傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

だからその上に薔薇を

 1992年11月26日、14歳の少女Aさんが実父Bさんを椅子で殴打した。Bさんは脳震盪により一時意識を失い、軽傷を負った。Bさんが倒れた直後、Aさんの実母CさんがAさんの後頭部を掴み顔を壁に複数回たたきつけた。Aさんは前歯8本を損傷、その他の軽傷を負った。Aさんは直後に110番通報、「実父からの性的加害を防止するために椅子で殴った」「実母は実父に逆らった自分に激高して自分の顔面その他を壁にたたきつけた」と供述した。AさんBさんの双方に殺人の意思はなかったとされている。

 「ありふれたニュースだよ」。のちの元少女Aさんは言った。「だから誰も覚えていないでしょう」。 

 わたしたちの平和な大学で、彼女はものすごく目立っていた。髪はまだらな坊主、前歯がなく、左頬に大きな傷があった。それから頻繁に顔や首に蕁麻疹を浮き立たせ、まぶたや手足をしょちゅう痙攣させていた。教員は全員その状態をきれいに無視ししていた。

 ねえ、先週のノート見せてよ。英語の授業のあとで、彼女はわたしにそう言った。わたしたちは英語のクラスが一緒だった。わたしが彼女を見ていたことを、彼女は知っていたのだと思う。

 わたしはノートを見せてあげた。ありがとう、と彼女は言った。そしてにっと笑った。前歯がなかった。彼女は机に肘をつき、その肘に顎を寄せて、ねえ、と言った。あなた、わたしの顔、好きなの。

 好きだよ、とわたしはこたえた。こたえてからびっくりした。びっくりして、それから、でも、悪意がなくて見てしまうのは好きということだから、合っている、と思った。好きだよ。でも歯は作ったほうがいいと思うよ。髪はきれいに剃ったほうが、もっといいんじゃないかな。

 彼女は笑って、歯は保護されていたときに一度作って貰ったんだ、と言った。ああ、わたしね、未成年で保護者がいないんで、福祉で暮らしてたのね。作って貰った歯、ぼろぼろ取れちゃうんだ、でも、わたし、もう勤労学生で、福祉、切れてるから、歯医者のお金、作らないといけなくてさあ。

 わたし、夕方から工場で働いてるの。生まれたとこの近所の町工場で。友だちのバングラディシュ人の職人が辞めるっていうから、二人で「ぜひ後釜に」って工場主にめちゃくちゃ売り込んで雇ってもらった。配線の仕事。わたしさあ、配線の才能、けっこうあるんだ、バングラデシュ人が保証してくれたもん。寮費も安いし、大学の学費免除も通ったし、だから歯はすぐ作るよ。

 髪はねえ、無意識に自分で抜いちゃうの。1ミリでも生えると抜いちゃう。そういう種類の神経の病気なの。いつも、半分くらい、髪、ないから、残ったとこ、剃ってるんだけど、下手で、まだらになっちゃう。

 わたしは大学入学と同時に一人暮らしをしていた。それで彼女を自分のアパートに連れて行って、髪をきれいに剃ってあげた。

 そのようにしてわたしは彼女と友だちになった。彼女は町工場で配線に関する奇怪な才覚を発揮し、大学三年生になるとウィッグをつけ善良な笑顔で就職活動をし、組み込み系エンジニアとして職を得た。そのころにはもう歯はすべてできあがっていたし、強力な化粧品を買う経済力も得ていた。だから彼女は単にウィッグをつけ頬に隠しきれない傷があってたまに手足が変な動きをするだけの新卒の女性になっていた。

 就職が決まったから記念にお金を使う、と彼女は言った。何をするのかと思っていたら、いつも髪を引き抜いてしまう頭部左半分にタトゥーを入れるのだと言った。できあがったところでウィッグを外して、彼女はそれをわたしに見せた。大きくてすばらしい薔薇のタトゥーだった。いいだろう、と彼女は言った。いいね、とわたしはこたえた。

