傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

敗北を売る

 この二、三年、Youtubeで将棋の解説をしている。わりとまじめな解説なんだけど、ノリは軽くて、最終的には「でも僕、負けた人間なんで」「プロになれなかった人間の予測だ、あてにすんな」みたいな感じで笑ってもらう。いい小遣い稼ぎになっている。インターネットに顔を出してべらべらしゃべるのは旧世代の気にくわないらしく、親が家族のグループLINEで文句を言う。でも僕はもうとうに自分を食わせているし、二十代も後半だ。好きにやる。好きにしかやったこと、ないけど、小さいころからしてたことは、あまりに好きすぎて、もはや好きじゃなかった。僕の人生はとうにピークを過ぎた。だからせいぜい賑やかにしたい。おもしろおかしく笑って過ごしたい。僕の余生はものすごく長いのだろうから。

 井の中の蛙という言葉があるけれど、自分がどのくらいの井戸の、あるいは海の中にいるかは、泳いでみないとわからない。僕は保育園に置いてあった「こどもしょうぎセット」からスタートして、まあまあ大きなところまで泳いだ。プロにはなっていない。その手前まで。プロ予備軍の中には残れた。でもその中ではたいしたことなかった。それが僕の人生のピークだった。ぎりぎりまで粘ることなく見切りをつけてしばらくぶらぶらして、それから友だちが運送会社を作るというから一緒にやることにした。この進路も一般的にはリスキーなのかもしれないけど、将棋よりはぜんぜんまったく実にまともで安定している。働いて稼いで、貯金とかしちゃってさ。老後みたい。

 そんなわけで少しばかり精神が退屈して顔出し配信をはじめた。視聴者は圧倒的に同世代前後の男。僕はしゃべりがすごくうまいわけじゃないし、外見が良いわけでもないし、ネット上では自虐キャラなんだけど、そういうのって同性に需要があるんだ。ニッチな領域で新鮮なコンテンツを提供してくれて、そのくせちょっと舐めてかかれるような、決して脅威にならない、そういうキャラ。

 そんなだから女子の視聴者は少ない。でもゼロではない。だからコンタクトしてきた人間の性別に驚いたのではない。僕はTwitterのDMを開放していて、誰でも送れるようにしてるんだけど、そこにいきなりこうきた。

 何もできないんですけど親の遺産が五千万円あるんで結婚してください 負けることすらできなかった人間ですけど 人間未満ですけど 五千万円あるんで 二十四歳女

 僕はたいそう驚いて、そのDMを三回読んだ。あきらかに病的な妄想が書かれたメッセージを受け取ったことがあるんだけど、それとはちがう。支離滅裂ではない。現実にありうることが書かれている。「何もできない」「結婚してほしい」「五千万円やる」の間に矛盾はない。意味は通る。

 知らない人と結婚できません。そう書いて送った。一瞬で返信が来た。

 五千万円あります 親の遺産ですが相続税はもう払ってあります 全部あげます 半分ではなく全部です 引きこもりですけど生活費は別途あります 結婚してください

 ごめんなさい、あなたと結婚できません。そう書いて送った。また一瞬で返信が来た。

 じゃあ誰か男の人紹介してください 将棋仲間いるでしょ どうせ友だちいるでしょ みんないるんだよね友だち いないのは人間未満 誰でもいいんで結婚してくれれば五千万円あげるんで

 ブロックした。ため息を一度肺にためて細く細く口から出して、それから、相手は目の前にいないのだから自分が怯えていることを隠さなくてもいいと気づいた。将棋盤をはさんで向かい合っている相手ではない。

