傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ユキコはいい子、いつも、ずっと

 ユキコはまじめな女の子だった。わたしたちは中学生で、同じ塾に通っていた。保護者が熱心に勉強させている家庭の子が行くたぐいの塾で、入塾試験が難しいと評判だった。わたしは間違って入ってしまったみたいな感じで、いつもびりに近かった。ユキコは精鋭の中にあって上位25%のクラスにずっといる成績優秀な子どもだった。

 ユキコはきれいな女の子だった。ひょろひょろと背ばかり伸びて、中学一年生としても幼い印象だったけれど、細面の整った顔だちで、所作が端正だった。毎朝きっちり編んだ三つ編みを崩すことなく、塾の入り口のベンチで親の迎えを待っているときにも背筋がぴんと伸びているのだった。

 わたしとユキコはクラスがちがったけれど、親の迎えがときどき遅れることは共通していた。塾の入り口にはそうした子どもたちを想定してか、いくつかのベンチがあり、わたしたちはそこで仲良くなった。ベンチのそばには紙カップが出てくるタイプの自動販売機があった。仲良くなった夏にわたしが飲んでいたのはカルピスサワーで、ユキコが飲んでいたのははちみつレモンだった。

 わたしは月に二度はユキコの家に行った。ユキコはこぎれいな個室を与えられていて、折りたたみ式のプラスティックの小さなローテーブルを出してくれた。わたしたちはそこにノートを広げた。ユキコのお母さんが子ども部屋を見に来たときのアリバイづくりだった。わたしたちはひそひそ声でそれぞれの学校の話をし、ローティーン向けのファッション誌を両側から見た。

 ユキコはときどき居眠りをした。わたしはそれを見ていた。ユキコのお母さんが来たらすぐ起こそうと思っていた。でもユキコはいつもすぐに起きてしまって、実際にそれが必要になった記憶はない。ユキコは子どもなのに疲れていた。ユキコはすごくよく勉強していた。小学校から私立に通っていて、中学校はさらに別の学校を受験したのだと言っていた。わたしはユキコが眠っているのを見るのが好きだった。年齢よりも幼い、痩せているのに丸顔の、その眉間のこわばりが外れて、赤ちゃんみたいな顔になるんだ。

 ユキコのご両親はユキコが疲れていることをたぶん知っていた。塾にいるほかの私立の生徒の親はわりとナチュラルに「区立の子」「D(塾でいちばん成績が低いクラス)の子」を自分の娘や息子から遠ざけていた。あからさまな蔑視ではなくて、「うちとは違うでしょ」という態度で、それを子どもがまねるのだった。

 でもユキコのご両親は「区立でDクラスの子」であるわたしを許容していた。ユキコのお母さんは、一度だけその理由みたいな話をした。晩ごはんをご馳走になって、ユキコが席を立ったタイミングだったと思う。小さい声だった。ユキコはいい子すぎるの。がんばりすぎていると思うの。だから、なんていうのかしら、ユキコがほかの環境の子とお友だちになるのが、おばさん、とっても嬉しいの。

 ユキコは私立の女子高校に、わたしは都立高校に進んだ。それでもユキコとはときどき会った。ユキコはいい子のままだった。名門高校から名門大学に入り、早すぎも遅すぎもしないタイミングで彼氏を作り、三年つきあった相手と二十七歳のときに結婚した。ほどなく赤ちゃんが生まれた。実家に帰りがてら、わたしにも赤ちゃんをだっこさせてくれた。その後、しだいに連絡が間遠になった。三十代半ばを過ぎると、わたしからの年賀状にも返信がなくなった。

 そのユキコから突然連絡があった。実家に帰ってきているというのだ。わたしは大急ぎで予定をあけてユキコに会った。ユキコは『VERY』みたいな格好をしていた。夫が毎日のように暴言を吐くこと、最近は「手をあげる」こと、子どもが自分を軽んじて一緒に来てくれなかったことなどを、ユキコは話した。