 それから二十年が経った。彼女は何度か転職し、今では組み込み系エンジニアリング大手に所属して、年間の半分はアメリカで仕事をしている。「二十代半ばからだいたい頭全体に髪が生えてるけど、ときどき気晴らしにぜんぶ剃る」と言う。同僚に手の甲までタトゥーのある人物もいるので問題ないのだそうだ(結構な社風である)。

 わたしは今でも衝動的だ、と彼女は言う。わたしはまた誰かを椅子で殴るかもしれない。今度こそ殺すかもしれない。でもそれはわたしが「子どものころに虐待されたかわいそうな人だから」ではない。「虐待されたから人を殺した」というせりふは、それを聞いた被虐待児全員へのナイフだ。「おまえも殺すんだ」という脅迫のナイフだ。わたしはそんなのは、死んでもいやなんだ。わたしはだから、わたしのこの、わたしだけの脳みその上に、消えない薔薇を彫ったんだ。

大伯母の淑子さんの話

 大正生まれのわたしの祖母は、零落した「いいおうち」のお嬢さんで、たいそうな美人であった。目鼻の配置がよく、皺の入り方が上品で、いつも姿勢がよかった。それでわたしは老婆にも美人がいることを子どものころから知っていた。

 その祖母は、自分より姉のほうがもっと美しかったと言っていた。近所の写真学校の学生が拝み倒して撮ったという写真が一枚だけ残っていた。一人暮らしの祖母の部屋の本棚の隅に、その写真はあった。わたしはその話を聞くまで、昔の映画スターか何かだと思っていた。彼女は若くして亡くなったのだと祖母は言っていた。若いうちに、結婚もせずに亡くなって、だから子どももいなかったのだそうだ。

 一方、祖母は祖父と結婚した。祖父は「山師」だったという。あやしげな商売でひと財産つくり、いいところの(しかし世の変化でカネは尽きていた)お嬢さんとの見合いにこぎつけた、という寸法だったようだ。成金だったその男を、祖母は嫌いではなかったという。男ぶりも威勢も悪くなかったらしい。しかしその威勢は長く保たなかった。商売に失敗したのである。

 祖父は荒れて暴力を振るうようになり、祖母は三行半をたたきつけて家を出た。当時の女としてはやたらと判断が早い。祖父は高等教育を受けておらず、女学校出の祖母を迎えてたいそう喜んでいたらしい。それから十年もしないうちにふられたのだから、自業自得とはいえ、あわれな男である。気落ちしたのかそのあと長く生きなかったらしい。離婚後、祖母は他家の住み込みの家政婦として生計を立てた。他家の子どもたちに行儀を仕込み、家庭教師のようなこともした。

 祖母は意思が強く聡明だった。だからわたしは祖母を好きだった。しかしその娘である母のことはぜんぜん好きになれなかった。母はとにかく無難であること、「普通」であることを志向する人であった。「当たり前」「常識」とよく口にするが、実はそれは世間の多数派という意味でさえない。何が現代の多数派かなんて彼女は把握していなかった。それが証拠に母は判断ということをまったくしなかった。ルーティン以外のことはぜんぶ「お父さんに聞きましょう」と言った。父の下女みたいにへこへこして、親戚が集まる場では顔に卑屈な愛想笑いをはりつけ、全員から顎で使われていた。そしてわたしにも同じように振る舞うよう言い聞かせた。

 わたしはそんなのまっぴらごめんだった。わたしは母を愛さず、母もまたわたしを「わたしの子じゃないみたい」と嫌った。だからわたしは生家から通える範囲の大学に進学したのに早々に家を出て、自分の好きな男と住み、その男と別れてまた別の男と住み、就職し、子どもを産み、その間ずっと母とは没交渉だった。わたしはぜったいに母のようにはなりたくなかった。わたしの夫はだから、わたしの母に会ったことがない。

 わたしの娘が十歳になったとき、うっすらと連絡をとっていた従姉妹から、祖母がいよいよ危ないという知らせが入った。教わった病院に行くと祖母はすっかり縮んでいた。わたしは自分の娘、祖母の曾孫をベッドサイドに連れて行って見せた。すると祖母はことのほか喜んだ。ああ、ああ、よかった、よかったわねえ、淑子ちゃん。