 僕はインターネットで「負けキャラ」を売って小遣いを稼いだ。その結果がこれか、と思った。売っているなら買わせろと、彼女はおそらくそう言っていたのだ。「負けることすらできなかった人間未満」だから、「戦って負けた人間」を買うと、そう言っていたのだ。彼女の言う「結婚」は扶養の話ではない。もちろん色恋の話でもない。自我とか存在とかを担保する機能を売れという、そういう話である。彼女は、何らかのストーリーを持つ人間と籍をともにすれば、自分がそこに寄って立つことができると信じている。おそらくはそういう理路だ。めちゃくちゃだけれど、妄想的ではない。本人なりの理屈はとおっている。いるだろう、血筋や親や配偶者がアイデンティティになってる人。構造としてはそれと同じだ。

 そのように推測してから、僕は暗澹とする。彼女は五千万円で誰かを買おうとしていた。彼女には五千万円分の大きな空洞があるのだ。そしてそれ以外にはほとんど何も残っていないのだ。

お正月を許す

 元旦の昼、「東京の伯父さん」という役割を果たすために新幹線の切符を買う。

 平均寿命の半分近くまで好き勝手に生きてきた。堅実な教育を受け、こつこつ勉強し、十八になって、好きな数学をやろうと思ったけれども、あれは完全に才能の世界で、僕にはそんなに才能がないこともすぐにわかったので、どうしようかなと思って、そのころコンピュータがインターネットにつながって、いわゆるITバブルというのが来て、それでプログラミングをやるようになった。時代の子というやつだなと思う。

 みんながやっていることをやらなきゃいけないと思わないこともなかった。僕は男のからだをしていて、自分を男だと思って、それを疑ったこともないから、当時の感覚では女の子とつきあわなくてはいけないのだった。たまたま同級生に言い寄ってもらって、いやじゃないかなと思って、みんながするようなことをひととおりやってみたけれど、控えめに言ってぜんぜん楽しくなかったし、どう考えても継続は無理で、でも、やってできないことはないから、不可能なのではないから、要するに、僕が悪いんだ、と思った。何かが故障しているのだろうと。

 ひとつも悪いことないし、悪いと言うならあなたがつきあってたリンちゃんに対して少し悪いけど、まあ、人間は、人間を、ふるので、ただそれだけで、あとは何も、ひとつも、あなたは悪くないので、故障はぜんぜんしていない、ばかか、本を読め。あとリンちゃんにはもう新しい彼氏がいる。

 友だちがそう言うので、そうか、と思った。それならよかった、と思った。本は借りて読んだ。文系の人はむつかしいことを考えるなと思った。人間の行動はしばしば文化に規制されるが、それにそぐわない者が自分を悪いと思う理由はないのだ、というようなことが書いてあった。そうか、と思った。たまには本を読むものだなと思った。

 僕の弟は「正しい」男である。高校までは僕と同じ学校に行っていた。それから地元の大学を出て新卒で地元の酒造メーカーに勤務し、同じ会社の女性と所帯を持って三年後に子をなした。完全な人生である。僕の貧しい感受性では、そういうのが完全な人生なのである。友人には叱られるだろうが。

 姪の名をリコという。理科の理に子どもの子である。今年六歳になった。六歳ともなるともう知恵がついているので、自分の父に兄がおり、東京に住んでいて、計算ができて、それを仕事にしている、というようなことを知っている。そうはいっても六歳なので、「たぶんレアなポケモンみたいなものだと思われている」と、二年ぶりに電話した弟が言っていた。

 ポケモンというのを知らないのではない。広くとらえたら僕たちの業界はゲームなしに生きてはいかれない。それでも自分がレアポケモンだと言われると、そうか、と思う。僕が悪かった、と思う。

 みんなが許してくれるから、僕はしたいことと生きるためのことのほかに何もしなかった。僕は、好悪の情にかかわらず、誰であっても接触されたらいやで、よほど慣れた人間なら隣の席に座っていてもいい。それくらいの距離感が心地いいんだ。生活は規則正しく、静粛にしたい。騒音はかぎりなくゼロに近づけたい。住居には誰も入れたくない。僕は、そういう生来の自分の好みだけで人生を構築して、それを恥じることはないけれど、恥じてはいなくても、後ろめたかった。正しくはないと思っていた。正しさというものをちゃんと考えたことがないからだと今ではわかるけれど、そういうのは僕の専門ではないから、しょうがないだろう、後ろめたくても。