 わたしはユキコの話をたくさん聞いた。その日だけでなく、いくつかの平日の夜と休日の昼に。会うよりもLINE通話が多かった。ユキコはなかなか通話を切らせてくれなかった。一時間でも二時間でも、ユキコは話した。夫がいやがるから女友達にも連絡をあまりしなかったこと。夫は子どもができるまでとてもやさしかったこと。夫の好みがとてもうるさいこと。子どもが幼稚園のころまで後追いをしてたいへんだったこと。

 わたしはDV被害者に対する公的支援を調べ上げてユキコのLINEに送った。仕事と家族の事情で忙しいと嘘をついて通話を避けた。同じ塾だった別の友達からユキコがいろんな女たちに「相談」して通話を切らせてくれないこと、いろんな男たちに「相談」して「恋愛」をしていることを聞いた。

 ユキコはいい子だった。とてもいい子だった。きっと今でも。

シンデレラボーイの妻

 夫のことをよく知らない。

 夫と知り合って十五年、結婚して十二年になる。わたしは夫の仕事の内容や給与や日常のルーティンや食べ物の好みを知っている。何に対してセンシティブで何について無関心かだいだい把握している。暇になるとすることのパターンもわかっている。小学生の息子に対する教育方針を話し合う過程で新しくわかることもある。夫婦の会話は多いほうだと思う。

 夫は繁忙期だけ帰りが遅い。この時期は夜半まで帰らない。息子が宿題の話をする。自分のルーツを知る、というような宿題が出ているのだという。ルーツ、とわたしは思う。

 そして思い出す。わたしは夫の過去を知らない。夫の親や親族に会ったことがない。夫の古い友だちに会ったこともない。それどころか新しい友だちにも。わたしは夫のことを、実は知らない。わたしと一緒にいるのではないときの、夫のことを。

 そんなことって、あるんですか。友人が言う。あるんですとわたしはこたえる。結婚前に親族とは疎遠だと聞いたので、そのうち事情を話すだろうと思ってそっとしておきました。それきり忘れていました。考えないようにしていたのかもしれない。結婚式はハワイで挙げました。招待客はわたしの親きょうだいだけです。そのあとわたしの親しい友だちも何人か紹介しています。だから夫はわたしのことを知っています。でもわたしは夫の関係者に会ったことがないんです。出身地と出身校と職歴は聞きました。それだけです。就職試験で提出するくらいの情報量ですよね、これって。

 生まれた家と疎遠な人はいます、と友人は言った。だから親族に会わせないというのは、うん、わかります。事情を話さないのも、その人の選択です。たとえ結婚相手にだって言いたくないことはあるでしょう。ふたりがよければそれでいいんです。しかしいくらなんでもほかに親しい人がいるでしょう。友だちとか、仲の良い同僚とか。会う以前に会話に出てくるでしょう、親しい人の話、するでしょう、恋人とか結婚相手に。しないんですか、彼は。

 しない。一度もしたことがない。上司の愚痴や同僚への評価は口にすることがあるけれど、親しいようすではない。夫には友だちがいないのかなと思っていた。わたしがそのように説明すると友人はちょっと黙り、悪いことではない、と言った。友だちが必要ない人もいます。しかし過去の話がゼロというのは、えっと、ちょっと、想像がつかないです、えっと、たとえば、子どものころ卵アレルギーだったとか、バスケ部だったとか、過去につきあった相手と別れたのは主に相手の浮気によるとか、大学生のときにはじめて海外旅行をしたとか、そういうのも話さないんですか。話さないということが可能なんでしょうか。

 可能なのだ。だって彼はそうしてきたのだから。わたしたちはわたしが二十四、彼が二十八のときに出会って、彼が話題にするのはその後のことばかりで、そうして十五年を過ごした。彼はわたしの昔を知っている。わたしは彼の二十八より前のことを何も知らない。

 友人が言う。彼はラッキーですね。お話を伺っていると、彼には人間関係の資産がほとんどなかった。理由はわからないけど、徹底してゼロだった感触があります。でも彼はあなたと一緒になって急にリッチになったのです。シンデレラみたいだ。