 わたしは「淑子ちゃん」ではない。「淑子ちゃん」は祖母のアパートの写真立ての中の、映画女優みたいな顔した祖母の姉である。わたしとはぜんぜん似ていない。祖母は言う。よかったわねえ、お嫁に行けてほんとうによかったわ、淑子ちゃん。

 祖母はもうすっかり認知症が進んで、わたしのことを若くして亡くなった姉とまちがっていたのだった。自分の姉が結婚して子どもをさずかったと思って、それで喜んでいたのだった。祖母は自分の意思で離婚し、その後も頑として再婚せず、孫であるわたしにはさんざん(年のわりに)リベラルなことを言っていた。そんな人でも記憶が混濁したら「お姉ちゃんがお嫁に行けてよかった」と泣くんだな、と思った。わたしはさみしかった。

 やがて祖母は亡くなった。わたしはあの本棚の写真を取ってきて祖母の棺に入れた。すると年老いた親戚が言った。この人、淑子さんでしょ、ものすごい美人だったのに、なにしろ気が強くて、家出して、ろくでもない男をわたり歩いて、あげくに死んじゃったのよ、自分で。

 自分で、とわたしは繰り返した。自分で、と親戚はささやいた。あの頃は珍しい女子大学生で、大学で男つかまえて、身を持ち崩したんですってよ。親戚はそれから、わたしの顔をつくづく見て、似てないねえ、とつぶやいた。でも、声はもう生き写しみたいにそっくりだわよ、あんたと。

愛の永続性のなさに関する学習

 甥っ子が駆けよってくる。生まれたときから毎週のように面倒をみていた可愛い甥である。現在三歳半だ。わたしは両手をひろげてかがむ。いつものように。すると甥はフルスイングでわたしの頬を平手打ちした。それからわたしに抱きついて泣いた。

 なんだ、これは。

 甥はわたしにしがみついている。甥の母親であるわたしの姉が叱りつけてもろくに聞いていない。びっくりしていると、甥は突然、夢からさめたように泣き止み、ふいとわたしのそばを離れた。姉が急いで甥を追いかけてつかまえた。

 姉はとても正しい人間だ。わたしのような要領の良い人間から見るとときどき可哀想になるくらい、正しい人である。だから悪いことをした息子にあいまいな措置を講じることはない。子どもがわかろうがわかるまいが、低いフラットな声でひたすら理詰めにする。「何が悪かったか」「自分が悪かったと理解したか」「それに基づく謝罪をする気はあるか」という順番で詰める。甥はどちらかといえば泣き虫な子どもなのに、決してふたたび泣こうとしなかった。

 姉は、子どもがものをほしがったときなどには、「しかたないね、かわりにこれはどう?」などと交渉の余地を見せる。気まぐれにぐずってみせたときにも、「はいはい、だっこはちょっとだけだよ、もう重たいんだから」といった調子だ。ふだんはそんなに厳しい親ではない。子どもの理不尽さをほどよく容認しているように見える。しかし、子どもが他人に暴力的なふるまいをしたときなどは、確実に根負けしない。

 このたびは姉だけでなく、甥も根負けしなかった。姉は説明を終えて甥をじっと見ていた。甥はうつむいて動かなかった。だからわたしもしかたなく座っていた。二十分が経過すると、姉は甥を抱き上げ、子ども部屋(といってもリビングから薄い引き戸で仕切られているだけで、端をあけておけば中が見える)に運び、「ひとりでゆっくり考えなさい」と言った。

 姉とふたりでお茶を飲んで小一時間、甥がわたしに謝りに来た。しかし、彼は非常に不満げな表情をしていた。わたしは彼にたずねた。おこってないよ。でも、どうしてぶったの。彼はこたえない。わたしを意図的に無視している。

 姉は私に向かって、ごめんね、と言い、それから、あんなのどこで覚えてきたんだ、とこぼした。うちでは平手打ちが出てくるようなドラマを見せた覚えはない。保育園で見せるコンテンツにもないと思うんだけどなあ。平手打ちしたあと抱きついて泣くって、どこのB級恋愛ドラマだよ。まったく。