 悪かったから、姪っ子にお年玉を持っていく。生家には人がたくさんいるだろう。弟が帰るタイミングで戻るのは何年ぶりだろうか。僕はそもそも帰省というものをめったにしないのだ(僕は勝手だから。そしてそれが後ろめたいから)。

 そろそろ和解しようと思う。「普通」に生まれることのなかった、僕の天性と、それをもてあましながら迫害はしなかった、僕の生家の人々と。たまに理不尽なことも言うけれど、悪い人たちではない、僕の生家と、僕の親族の集まる、「正しい日本の家庭」の祭典のような、正月を。なに、たいした仕事ではない。新幹線に乗って一時間半、在来線で一時間、それからバスに乗って、贈り物をもって、彼らのもとに行って、ひとばん泊まって、帰ってくればいいだけだ。その家には、小さい女の子が、なんだかやけに算数を好きなのだという、僕の顔だちを女の子にしたような、六歳の子どもが、伯父さんは子ども慣れしていないからきっと遊んでくれないと言い聞かせられているのに、いちばんいい服を着て「東京の伯父さん」を待っている。

影を買う

 今年のクリスマスの準備は手間取った。

 わたしの家のクリスマスは二十四日の前の週末だ。わたしが小さいときからそう決まっている。土日のどちらでもいいんだけれど、母が買い出しや料理をする時間を確保するためか、日曜日が多かった。父はだいたいいなかった。父は仕事が忙しいのだということだった。小さいときからそうだったから、いなくてかまわない。

 母は三十四歳で死んだ。わたしが八つ、妹が六つ、弟が二つのときだった。それから三年間、お手伝いの人がおおまかな家事と弟のベビーシッターをして、それから、毎月のように叔母が来て、家のことをした。叔母は母の妹で、そんなに似た姉妹ではなかったけれど、それでも血がつながっていて、年の頃が近いから、雰囲気はそれなりに、ちゃんとしたおうちみたいになった。

 母が死んで四年目に叔母は結婚した。父はわたしに言った。もうおばさんにいろいろお願いするわけにはいかない。よその家の人になるんだから。お姉ちゃんがいるから大丈夫だよな。お姉ちゃんはもう大きいもんな。

 そのとおり、わたしはもう大きかった。何でもできた。ロボット掃除機を導入して料理を覚え、お手伝いの人の来る日数を減らした。全自動洗濯乾燥機で洗えないものはぜんぶクリーニングに出した。無限に使えるわけではないけれど、うちにはそこそこお金の余裕があって、わたしにはそれを使う裁量も与えられていた。わたしは、もう大きかったから。

 わたしにはサンタクロースもプレゼントも必要なかった。もう大きい。大人みたいなものだ。叔母なんか来なくていい。どうせたいしたことをしていたわけじゃない。ただ大人だというだけのことだ。大人の女の姿をして、メリークリスマスと言って、妹と弟にプレゼントをあげる。叔母にしかできない役回りは、要するにそれだけだった。わたしは、もう十二歳で、大人みたいなものだから。

 わたしは何でもできる。家のことはわたしが何でも。だからもちろんインターネットも使い放題だ。わたしはもう知っていた。この東京では老若男女、ほとんどあらゆるタイプの人間を時間買いできる。インターネットで探せば、たいていのことをやる人間がいる。わたしは生活費を少しずつ浮かせて現金を用意した。二時間三万円で交渉しよう、とわたしは思った。いいのが見つかったら三時間で五万円出す。そのカネは家に来て三人の子どもたちとクリスマスディナーを食べるという行為に支払われるのではない。「若く見える三十四歳」のように見える、身長百五十センチ前後、やや痩せ型の、しかし痩せすぎてはいない、髪の短い面長の美人、という属性に支払われるものだ。