 人間関係は資産ですよと友人は言う。子育てを手伝ってくれたのは誰ですか。あなたのお母さんと、それからお父さんですよね。ああ、お兄さんとその配偶者もいろいろ良くしてくれたんですか、うん、従兄弟同士も仲がいいと。それであなたのお友だちが家に遊びに来たりもするんですよね。いろいろな話をして笑ったりする。マンションの自治会のおつきあいもあるんですよね。そういうのは、資産です。親密さは人生の資産です。なくても平気な人はいるけど、彼は平気じゃないから結婚したんでしょう。そしてあなたは彼に個人的な関係性のすべてを提供した。彼の親密な対象、彼の助け合う相手のすべてをプレゼントしたんだ。なんという玉の輿。あなたはまるでシンデレラにプロポーズした王子さまですよ。

 夫はシンデレラになりたかったんでしょうか。わたしは言う。わたしが、夫を好きになったから、わたしの都合で、親しい人間関係のある世界に引きずり込んだのじゃあないですか。ほんとうは夫は、そんなの必要なかったかもしれないじゃないですか。

 それはわからないですねえと友人は言う。シンデレラじゃなくって、かぐや姫だったとしても、もう月に帰るのもめんどくさくなってるんじゃないですか。子どももいることだし。

送り盆の日

 ときどき、自分の頭に不満を持つ。私が考えたいこと、覚えていたいこと、想像したいことに脳が追いつかないときに、不満を持つ。頭が悪い、と思う。誰と比べて、というのではない。私の欲望に対して、私の頭が、悪い。

 夜の夢はあまり見ない。年に何度か、ほとんどはとても単純な、パターン化された夢を見る。半分ちかくが逃げる夢で、半分ちかくが人の死ぬ夢である。要するに私は、逃げてきて、そして、死んだり死なれたりするのが怖いのだろう。ひねりがない。恐怖にクリエイティビティやオリジナリティがない。

 人が死ぬ夢は近ごろ簡略化されて、すでに死んだ人が出てくるようになった。死んだ人が隣にいて、私はその人が死者だとわかっている。そういう夢である。複雑なストーリーなどはない。ただの一場面である。

 人と並んで歩くときの位置は決まっている。私が左側である。どういうわけか自分でもわからないが、ずっとそうしている。右に人がいると落ち着く。何十回も何百回も隣を歩いた人々の記憶は、だから私の右側にある。相手の左半身ばかりを覚えている。この点は相手が生きていようが死んでいようが変わらない。ただし死んだ人の姿は更新されない。

 夢の中で死んだ人と歩く。だいぶ前に死んだ人である。ときどき見る夢なので私は驚かない。いま夢を見ているなと思う。右隣を歩く人を認識する。相変わらず死んでいるなと思う。だいぶ前に死んだ人である。まだ若かった。夢の中の視界には薄ぼんやりと死んだ人の左半身がうつっている。背丈の差で顔はよく見えない。誰かと並んでまっすぐ前を向いて歩いているときの視界、誰かと親密になるたび、まるでそれが永遠であるかのように繰りかえし作った視界である。

 親しかった人の顔を、私は忘れる。私はものすごく忘れっぽい。およそ何でも忘れる。先日、都合で数年前に住んでいた町に行ったら、当時の自宅が駅のどちら側にあったかも思い出せなかった。道なんかぜんぜん覚えていなかった。私はそれくらい忘れっぽい。だから会わなくなった人の顔を忘れるのも自然なことである。夢の中で歩きながら私はそう思う。私はもう忘れたから、今となりを歩く人を見ても、その顔はないのだ、と思う。顔のない姿を見てやろうと思ってくるりと身を翻し視界の中央に死んだ人をおさめる。右半身がなかった。右手、右足、胴の半身、頭部の半分が、なかった。