 それで、彼は何に怒っていたの。わたしが訊くと姉は気まずそうに、あんた結婚してからうちに来るのはじめてでしょ、と言った。手続きだの結婚式だの引っ越しだので忙しかったから。あの子が生まれてから、二ヶ月もうちに来なかったこと、今までなかったでしょ。あの子はだから、それを怒っていたんだよ。ほんとごめん。

 わたしは驚いた。わたしはたしかに甥にとって重要な人物だと思う。両親と保育園の先生に次ぐ第四の育児担当者といってもかまわない。それにしたって、たった三歳半の子どもが、そんなにも複雑な怒り方をするものだろうか。それに二ヶ月ずっと会っていなかったわけじゃないのだ。甥はわたしの結婚披露宴にも列席したし、わたしのウェディングドレス姿を見て「かわいい」と喜んでいたし、わたしの夫と三人で写真だって撮った。披露宴の途中でぐずったので姉が連れ出していたけれど、三歳半の子どもが儀式的な場に飽きるのは当たり前のことなので、わたしは気にしていなかった。

 あんたには悪かったけど、と姉は言った。なんていうか、愛の永続性みたいなものを期待する気持ちは、幼児にもあるってことだよ。毎週来てくれていた人はこれからも毎週来続けてくれなければいやだというような、そういう感情。親の愛でさえもらえないケースもあるし、あったとしても永続的ではない。そういう事実を、そのうちあの子も知るでしょう。でもまだ知らなかった。あの子はまだうんと小さいのだから、好きな人たちがずっと変わらずに愛してくれると思っていても、よかったんだよ。

 でも大好きな叔母さんが結婚して、自分を二ヶ月放っておいた。それを彼は受け入れなくちゃいけない。少し早かったかもしれないけど、でも彼は理解しなくちゃいけない。愛の永続性のなさを。愛は、努力して獲得して努力して保って、それでも継続が保証されるものではないことを。そして途切れて見えなくなったとしても続く愛があるってことを。

さみしい人だけそばに置く

 将来は女ばかりで暮らすのも楽しいと思うんだ。私がそう言うと、困りますよ、と彼は言った。こちらが先約なんだから、守ってもらわないと。

 私はこの人と「年をとって心身が弱ったら隣に住む」という約束をしているのだった。私が新卒で彼が二十代半ばのころ、もう二十年近く前に締結された取り決めである。

 私は思想信条上の理由で、彼は生来の気質の問題で、結婚に縁がない。私は家父長制的なものがアレルギー的に嫌いだ。現行の法律婚とそれにまつわる社会通念や慣習など、斜めにしても逆さにしても承服しかねる。他人の結婚は祝福するが、自分はぜったいにやらない。二十一のときにそう決めて、二十年間同じように考えている。

 一方、彼は他者とのフィジカルな接触を好まない人間である。慣れた人間が数日そばにいるくらいが限度で、基本的には他人の生活音が聞こえるだけでもうダメだ。調子が悪いと、たとえば生の肉を触ることさえできなくなる。たぶん彼は、「動物の生々しさ」みたいなものが全般にいけないのだ。だから配偶者どころか同居人もできようがない。

 知り合ってしばらくしてたがいを信頼できる友人だと確認したとき、彼は自分のそのような性質を私にあらいざらい説明して、言った。若いうちはいい。ひとりで楽しくやっていける。でも年をとって死が近づいたら、近くに親しい人がいたほうがいい。マキノさん、ぼくの隣に住んでください。マンションとか、高齢者向けの施設とかで。そうすればぼくは安心なので。マキノさんが老齢まで色恋をやるとしてももちろん問題ない。両立可能です。必要ならマキノさんの色恋の相手にぼくの立ち位置についてプレゼンをする。

 いいでしょう、と私は言った。その後、彼は数年に一度、「あの話、忘れてないでしょうね」と確認するようになった。他人にも平気でその話をするので、彼の知人の間で私は「彼が心に決めた人」という扱いになっている。まあいい。ある意味心に決めてはいる。なんでもかんでも色恋に結びつける連中に私たちの友情を理解してもらおうとは思わない。

