傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

すべてのシステムに必要なメンテナンス、あるいは根性の育成について

今日ぜったい定時で帰ります。残業しません。五分だってしません。 彼女がそう言うので、もちろんですと私はこたえた。よそはどうだか知りませんが、うちのチームでは定時退社に上司の許可なんか要りません。根回しも要りません。定時が来たら帰るのは当然で…

一人称の消失、またはありふれた怪談

主人を起こす一時間前にそっと起床する。振動のみの目覚ましをセットしてはいるけれども、ほとんどの場合、決まった時間に目が覚める。主人を起こさないようにそっと行動する。洗顔を済ませ、洗面台をタオルで拭きあげ、新しいタオルを出す。洗面所のなかで…

策を弄さない勇気

傷つきました、と彼女は言った。会議室の端までよく通る声だった。そうして、とても静かな物言いだった。私は職場にあってもいろいろの感情が顔に出るたちで、「素直でわかりやすい」と言われるけれども、彼女は私と反対に、淡いほほえみがデフォルトの、に…

教育の欠如と欲求の不満がもたらすもの

くそばばあ、かあ。彼女は言う。うん、くそばばあ。私はこたえる。ことのほか気合の入った長文の罵倒メールを受け取ったので、法律家の友人と遊ぶついでにプリントアウトを持ってきたのだ。友人はげらげら笑い、よう、くそばばあ、この差出人によるとくそば…

お知らせ

Webメディア「りっすん」に書き下ろしを寄稿しました。本日公開です。 「当たり前のこと」ができないと思っていた また、少し前に「週刊はてなブログ」からインタビューを受けました。 『傘をひらいて、空を』槙野さやかさんインタビュー。「文章を公開する…

孔雀の雄の尾羽の種類

浮かれた人というのはおおむねいいものだ。見ていると気分がよくなる。みんなうきうきすればいいし、浮き足立てばいいし、明るい未来を思い描けばいい。そう思う。けれども、浮かれている人の浮かれている原因が目の前で叩き潰されることがあきらかである場…

忘却のスイッチ

私は忘れっぽい。荷物を手元から離すと高い確率で忘れて降りる。買い物帰りには電車の中でも袋の取っ手を手首に通して膝の上に置く。多くの大人が「今、かばん以外のものを持ち歩いている」という意識を保っていられることが信じられない。今日も受け取った…

前菜のない人生の話

仕事で知りあった人が自分のプライベートについて話すのはおおむね、好意のあらわれである。自己開示というやつだ。まれに「もう黙れ」という意味をこめた開示もあるが、継続的に楽しげに自分について話すのはだいたい好意によるものだ。伴侶の話だとか、子…

ピーマンの焼きびたしの作りかた

ピーマンのあれを作りたい、とぼくは言う。あれって、と妻は訊く。あたりまえだ。質問が具体性を欠く。ぼくは反省しながら質問をおぎなう。つまり、ぼくは、時々きみが作るピーマンの、ピーマンだけの、あれを作りたい。苦みが残ってて、なんだか甘いやつ。 …

義務と娯楽

お疲れ、と言う。つかれた、と彼女は言う。教科書どおりの膝下の礼服を着て二重のパールのネックレスをさげ(一重でないのは弔事でなく慶事であるというコードのひとつだ)、よく見れば生け花としてはやや前衛的に配した生花を胸につけている。 そのコサージ…

彼女の失敗した結婚

わたしの結婚はねえ、と彼女は言った。失敗だったわよ。なくてもよかったものだったのよ。仕事だってそう。わたしはちょっと美容院をやって景気のいいときに土地を転がしただけよ。かれはかれにしかできない仕事をしたから、わたしよりはましね、でもたいし…

人格の責任

名家というのが今どきあるかは知らないけれども、歴史と伝統と家業と土地と財産のある家なら知っている。知っているというか、わたしのクライアントに複数そういう家がある。わたしは出入りの業者のようなもので、ただしその出入りは不定期だ。 本家だの分家…

愛がなくては住むところもない

また拾ったの。私のその発言は質問ではない。確認だ。友人が相続した細長い建物の、その一階は元工場で、いまの季節は事務室だった空間に灯油ストーブを常時稼働させてようやく適温になる。居住性が高いとはいえない。その一階に友人が布団を出して寝泊まり…

愛と希望が救えないこと

わたしは愛と希望で満たされている、のだそうだ。たぶん息子ふたり、夫(むかしは恋人)、あと両親と妹を指しているんだと思う。あるいは仕事があるという意味かもしれない。 今、ぜんぶ、どうでもいい。 わたしたち夫婦はどちらかになにかあっても子を育て…

買母の量刑

ただいまあ、という。おかえり、と返ってくる。週に一度はあまり残業をせず、夕食といってよい時間帯に帰ることにしている。月に何度かは作りたてのごはんを出したいという母と、疲れたら作りたてのごはんを食べたいというわたしの思惑が一致して、なんとな…