 覚えていないのだ。目を覚まして私は思う。私は、死んだ人の顔どころか、歩きながら視界に入っていた部分以外のすべてを、覚えていないのだ。正面から向かい合ったこともたくさんあったのに、そのほかの角度でだってたくさん見たはずなのに、ぜんぶ忘れてしまったのだ。歩いているときの、左側以外のすべてを。

 日常は永遠のにおいがする。そんなはずはないとわかっているのに、特別なところのない日の繰り返しは永続性の影を帯びる。私たちは勘違いする。たとえば百回繰りかえしたことを、永遠に繰りかえしたのだと感じる。たくさん繰り返し、しかもそれが少しも特別ではなかったこと。私の場合にはそれが並んで歩くことで、だからそのときの視界にある姿だけはまだ忘れていないのだろう。

 私は夢に意味を見いだす趣味がない。私はつまらない科学の子である。夢は私の頭の中身であって、そのほかの何でもない。夢見が悪いのは、だから頭が悪いのである。私は頭頂に指を置いて、言う。おまえが悪い。あんなに忘れて、でもまだぜんぶ忘れていない、おまえがぜんぶ悪い。

 暦の上でお盆が来たって私は何もしないのだが、先の土曜日の迎え盆には道ばたでそこいらの人が焚く迎え火を見た。東京のお盆は新暦でやるものだ。そして私はお盆に迎え火送り火をやる人がいるタイプの町を好む。そのようすを見ることがなかったとしても、お盆の前にはスーパーマーケットで麻幹を売っている。迎え火で燃やす、あれである。そういう光景を見るから、脳の死んだ人のための領域が活性化する。かくしてお盆は正しく死者を迎える日になる。

 これから忙しくなるな、と思う。私は年をとった。これからはもっとたくさん身のまわりの人が死ぬだろう。私の頭の中の死者のための領域はさらに狭くなり、夢はもっとおぼろになる。ひとりふたりの死者のためにきちんと夢を見ることもなくなるのだろう。そのときまではきみの夢を見よう、と私は思う。右の半身をなくした、かわいそうな死者の夢を。

可愛いだけが取り柄でしょ

 犬を飼おうと思う。

 わたしがそのように言うと彼は首を曲げてこちらを見たあと、ゆっくりと元に戻した。そうして、いいんじゃないですか、と言った。この人が敬語を使うのは、わたしに何かを言い聞かせたいときと、もっと突っ込んで聞いてほしいときである。そこでわたしは尋ねる。うちに犬がいたら、あなた、あまりよい気持ちがしないかしら。もちろんここはわたしの家だから、好きにするのだけれどもねえ。

 わたしたちはこの一年ほど、週末にたがいの部屋を行き来している。わたしたちはいずれも一人暮らしで、少なくともわたしはそれをやめるつもりがない。住まいは都市のマンションであって、庭などはないから、犬と暮らしたいなら小型の犬種を室内で飼う。ここまでは確定事項である。

 彼は言う。犬は嫌いではない。アレルギーとかもない。犬のいる家に行く程度なら、とくに問題は感じない。見ているぶんには可愛いと思う。進んで飼いたいとは思わないけど、それはたぶん身近に動物がいる生活をしたことがないから。

 じゃあなんであんまり好ましくない顔をしているの。わたしが質問を重ねると、そりゃあねえ、と彼は言う。僕は犬を可愛がる余裕なんかないからね、でも犬のほうは、あれは群れて暮らす生き物だろう、だからしょっちゅう泊まっていく人間がいたら、認めて慣れるか、敵対するか、どっちかしかないんじゃないか。だからこの部屋に犬が来たら、僕は犬に認められるために何かをする必要があるんじゃないか。

 詳しいね、とわたしは言う。おっしゃるとおり犬は群れるし、しょっちゅう来る人間なら何らかの感情の交換を必要とする。そういう傾向にある。そうはいっても世話はわたしがするので、あなたに具体的な面倒はかけない。だからさ、まあ可愛がってやってよ、わたしの犬を。まだいないけど。