 しかし私は彼より社交的なので、よそからも「年とったらそばで暮らそうよ」というオファーが来る。女たちからである。独身組はもちろん、配偶者のいる女たちからも「夫はたぶん先に死ぬので」という理由で老後の話が出てくる。彼女たちはその昔、「夫が死んだらどうしよう」と嘆いていたものだが、結婚して十年もすると「どうしようっていうか、夫は人間だから死ぬし、平均寿命から考えたら私のほうが長生きするよな」と理解するようである。先日は少し年長の友人からグループホームのパンフレットを手渡された。四十前後の女たちにとっての老後は楽しい空想だが、五十の声を聞くとパンフレットレベルの具体性を帯びるのか、と思った。

 いずれにせよ彼女たちと寄り集まって暮らしながら反対側の隣をあけておくことはできる。隣はふたつあるのだし、向かいも上下階もあるのだ。両立可能でしょ、と私は彼に言う。

 彼は左斜め上を見て(ふだん使わない記憶を走査するときの彼のくせだ)、言う。女の人たちはいいですね。男はそういう話をあまりしない気がする。ぼくは友だちが少ないから、サンプル数がじゅうぶんじゃないんだけど、でも、「弱ったときに誰と支えあうか」みたいな発想がそもそもない人、けっこういると思う。彼らは、不安とか、さみしさとか、ないのかな。ないのかもしれない。あったら長期的に支え合えそうな相手を探すし、取りに行くし、努力してキープするでしょう。別に結婚とかだけじゃなくて。自分に向いた関係の、自分に向いた相手を、得ようとするでしょう。

 さみしくない人間なんかいないと私は思う。思うんだけど、一部の人間たちはたしかにさみしさを知らないように見える。私が親しくなる男性たちはみんな、「さみしい」「かなしい」「怖い」というようなことを言う。でもそうじゃない感じの人たちもいっぱいいる。そうした人たちとは親しくなったことがないから、私にはその理由がわからない。

 他者を求めるいちばんまっとうな理由はさみしさだと私は思っている。さみしさから出発して人を求めたり求められたりしたいと思っている。便利だからとか、当たり前だからとか、そういうのじゃなくて。

 私はたぶんとてもロマンティックな人間なのだ。色恋にかぎらず、大人同士の情愛はすべて、たがいがたがいを選び、オーダーメイドな関係を作るのがいいと思っている。さみしくなさそうな人たちはそういうのとはぜんぜんちがう力学で動いているように見える。私は彼らに近寄りたくない。なんだかとても、いやな予感がするからだ。

彼の人工的な盲点

 トオルが十歳になったので、トオル一家および「トオル会」のメンバー五名でお祝いをした。内実はただのホームパーティである。トオルは私の学生時代のゼミの先輩の息子で、障害がある。トオルの障害があきらかになった段階で先輩は何人かの学生時代の友人を選んで、こんな話をした。

 トオルは高い確率で、ひとりでいわゆる社会生活を送って寿命をまっとうするってことができないんだ。基本は俺ら夫婦と公的支援だけでいける、でも祖父母は遠くてあてにならない、緊急時とかは厳しい、あと俺ら夫婦の精神がだいぶ削れる。ケアリソースが長期的に不足することは目に見えてあきらかだ。上の子にも影響があると思う。そういうわけでみんなにひとつよろしくお願いしたい。

 せりふだけ書くとしおらしいけど、先輩のようすはぜんぜんそんなではなかった。「雨が降ったら洗濯物を取り込んでおいて」くらいの感じだった。

 先輩は学生時代から変な人だった。たいていのものに執着がなく、必要そうな人がいたらあげてしまう。先輩もまだ使うかもしれないでしょうと言われれば、「そしたらまた買えばいいじゃん」と言う。かといってお金持ちなのかといえば、ぜんぜんそんなことはなく、貧乏だった。大学生の時分には寮生活をしていて、寮生の中でも筋金入りにお金がないということだった。そして先輩は、貧乏なわりに、自分に金銭がなくて困るということをあんまり想像したことがないみたいだった。