孤独死OK、超OK

いつもより早く起きる。川を渡り、友人の家まで歩く。友人の犬を連れて河川敷を走る。犬は往復の道で私を先導し、ときどき私を振り返り、信号ではぴたりと止まる。引き綱をつける必要もほんとうはない。でもつけてほしいと飼い主は言う。顔見知りじゃない人…

飛行機とサンダル

取引先での会議がいつになく長引いた。彼は腕時計の盤面を視界の端でとらえ、直帰、と思う。よく来る場所だから、道はもう覚えていて、通り道も固定されつつあった。でも、と彼は思う。今日は、帰ってすぐ寝るような時刻でもないから、ちょっとうろうろしよ…

つまらない顔

年に一回、化粧品を買う。毎日きちんと化粧をするのではないから、スキンケアと日焼け止めと粉は買い足すけれども、色を塗るものは一年保つし、なんなら余る。なにごとにも流行はあり、最新の、とは言わないけれども、年に一度、簡易なメイクとフルメイクを…

明るい人の明るい理由

あけましておめでとうございます。あ、アウトだ、これ。 渡部さんがそう言い、私はあいまいに笑う。視界に入っている他の二人も、おそらく同じような表情をしている。私たちは社内読書部(会社非公式。活動内容・ときどき都合のついた者が集まってランチ会ま…

背泳ぎができるようになった話

背泳ぎができないと思っていた。 十九のとき、つきあいでプールに行ったら、予想に反してひどく楽しかった。すぐに競泳水着を買い(つきあいで行ったプールではひらひらしたのがついたセパレートの水着を着たのだけれど、本気で泳ぐためのものではないことは…

アレルギーかもしれないので

乾燥ですね。医師はそう言い、わたしは、はあ、とはい、の中間くらいの声を出す。それから尋ねる。病気じゃあないでしょうか。アレルギーとか。アレルギーはありえます、と医師は言う。とくに、職場や住居など、よく身を置く環境が変わって皮膚にこういう、…

まず、ストレスを与えます

そうしてそれを解消します。あたかもその人が「自分で解消させた」かのように。 私はちょっと困惑し、一秒後にはすっかり感心して、口を半開きにしたまま、彼女のせりふの続きを待っていた。それから気づいた。あ、今のもですか。彼女はうっそりとほほえんで…

無駄のない生活

僕の生活には無駄がない。 朝は五時に起きる。ごく軽いストレッチと筋力トレーニングを済ませ、シャワーを浴び身支度をして部屋を出る。僕の住んでいるマンションでは二十四時間ゴミ出しを受け付けてくれるけれど、その恩恵にあずかっているのは僕というより…

親になったらわかること

親になったらわかるって、言われるんですけど。若い部下が言う。彼は名を山田といい、たいへん優秀であって、しかしかなり繊細であり、私はよく彼の悩みごとなどを聞く。夜の、人のすくなくなったオフィスで、なんとなく開始した休憩の途中、複雑な家庭の事…

私の職場の亡霊の話

帰ったふりしてオフィスにいちゃだめ。仕事の持ち帰りも禁止。社外でのメールチェックも控えるように。あと有給、最低でも三割は消化して。言うこと聞いてくれないと、僕、泣いちゃう。 上長がそう言った。私が言われたのではない。私は頼まれなくても有給休…

心めあて

忙しいのに来てくれてありがとうと僕は言う。それから、どうしてと訊く。こんな時間に来てもらうなんてあきらかに僕のわがままだよね。どうしてそんなに甘やかしてくれるの。 僕はそのようなせりふを、できるだけ軽く発する。あなたに気に入られようと思って…

夢の腐敗

わたし、夢がないんです。彼女はため息をついてそう言った。そうですかと私はこたえた。それは夜に見る夢ではなく、「きりんになりたい」とか「マラソンでサブスリーを達成したい」とか、そういう夢でもなく、「将来就きたい具体的な職業がない」という意味…

被差別売ります

もてるよねえと女たちは言う。可愛いものねえと私も言う。そんなことないですよおと彼女はこたえる。その回答はありふれているのにとても愛らしく、ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい視線とともに発せられる。私は感心して、それから、言う。ねえ、も…

信じてなかった。愛してた。

信じてたのに。隣の部署で働いている社員が悲痛な顔をし、ため息をつく。その発言により、会社の飲み会の一角が「妻に裏切られた彼をなぐさめる会」としてセッティングされてしまい、私はどうやって離脱しようかと思案する。 妻は家事をするもの。育休中なら…

頭のなかの寄生虫

おめでたー?ね、そうでしょ、おなかちょっと大きくなってきたわね?はじめは辛いわよねー。気をつけなきゃいけないことも多いし! テーブルをはさんで対面している取引先から裏返った声が浴びせられて私はとっさに当たり障りのない表情をつくる。いいえ、と…