 余裕がない、と彼は言う。あのね、僕にとっては、あなたがもう犬のようなものなので、二匹目はいらないんですよ。そんな余裕はない。時間とかの余裕じゃなくて、気持ちの余裕がない。

 わたしは少し呆れる。そして言う。わたしのどこが犬なのよ。彼は言う。犬みたいなものだよ、だってきみは、子どもを産む気がないし、たぶん産めない。四十過ぎて男つくって、男のぶんの家事労働をやる気がなく男からカネを引っぱる気もない。そういう女に対して、可愛がる以外の何をしろというんだ。ほかに取り柄がないだろ。犬と同じだ。

 わたしは反論を試み、それから急に弱気になって尋ねた。取り柄、ないですかね、ほかに。彼は即答した。ないよ。ないでしょう。強いて言うなら「俺は女のいない男ではない」という自意識をもたらすくらいかな。あとは何もない。ゼロだ。

 わたしは少し黙る。取り柄ということばでかちんときたけれど、これを役割と言い換えれば、たしかに「可愛がる」「可愛がられる」以外にわたしが彼にしていることはない。若いころからずっと、わたしはそうだった。感情によって結びついた関係がもっとも純粋で素晴らしいのだと思っていた。家事労働やカネの都合で一緒にいるなんてつまらないことだと思っていた。わたしはそんなことはしないんだと決めていた。そうしてそのまま変わっていないつもりだった。でも男たちにしてみれば、若いころのわたしには留保があったのだ。「そうはいっても子どもを産んでくれるかもしれない」「気が変わるかもしれない」という留保が。

 きみは正しい、と彼は言った。人間は経済的にも精神的にも自立して意思に基づいた関係を築くべきだ。自分の稼ぎがあって自分の身のまわりのことができて、嫌いになった相手とは早々に別れてしかるべきだ。女だから家事をしなければならないなんてことはない。自分が女だからといって男のカネをあてにして生きるつもりは毛頭ない。うん、きみは正しい、とても正しい、俺もそう思う、賛同する、賛同して、でも、きみの犬まで可愛がる余裕は、ない。

 なるほど、とわたしは言う。彼は首をこちらに曲げたまま目を閉じている。眠ったふりをしているのか、ほんとうに眠ったのかはわからない。わたしは無遠慮にベッドを出る。シャワーを浴びながら犬のことを考える。居間のどこにケージを置くか、子犬のしつけはプロの手も入れたほうがいいか、出張を極力減らすために職場でどのような約束を取り付けておけばいいか、そういうことを考える。わたしの犬、わたしがこれから出会う可愛い犬。わたしは彼と違って、彼だけを可愛がれば気が済むということはない。

親密さの設計

 二十歳のとき、「作戦を立てずに生きていたらいずれ人間関係がなくなるな」と思った。わたしは基本的にひとりでいたかった。自分の家族を持つにしてもひとりでいる時間はほしいと思った。昔の村社会みたいなところに所属するのはいやだった。でも完全にひとりになるのがよいのではなかった。

 個人としてぶつかるあらゆる問題のもっとも身近な対処例は親だ。わたしの親はたがいにいくらか親密に見えて、あとは数名の親戚があった。母親には年に二度ばかり会う友人が一人いて、ほかにも少しは知り合いがいるようだった。父親は会社の人間関係と自分のきょうだい以外に親しく口を利く相手はいないようだった。会社の人間関係は退職したらそれきりだろうというのもよくわかった。両親にももちろんその両親がいたが、いずれもすでに亡かった。

 わたしは思った。この人たちみたいなのは、無理だ。両親のたがいの親密さもさほど強くないように思われるのに、近所づきあいもないような地域にいて、会話をする相手が片手に余る数で、しかもそのうちいくつかは期限つきのものだなんて。わたしは孤独を好むタイプだけれど、それで何十年も過ごすのは、無理だ。彼らは孤独を好んでいるのだろうか。わたしの親だから、そうなのかもしれない。わたしより強く孤独を好んでそういう状態を選んだのかもしれない。