 誰かがあきれて質問したことがある。先輩、そんなに人にあげちゃって、それで、自分の腹が減ったときに食い物がなかったら、どうするんすか。先輩は「こいつ何言ってるんだ」みたいな顔して、「誰かメシが余ってる人にもらう」と言った。「一足す一は二だろ」くらいの雰囲気で言った。

 ものだけでなく、時間や手間暇に関しても先輩はそうで、底抜けの親切さと、信じられないほどのずうずうしさを同居させていた。誰かに何かをしてあげること、誰かから何かをしてもらうことを、いずれも当然だと思っているみたいだった。「恵んでもらう」とか「同情してもらう」とか「免除してもらう」とか、そういうことに何の抵抗もなく、「やったあ」「ありがとう」と言うのだった。そして自分が誰かに与えた時間や手間暇や物品の見返りを求めたことは一度もなかった。

 誰かが尋ねた。もし先輩が困ってるときに、誰も何もしてくれなかったら、どうするんですか。先輩はやっぱり「こいつ何言ってるんだ」みたいな顔して、こたえた。誰かは何かしてくれるだろ。相手がいなけりゃ探せばいいだろ。

 あらゆる誰もが、どんな頼み方をしても、どんな手続きを踏んでも、俺に何もしてくれなかったら? そんなわけ、ないけどなあ。ないけど、そうだったら、俺、死ぬよ。しょうがないじゃん。

 そのような先輩がもうけた愛息であるところのトオルについて、私たちは私的な支援組織をもうけることにした。私たちはトオルの障害について勉強し、トオルが受けている公的支援を把握し、ある者はトオルの遊び友だちになり、別の者は時々訪れる家庭教師になった。先輩の上の子どもにも同じようにゆるやかな役割分担をもって接した。こうして関係を作っておけば緊急時に誰かがトオルや上の子を預かることもできる。先輩一家四人に対してトオル会の男女五名(うち二名は独身)、合計九名。全員揃うことは稀だが、大雑把に言って「家族ぐるみ」である。

 街中でトオルに心ないことばをかける人がある。私たちトオル会はそうした人々を憎む。先輩の妻も憎む。しかし先輩は憎まない。だって、そいつが、意味ないんだ、と言う。トオルは人間で、十歳の子どもで、その子どもに何を言っていいかもわからないやつは、いる意味、ないんだ。暴言や暴力は、訴えられる範囲なら、訴える、けど、その対象にならない加害については、憎む必要もない。

 私はさみしかった。私は、人を憎むのが良いことと思うのではなかった。でもできれば私は先輩にも、トオルに心ないことを言う連中を憎んでほしかった。配偶者やトオル会のメンバーと一緒に、腹を立てて罵って呪ってほしかった。

 トオルの十歳の誕生日、みんなで楽しく過ごしながら、私は先輩が怖かった。昔から、ほんとうは少し、先輩のことが怖かった。先輩は底抜けに親切で信じられないほどずうずうしくて、そして、世界のある部分を、決して見ようとしない人だった。「それは自分の世界には存在しない」とかたく決意して、人工的な盲点のように、それを見ずにいる人だった。

JR両国駅前24時30分の和平

 わたしはあたたかいラーメンを待っていた。両国には商業施設もあるが、お隣の錦糸町よりは繁華でない。終電近くの時間帯に駅前のラーメン屋に入るのはだいたい帰途にある住民である。そんなだから、見知らぬ者同士ながら、店の中には何となく連帯感が漂っている。わたしの隣の席の白髪の男性はラーメンに半チャーハンをつけてむっしゃむっしゃ食べている。斜め向かいの青年はビールだけを飲んでいる。ほどなくわたしのラーメンが来た。わたしの丼を置いた女性店員はそのまま別の客の会計に行った。

 おい、どうしてくれんだよ。

 会計をしていたスーツ姿の男性が怒鳴った。おまえこれどうすんだよ、ぼったくりじゃねえかよ、え? ああ? おまえどう責任とんだよ、え? 俺の日本語わかってんの? おまえみたいなのに日本のカネさわる資格なんかねーんだよ、てめえ、店員呼んでこい、店員、てめえじゃ話になんねーの、ちゃんとした人間の店員呼べよ、ワカリマスーカー? 

