいちばんい…

鯨骨生物群集 次女

十五のとき、作りたての高校の制服のスカートが短いのを父親に嘲笑され、めくられたいのかと言われて、実際にめくられた。下には常時短くしたジャージをつけていた。短いスカートを履いて帰宅したら晩酌を始めた父親に呼ばれてめくられることを、私はたぶん…

鯨骨生物群集 母親

ええ、はい、どうもその節は、主人もお会いできてよかったと申しておりました。あら、そんな、どうぞお気遣いなく、そうですか、ではそのように主人に伝えます。 子どもたちですか。今は長女の子の面倒を見るのがね、楽しいやら大変やらで、ええ、孫育てって…

鯨骨生物群集 長男

べつに何も考えてなかった。考えてなくても、暗黙の了解、みたいなものはよくわかってた。子どものころから空気は読めるほうで、間違ったら長姉がちゃんと教えてくれて、だから中学でも高校でも、それなりに過ごした。それなりにというのはつまり、目立つ連…

鯨骨生物群集 三女

ちぇりぃちゃん、卒業式はいつう?尋ねられて無愛想にこたえる。ここ三年ほど「チェリーちゃん」という、父親しか使わないあだ名が心底いやになり、ほぼ無表情で回答している。今日は土曜日、年に一度ばかりあることだけれど、部下を連れてきて私たち姉妹に…

鯨骨生物群集 長女

きょうだいのいちばん上というのは損なものだといつも思っていた。四人もいるからいちばん上の私の責任は重い。妹がふたりいて、上の子はぼおっとしているかと思えば急にわけのわからないことを言い出して親を怒らせる。見た目がひどいから余計に腹立たしい…

伝聞と嘘とほんとうの配合

サヤカあんたさあ、嘘つくじゃん、ブログで。うん、ついてる、というか、嘘つきますって宣言して書いてるから、一般的には、嘘をつくというよりフィクションを書いてるというんじゃないかな。純粋にフィクションでもないじゃん、たまに、ほとんどそのまんま…