 中身は求めていない。母のようにまじめで上品な人が、得体の知れない単発高額バイトに応募するはずがない。でもバカはだめだ。下品なのもだめだ。母でない、そして叔母ではないことが、二時間くらいは気にならない、そういう女が必要なのだ。大人の女の形をした影が。

 「候補」からのメッセージは意識して何往復かさせた。言葉づかいを見れば最低限の知性と品性がわかる。わたしは何人かを不合格にした。写真を送らせて、それでまた何人かを不合格にした。残ったひとりは念のため交通費を支払って「面接」した。悪くはなかった。わたしは家に帰り、弟妹に向かって、クリスマスにはわたしの友人の母親が来ると言った。

 妹は十歳、弟は六歳だけれど、ふたりともとうにサンタクロースなんて信じていなかった。母がいなくなって以降、うちには子どもが寝ているあいだにプレゼントを置くような余裕はない。プレゼントはただ叔母が持ってくるーー昨年までは叔母が、今年はその身代わりが。わたしは弟や妹と一緒にプレゼントをもらう役をやる。あげる役はできない。それだけがわたしにはできないことだった。

 女は定刻にやってきた。指示どおり、大げさでない、しかしこぎれいな服装と、同じく大げさでない表情をしていた。悪くない、とわたしは思った。おばさん、とわたしは言った。女はにっこりと笑った。

 「おばさん」はうまくやった。わたしは駅までおばさんを送ると言って家を出た。自宅からじゅうぶんに遠ざかったところで、本日はありがとうございました、とわたしは言った。報酬の入った封筒を差し出すと、「おばさん」はちょっと笑って、あのねえ、と言った。おばさんね、よかったらまた来年も来ましょうか、ほかの行事でも、都合が合えば来ますよ、ね、お金はいらないの。

 わたしは女に封筒を投げつけた。ばかじゃないだろうか。影のくせに。そのまま口もきかずに帰った。女は追いかけてはこなかった。

楽しげな景色

 自分よりも年長の、それも極端に年上なのではない、ひとまわりくらい上の知己に会うとする。すると彼らはほぼ確実に、やれ老眼だ中性脂肪だ高血圧だと、話の枕のように老化の状況を口にする。その顔はちょっと楽しそうだ。中年の後輩ができて嬉しいのだと思う。彼らの老化ネタは身体にとどまらない。曰く、読書するときの持久力が衰える。仕事上のインプットが遅くなる。外国語がどんどん下手になる。物忘れのひどさといったら驚くほどだ。わたしはほうほうと彼らの話を聞き、そりゃあたいへんだ、と言う。そうして自分の腰痛や胃カメラの話をして、わたしも順調に大人の階段を上っています、と言う。

 彼らはそのように老化現象を共通の話題として軽くこなしたあと、近ごろのできごとを楽しそうに話す。わたしが仕事の悩みなど相談すると、詳細な助言と大雑把な励ましをくれる。だいじょうぶだいじょうぶ、あと二、三年の辛抱だ、そうしたら今まで積み上げてきたものが有機的につながって、ものすごくラクになる。成果も出放題だ。約束するよ。職業とあなたのいちばんいい時代はこれからだ、職とあなたは二十代で出会い、三十代に波瀾万丈を経験し、四十代で蜜月を迎える、楽しみにしておいで。

 彼らの言うことが事実かは知らない。そんなふうに話す人は若いうちからしている努力が報われたのだろうと思う。誰もが適切に努力できるのではないし、すべての努力が報われるのではないとも思う。わたし自身が正しく努力してきたかにも自信はない。だから彼ら言うことが実現するとはあまり思われない。でもわたしは、そうかあ、楽しみだあ、と言って、笑う。わたしたちはほんとうの話をしたいのではない。わたしたちは美しい物語を話したいのである。各自が世界をどのように見ているかという報告をして、その美しいところを交換したいのだ。