 東京の下町はたいへん治安がよい。たまに酔っ払いがそこらへんに落ちてる。したがってわれわれ地域住民は酔っ払いへの対応をよく知っている。店内を視線が行き交う。怒鳴られている女性店員は日本語名の名札をつけているが、おそらく海外の出身である。

 カウンターの反対側にいた中年女性が怒鳴っていた男性の前に立った。彼女は男性が怒鳴り始めてすぐ移動し、男性の斜め後ろに陣取って男性を見ていた。財布を手にしてにこにこしている。いい笑顔である。怒鳴っていた男性はややトーンダウンし、てめえ、何、みてんだよ、と言った。お会計まちでーす、と中年女性は言った。

 人間のうち鬱屈を抱えた者のさらに一部は、酔っ払うと人にからむ。からむ内容はだいたい普段から腹に据えかねていることである。このスーツ男性はおそらく外国人が嫌いなのである。でもいくら酔っていても、「自分には不当なところがある」という意識があれば、人目を意識した段階で矛をおさめる。だからこの中年女性が会計にかこつけて「見ているぞ」というパフォーマンスをやったのは正しい。

 男性の店長がさっと出てきて、怒鳴られていた女性店員を背後に下げる。店長も案の定酔っ払いの取り扱いに慣れており、威圧的な口調の男性に対して卑屈にならず上手に状況を聞き取って、きっぱりと「警察を呼びましょう」と宣言した。

 スーツ姿の男性が店長に迫った。するとカウンターでビールを飲んでいた青年が絶妙なタイミングで野卑な声を放った。おっさん、うっせえんだよ、さっきからよお、やんのかよ。

 店長に暴力を振るったらスーツ男性は傷害罪になりかねない。「やんのかよ」と怒鳴った青年はだから、店長だけでなく、スーツ男性をも助けたのである。青年はいかにもガラの悪そうな格好でオラオラした空気感を出している。目がぜんぜん怒っていない。完全にわかっていてやっている。

 普通の酔っ払いならこのくらいの介入があれば捨て台詞を吐いてラーメン代おいて帰る。しかしスーツの男性は血走った目でスマートフォンを取り出し、みずから110番した。どうやら通報される側ではなく、通報する側に回ろうとしたらしい。最寄りの交番や警察署じゃなくて110番にかけたらよけいおおごとになるのに。

 スーツの男性はレジの前から動かない。わたしはラーメンを食べ終える。怒鳴られていた店員が回ってきたので、大きな声で「ビールをください」と言う。さっきオラオラ感を出していた青年も「ビール、おかわり」と言う。「ことがおさまるまで、自分たち、ここにいますんで」という宣言である。最初にレジ前でファインプレーをやった中年女性はパフォーマンスの都合上お会計して帰ったので、残りはわたし、隣の席の白髪の男性、そしてオラオラ青年である。

 警察がやってくる。さすが110番、たかが酔っ払いひとりに警察官四人体制である。二名が酔っ払いを連れて店の外に出る。店長がそれについていく。よろしければ、と警察官がわたしたち客に向き直る。わたしは外の酔っ払いに聞こえるよう、大きな声で言う。はい、わたし、証言します。隣の白髪の男性も言う。ああ、わたしも証言するよ。

 わたしたちは酔っ払いがレジ前でごねてヘイトスピーチを展開したこと、物理的暴力には至らなかったことを説明した。あとは警察の仕事である。白髪の男性が店員に会計をたのみ、それから英語で「もしかしてミャンマーのご出身か」と尋ねる。女性が頷き、ふたりはわたしの知らないことば(たぶんミャンマー語)で楽しげに話す。わたしもお会計をして、ごちそうさまでした、と日本語で言う。

彼女は私をゴミみたく捨てる

 人間が精神的に乱れるのは思春期にかぎったことではない。人生の中で何度か起こりうる。そのときはできるだけいろんなリソースを使って立ち直るのがよいと私は思っている。だから昔の友人知人が連絡してきて不安定なようすであった場合、できるかぎり力になろうと思っている。