 友人にそう話すと、そうじゃないでしょ、と言う。あなたの親もわたしの親もそのあたりについてはなんにも考えてないよ、たぶん。なぜかというと彼らの親密な関係は、イエ制度の名残りと滅私奉公の会社勤めにともなって与えられるもので、それ以外はおまけだからだよ。彼らが若いころには濃い近所づきあいだってあったでしょう。要するに考えなくても与えられた役割をやっていればまわりに人がいてくれると錯覚できた最後の世代なんだよ。うん、そう、それは、錯覚だよ。わたしたち、彼らが年をとってからしがみつかれないように用心しなくちゃいけないよ。あの人たち、まわりに誰もいなくてさみしくなるに決まっているから。さみしいと人はおかしくなるからね。

 そりゃあ怖いなあとわたしは思った。両親は、べつにそれほど嫌いではないけれど、自分の親密な相手としてカウントするのはいやだった。だって、やっと反抗期を終えて、切り離したばかりなのだし。

 わたしは二十歳で、学生だったから、いっけん友人は多いように思われた。でもそれは環境のなせるわざだ。わたしの獲得したものではない。わたしの父親には親しく口をきく相手がほとんどいないように見えたけれど、それでも彼の勤務先の人々はたがいを親密な相手のようにあつかっていた。さらにその前には、一定の年齢になれば職場の「女の子」と結婚するしくみになっていて、わたしの母親と所帯をかまえた。そんなのは時代遅れだ。わたしが働きはじめたときに存在すると思わないほうがいい。あと、そんな職場もそんな結婚も、わたしは、いやだし。

 ということは、わたしはこれから、自力ですべての親密さを獲得しなければならないのだ。わたしはそう思った。機会を作って、選択して、選択されて、獲得・維持しなければならないのだ。わたしは少しぞっとした。それからひらきなおって条件を列記した。毎日、毎週、毎月、毎年、それ以外のパターンで、どういう人に会いたくて、どういう人に会いたくないのか、考えた。そしてそのような関係の獲得のためにさまざまな試行を繰りかえした。

 それから二十年が過ぎた。わたしには二度目の夫がいて、小学生の子どもがひとりいる。子どもが小さいときにはなかなかひとりになれず(夫はひとりの時間を持っていたから、わたしにもよこせと主張して何度もけんかした。二度目の離婚をするかと思ったほどだ)、しかしその後は、その期間のぶんまでひとりを満喫すべく、自由な時間を手に入れた。親戚づきあいはほぼ絶えた。近所づきあいならぬマンションづきあいが少しある。一年から二年に一度の頻度で集まる友人グループがふたつ、一ヶ月から一年に一度の頻度で個別に会う友人が合計七人、勤務時間外につきあいのある同僚が三人、インターネット上でのみメッセージを交換する相手が何人かいる。

 年末になると、わたしはわたしのその時点での自分の親密さに関する理想を書きだす。その横に現状を記述し、差分を埋める方法を考える。そうしてその次の年に実行する。

 そのように話すと友人は両手をぱっとひらき、ゆっくりと閉じて、言った。えらいねえ、親密な関係を自分で設計していて、立派だねえ、どういうわけか、親密な関係は「自然に」与えられるものだと思っている人、いっぱいいるからねえ。

この町を出て、永遠に戻らなかった

 東京の下町に生まれた。放課後の主な居場所だった区立図書館には「郷土の本棚」というのがあって、区内の歴史の本だとか、区内を題材にした落語を集めた本だとか、区内が登場する近代文芸のオムニバスだとか、そういうのが並んでいた。気が向いていろいろ読んだら、都市計画の大家が私の出身地一帯を指して「東京のスラム」と称していた。私は十二歳で、スラムということばを知らなかったから、辞書のコーナーに行って引いた。そこにはなんだかたいへんな印象の漢字が並んでいた。都市、貧民、貧困、密集、荒廃、失業。