 わたしは年長の友人たちに、自分の仕事の相談をしたいのではなかった。具体的な相談が必要だったのはだいぶ昔のことだ。今のわたしに、彼らの助言は必要ない。わたしはただ、自分より長く生きている人が楽しそうにして、この先も楽しいにちがいないと宣言する姿が見たくって、相談めいた話題をもちかけるのだ。

 わたしももう中年なので、職場でときどき、若い女性社員のロールモデルになるようにと言われる。仕事の内容は性別に関係がない。それなのに女性と区切るのはなぜかといえば、若い女性社員が仕事を含めた生活であるとか、生き方であるとかを考えるときの参照先になるようにと、そういう話であるらしい。

 上長からそうした話をされると、わたしはあいまいな顔をする。わたしにはロールモデルという語の意味がどうもよくわからない。いろんな年齢の同性が近くにいると働きやすいのはわかる。なぜなら従来の社会は女性全般を不当に扱ってきたのであり、その悪しき文化は企業の中に深く根づいているからだ。そりゃあ同性がいたほうがよろしい。でも同性の生き方の標本が必要だという考えはよくわからない。わたしは大人になってからどこかの女性を見本にした記憶がないし、同性の友人たちからそういう話を聞いたこともない。うちの会社の使っている社員教育マニュアルか何かに書いてあるだけで、内実はないんじゃないかと思っている。だって、幼い子どもや思春期の少年少女ならいざしらず、もう大きくって、働いているのに、他人の生き方とか、どうでもいいじゃんねえ。

 わたしが見て安心するのは、自分と似た属性の人ではなくて、似た生き方をしている人でもなくて、愉快そうに生きている人だ。その人が年上なら年をとるのはいいなと思うし、若ければ今後の世の中は希望に満ちているなと思う。その人が女なら女でいるのは素敵だよねと思うし、男なら男でいるのもいいものなのだろうねと思う。わたしはあなたとぜんぜんちがう人間だけれど、あなたが楽しそうだから、わたしはうれしいですよ、と思う。

 

 わたしには昔から理想像のようなものはとくになかった。かなえたい夢のようなものもなかった。できるだけ苦痛が少なく心楽しい生活を送るという基準で進路を選んできた。今も、仕事や生活に対する願望や野心はない。目標は「健やかに長生きする」くらいのものである。ただ、自分が誰かにとってちょっといい景色であればいいなと思う。職場でもいいし、道ばたでもいい。自分が誰かの人生の好ましい背景であればいいなと思う。

人でなしの誘惑

 イラストを描いて生計を立てはじめてもうすぐ十五年になる。学生の時分から仕事をもらっていて、そのまま職業イラストレーターになった。企業に所属してはいるが、企業側の役割はほぼエージェントであり、中身は自営業者の集まりに近い。所属を経由してできる仕事がなくなれば身の振り方を考える。イラストは今とても安い。趣味で描いたイラストを公開するのも当たり前になり、注文するのではなくそれを買うという流れもできている。職業イラストレーターの市場は縮小していて、わたしのイラストも一時期より安くなった。ディレクションなど仕事の幅を広げても収入は横ばいだ。しかし、辞めるほど悲惨な状況でもない。華やかとはいえないが、まあまあ悪くない職業人生だと思っている。

 わたし自身のイラストが安くなったのは残念なことだが、発注者も描き手も多様化したのはとても良いことだと思う。この世にはできるだけたくさんの絵があってほしい。わたしはそう思う。しかしながら、多様化というのは一筋縄でいく現象ではない。多様化を受け入れるからには「常識」「普通」という語は禁句である。「わたしはこれが標準的だと認識しているのですが、御社はいかがでしょうか」くらいがギリギリの線である。