 私だっていつ失職したり病気になったり災害に遭ったりするかわからないのだし、そうしたらきっと精神がだめな感じになるだろうし、そのときはまわりの人がきっと助けてくれるだろうから、そのぶん自分が健康なときには人を助けておきたいと、そういうふうに思うのである。人間の精神はそんなに丈夫ではない。だめになるときはなる。だめになるかならないかは持ち回りみたいなもので、いま私の精神がそこそこ健康に機能しているのは「たまたま」である。

 彼女から連絡が来たのは三ヶ月ほど前のことだった。十年ぶりの連絡だった。彼女と私は学生時代の英語のクラスが一緒で、在学中はけっこう仲良くしていた。ほがらかで英語の発音がよくて身ぎれいな女の子だった。在学中からつきあっていた彼氏と結婚して、私は二次会にだけ呼ばれて行って、お祝いをしてきた。そのあと子どもが生まれたと聞いて何人かで贈り物をした。それがだいたい十年くらい前のことである。

 彼女が通話をしたいというので通話アプリのIDを送った。そうしたら何度も通話がかかってくるようになった。彼女は家庭に深刻な問題を抱えていた。最初は結婚相手の問題かと思ったが、どうもそうではなく、次には子どもの発育上の問題かとも思ったが、それもどうも本質ではなく、幾晩かの長電話ののちになんとなく察したのは彼女と彼女の実母の間に根深い問題があるらしいということだった。

 私は適切と思われる専門機関を調べ、リストを作り、当座の費用を概算し、彼女が居住している自治体から受けられそうな支援について資料を集めた。そしてそれを送った。実のところ、そういう作業ははじめてではなかった。私には少なからぬ友人がいて、そしてそのうちの何人かは人生のある時期に専門的な支援を必要とする状況に陥った。だから私は慣れていた。「これで彼女は少しラクになるだろう」と思っていた。ほかの友人たちはみんなそうだったから。

 でも彼女は私の家を訪ねてきた。どうやって私の今の住所を知ったのかはわからない。十数年ぶりに顔を見る彼女は奇妙に若いままで、もしかすると若いころよりきれいで、目を爛々と輝かせていた。なんというか、引力があった。彼女は通話アプリで私が打ち切った話を続けようとした。

 彼女は私が他の友人や第三者機関の話をすると「聞きたくない」と言った。彼女は私と二人きりで話をしたがっていた。私はそのことに気づいていないのではなかった。しかし私はそれに乗らなかった。精神の具合が悪いときに閉じた二者関係を形成するとろくなことにならないと私は思っているからだ。それに、ごく率直に言って、私は彼女の特別な相手ではないし、特別な相手になるつもりもないからだ。

 私は話し続ける彼女を遮り、専門機関へのアクセスを勧めた。頑として自宅には入れなかった。彼女は燃えるような目で私を見た。その目から一瞬で温度がうしなわれた。彼女はふいと背を向けて、そのまま帰った。

 それ以来連絡がない。そのことを共通の友人に伝えると、友人は言った。そりゃ、あんた、彼女に「見限られた」んだよ。あのね、ある種の人間は、二人きりの関係に閉じこもって相手を操作する術に長けているんだよ。そしてそれを使っていろんな人間を使い捨てて生きている。でもあんたは「使えなかった」。おすすめのカウンセリング機関? 行政から受けられる支援の情報? ばかばかしい。彼女はそんなものひとつも必要としていない。彼女が欲しいのはただ自分のために心を砕き、自分の激しい感情を無償で受け取り、自分が「死ぬ」と言ったらパニックに陥るような、そういう相手だよ。

 いいかい、そういう相手は、何も色恋沙汰をやらなくたって手に入る。彼女のような人間はそれを知っている。ご近所さんだろうが昔の同級生だろうが、その心を奪うすべを知っている。でも自分の人間操作術が万能じゃないことも知っている。だから彼女のような人間は、何度か操作を試みて、使えないとわかったら捨てるんだよ、あのね、彼女はたぶんもう、あんたに一ミリも関心ないよ。

 私はしばらく返事ができなかった。私は彼女に親切にしたつもりだった。でも彼女にはそんなものぜんぜん必要なかったのだ。そして彼女は私を「捨てた」のだ。ゴミみたいに。