 私が子どものころに住んでいた小さな一戸建てはトタン屋根で、隣もその隣もそうだった。雨が降ればばらばらと大きな音がするもので、窓をあけて手を延ばしたら隣の家の壁に触れるものだった。戸主が年をとって銭湯に通うのがきつくなるとようよう自宅に風呂をつくる、そういう町だった。敷地の大きい家はたいてい町工場を兼ねていた。町にひとつだけある大きな高層団地に住む同級生の部屋に遊びに行って階段をかんかん音たてて登ったらトタンの波が見えた。瓦葺きの家をかまえるのはけっこうなお大尽であって、あとは町工場と、当時出たてのマンションがいくらかあった。

 同世代ばかりの場でそのような子ども時代の話をすると、「いくらなんでも盛りすぎ」と言われた。「今のアラフォーで東京出身で子どもの時分にトタン屋根とか、ぜったいありえない」と言われた。ありえないと言われたってあったのだからしかたない。私は笑って、あなたがたは東京を知らないねと言った。私はトタン屋根の家から大人用の自転車の錆びたやつをむりやり使って浅草や上野に通っていたし、たまには銀座にだって行ったよ、銀座は自転車とめるところがすくないから気をつけなくちゃいけないんだよ。

 自転車をこがない、図書館にも行かない放課後には、よその家にいた。友だちの家はたいてい町工場だったから、敷地の隅に子どもたちがうろうろしていてもまったくかまわれないのだった。大人たちはトイレを貸してくれて、水道を使わせてくれて、たまにお菓子をくれて、飼い犬を河川敷に連れて行って一緒に走ると喜んだ。町には川がいくつもあった。護岸された大きな河、雑草が茂る土手のある河、もっと細い用水路めいた河。川沿いに住む大人たちは、私の背丈が伸びたとか、よく本を読むとか、むつかしいことをしゃべるとか、足が速いとか、そんなつまらないことをいちいち口に出してほめた。

 友だちは自分の家の工場の従業員のバングラデシュ人と将棋を打ち、私はチェスはさっぱりできなかったからバングラデシュ人の片言の英語をさらに心もとない日本語で復唱する係をやった。バングラデシュ人は住み込みで、「バングラさん」と呼ばれていた。バングラさんは「将棋とかわかんないけど、ムードでプレイしてる」と言った。私はバングラさんに中学校の教科書を見せ、バングラさんは英語の教科書をひらいてげらげら笑った。

 やがて町工場は次々につぶれた。友だちの工場は大きくてうまくいっていたからつぶれなかったけれど、バングラさんたちを雇うことはできなくなった。バングラさんが住んでいた工場の二階は友だちが使うことになった。友だちと私は中学三年生だった。肉屋のコロッケを私に差し出して、友だちが言った。バングラさんは強いからだいじょうぶだ。あんたも強いからだいじょうぶ。中学が終わったらこの町を出て、もう戻るな。この家は、わたしが守る、あんたはこの家の人間じゃないから、あんたの家はろくでもないから、そしてあんたは強いから、外に出て、もう戻るな。

 私は自分の気質に合った学費の安い高校に合格し、下町の区立図書館よりはるかにたくさんの本があるいくつかの図書館へのアクセス権を手に入れ、世界がどのようにできているかを学んだ。家にはろくに帰らなくなった。三年後にはもっと遠くの大学に入って「ろくでもない」生家の人間がつきまとうことのできない環境を手に入れた。そうしてたくさん仕事をして大人になって仕事をしていたら新しい仕事があるというので東京に居をかまえた。

 引っ越しが好きだから数年ごとにわけもなく居所を変える。幾度か住んでみても東京の西側はどうも水が合わない。東側だって今はきれいなマンションがいっぱい建っていて、トタン屋根なんか探したってなかなか見つからない。それでも私は近くに河のある部屋を探して住む。稼いでマンションを借りて朝な夕なに川沿いを歩く。もちろん夜中にも歩く。私はうんと昔にあの町を出て、永遠に戻らないのに。