 絵を描くのがどういう作業か理解していない発注者がいる。権利関係を認識していない発注者がいる。違法な行為を「みんなやっているから」と発注する。無償で描いてほしいと言う。どれも多様化以前には考えられなかったことだ。いずれも論外で、仕事は断る。わたしは企業に所属しているから、いざとなったら社長が出てきてくれる。それでも些末なことには自分で対処しなければならない。即断るほどでない問題が重なると、ほんとうに途方に暮れてしまう。

 納品した日から一週間以上、納品確認の連絡がない。やっと返事が来たのが二十一時で、「今日のうちにこことここを修正してほしい」と書かれている(二十三時に送った)。請求書を出すと、フォーマットの修正指示が五月雨式に来る。報酬の振り込みが遅延する。成果物にクレジットされたイラストレーターの氏名がまちがっている。これらが同一の発注元で繰りかえされる。

 わたしはいちいち彼らに「それは問題ではありませんか」と指摘しなければならないのだろうか。それとも彼らの仕事を断ればいいのだろうか。そもそもそういう扱いをされること自体が、わたしに実力のない証拠なのだろうか。新人みたいにいちいち社長に出てきてもらわなくちゃいけないのだろうか。

 それはさあ、と同僚が言う。まあ実力がないってことよ。絵を描きたい人間なんかいくらでもいて、下請けであるあんたは取り替え可能な部品なんだよ。そういう依頼元は全部断るっていうのもひとつの手だねえ。でもあたしなら受ける。そしていちいち気に病まない。あんたはねえ、そういう相手を、人間だと思うから、悪いのよ。

 あんたが「彼らはどうしてあのようなのか」と考えるのは、相手をまともなプロとして扱って、自分の仲間のように思っているからだよ。失礼があってはいけないと思っているからだよ。要するに相手の職能に期待しているんだよ。だからストレスがたまる。いいかい、相手は発表媒体とカネだけを出す機能だ。向こうはあんたに礼を欠いている。そしてそれをぜんぜん気にしていない。あんただけが勝手に相手の事情やら何らやらを忖度して気に病んでいる。あんたはね、必要なことはぜんぶ先回りして決めて、条件もぜんぶ設定して、淡々と絵を送ればそれでいいんだよ。

 わたしは驚いて同僚を見る。同僚はにっと笑う。あのねえ、自分がかかわる相手すべてを人間として認めるなんて、きついことだよ、多様性の増大は、不愉快になる可能性の増大でもあるんだよ、不愉快だと感じても目に見える加害さえしなければいいんだよ、自分の仲間のことだけに心を使って、残りの人物はファンクションだと思うことだよ、業務上自分がきちんとやっているという証拠だけ残しておけばいいんだよ。業務メール全部コピペで済むよ。

 わたしはこの同僚を親切だと思っていた。やさしくて寛大だと思っていた。でもそうじゃなかった。この人は世の中の大半の人を人と思わないことで生きるための労力を省いている。だから余裕があって、他人に親切にすることができる。自分がその気になった「人」にだけ。

 わたしは言う。それって、だいぶ、人でなしっぽく聞こえるんだけど。そうねえと同僚は言う。そうかもねえ、でもあんたはいずれ、その人でなしの仲間に加わることになるだろうよ。

家を作れなかった男

 わたしの両親はわたしが十一歳のときに離婚した。そのことはとくにうらみに思っていない。わたしが小学校に上がるころまで、父はよくわたしや妹の面倒を見てくれた。父は乳幼児の相手が上手い人であったように思う。一方でわたしが少し大きくなるとなんだかよそよそしくなったし、わたしもそれほど父を慕わなくなったように思う。

 わたしは長いことそれを、父が家庭に寄りつかなくなったからだと思っていた。よその女性と恋をして家に帰ってこなくなった父をよく思えないのは当たり前だ、と解釈していた。母は父と離婚し、父はわたしと妹が二十歳になるまで相応の養育費を母の口座にふりこんだ。

 母は公平な人で、母子三人の生活のためのお金は自分が稼いでいること、わたしと妹の教育やささやかな娯楽にかかる費用は父の養育費で充当していることを、きちんとわたしたちに説明した。母も内心で思うところはあったはずだが、母の口から父の悪口を聞いたことはない。おかげでわたしも妹も、無理のない範囲で奨学金など借りながら大学を出て安定した職に就くことができた。父と面会したいと思ったことはないが、年に一度は母がもうけた席であいさつをしたし、入学や就職などの節目には感謝の手紙を書いたりもした。家庭を去った父とその娘としては、良好な関係だったと思う。

 そのような父がにわかにわたしの頭痛の種になったのはこの二、三年のことである。四年前に母が亡くなってしばらくしてからだ。

 母は定年後の悠々自適を数年楽しみ、孫の顔も見て、それから病気になった。余命のわかる病気で、母はたくさんの人たちと別れを惜しんだ。最後は自分の意思で入った緩和ケア病棟で息を引き取った。わたしはもちろんとても悲しかったけれど、親を送るのは子のつとめだとも思った。母は長女であるわたしにはときどき八つ当たりすることがあったけれど、それはわたしを深く傷つけるようなものではなかった。母は陽気でおおらかでかわいらしい人だった。母とわたしと妹と三人の家庭は、幸福なものだったと思う。わたしは母の子に生まれてよかったと思う。

 わたしは父が葬式にやってきて母の死を嘆くことに問題を感じたりはしなかった。別れたって情はあるだろう。それはいい。問題はそのあとである。今まで母を経由して来ていた連絡をわたしが直接受けるようになった。もっと事務的な連絡だろうと思っていたのに、ずいぶんウェットなのである。

 どうやら父は再婚先でも「家に帰らない人」をやったようだ。その原因が何だったかは知らない(聞きたいとも思わない)。そうして今度は家庭に戻ろうとした。しかしものごとはそう都合良くはいかないもので、二階建ての家で家庭内別居をしているというのである。玄関先などで(現在の)妻子とすれ違うと、妻子は完全に父を無視するのだという。

 そのような近況を聞かされて、わたしは十一歳のわたしの心境を理解した。この人は人間に対してきちんと向かい合うことができないのだ。ことばの通じない乳幼児の相手をするスキルはあるし、男と女という役割を演じるような恋愛も好んでやる。しかし、人間と向き合って日常を築きあげるということが、この人にはできない。きっとそうなのだ。だから十歳を超えたわたしはこの人を慕うことができなかったのだ。だから両親の離婚がそんなに悲しくなかったのだ。

 父がわたしにもたれかかろうとしているのはあきらかなことだった。わたしはどうにかして父と距離を取ろうと努力した。入院したというメールが入ったときには「ご家族によろしくお伝えください」と送信した。しかし、入院先の病院からなぜかわたしに連絡が入るのである。しかたがないから行った。入院の保証人や何かは再婚相手にしてもらってくださいと言うと、あの女は追い返した、と言う。あの女はおれのカネ目当てで別れる気はないからこういうときだけしゃしゃり出てくるんだ。老いた男はそのように言った。十一歳まで一緒に暮らしていたその人を、たとえ心の中だけでも「父」と呼ぶ気にはもはやなれなかった。

 人と向き合うことをしなかった男が年をとって誰かを頼りたくなり、しかし家族は冷たい。男は思う。最初の妻は亡くなったが、今にして思えばあのころが一番幸せだった。妻は自分を愛していたし、娘たちは自分によくなついていた。自分さえ一時の恋を選ばなければ、あの家庭は今でもあったのだ。

 キモい。圧倒的にキモい。わたしは鳥肌を立てながら最低限必要な書類だけを書いて病院を出た。父ではない、と繰り返し思った。あの老人はわたしの父ではない。わたしの父はわたしが十一歳のときにいなくなった。