傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

楽しげな景色

 自分よりも年長の、それも極端に年上なのではない、ひとまわりくらい上の知己に会うとする。すると彼らはほぼ確実に、やれ老眼だ中性脂肪だ高血圧だと、話の枕のように老化の状況を口にする。その顔はちょっと楽しそうだ。中年の後輩ができて嬉しいのだと思う。彼らの老化ネタは身体にとどまらない。曰く、読書するときの持久力が衰える。仕事上のインプットが遅くなる。外国語がどんどん下手になる。物忘れのひどさといったら驚くほどだ。わたしはほうほうと彼らの話を聞き、そりゃあたいへんだ、と言う。そうして自分の腰痛や胃カメラの話をして、わたしも順調に大人の階段を上っています、と言う。

 彼らはそのように老化現象を共通の話題として軽くこなしたあと、近ごろのできごとを楽しそうに話す。わたしが仕事の悩みなど相談すると、詳細な助言と大雑把な励ましをくれる。だいじょうぶだいじょうぶ、あと二、三年の辛抱だ、そうしたら今まで積み上げてきたものが有機的につながって、ものすごくラクになる。成果も出放題だ。約束するよ。職業とあなたのいちばんいい時代はこれからだ、職とあなたは二十代で出会い、三十代に波瀾万丈を経験し、四十代で蜜月を迎える、楽しみにしておいで。

 彼らの言うことが事実かは知らない。そんなふうに話す人は若いうちからしている努力が報われたのだろうと思う。誰もが適切に努力できるのではないし、すべての努力が報われるのではないとも思う。わたし自身が正しく努力してきたかにも自信はない。だから彼ら言うことが実現するとはあまり思われない。でもわたしは、そうかあ、楽しみだあ、と言って、笑う。わたしたちはほんとうの話をしたいのではない。わたしたちは美しい物語を話したいのである。各自が世界をどのように見ているかという報告をして、その美しいところを交換したいのだ。

 わたしは年長の友人たちに、自分の仕事の相談をしたいのではなかった。具体的な相談が必要だったのはだいぶ昔のことだ。今のわたしに、彼らの助言は必要ない。わたしはただ、自分より長く生きている人が楽しそうにして、この先も楽しいにちがいないと宣言する姿が見たくって、相談めいた話題をもちかけるのだ。

 わたしももう中年なので、職場でときどき、若い女性社員のロールモデルになるようにと言われる。仕事の内容は性別に関係がない。それなのに女性と区切るのはなぜかといえば、若い女性社員が仕事を含めた生活であるとか、生き方であるとかを考えるときの参照先になるようにと、そういう話であるらしい。

 上長からそうした話をされると、わたしはあいまいな顔をする。わたしにはロールモデルという語の意味がどうもよくわからない。いろんな年齢の同性が近くにいると働きやすいのはわかる。なぜなら従来の社会は女性全般を不当に扱ってきたのであり、その悪しき文化は企業の中に深く根づいているからだ。そりゃあ同性がいたほうがよろしい。でも同性の生き方の標本が必要だという考えはよくわからない。わたしは大人になってからどこかの女性を見本にした記憶がないし、同性の友人たちからそういう話を聞いたこともない。うちの会社の使っている社員教育マニュアルか何かに書いてあるだけで、内実はないんじゃないかと思っている。だって、幼い子どもや思春期の少年少女ならいざしらず、もう大きくって、働いているのに、他人の生き方とか、どうでもいいじゃんねえ。

 わたしが見て安心するのは、自分と似た属性の人ではなくて、似た生き方をしている人でもなくて、愉快そうに生きている人だ。その人が年上なら年をとるのはいいなと思うし、若ければ今後の世の中は希望に満ちているなと思う。その人が女なら女でいるのは素敵だよねと思うし、男なら男でいるのもいいものなのだろうねと思う。わたしはあなたとぜんぜんちがう人間だけれど、あなたが楽しそうだから、わたしはうれしいですよ、と思う。

 

 わたしには昔から理想像のようなものはとくになかった。かなえたい夢のようなものもなかった。できるだけ苦痛が少なく心楽しい生活を送るという基準で進路を選んできた。今も、仕事や生活に対する願望や野心はない。目標は「健やかに長生きする」くらいのものである。ただ、自分が誰かにとってちょっといい景色であればいいなと思う。職場でもいいし、道ばたでもいい。自分が誰かの人生の好ましい背景であればいいなと思う。

人でなしの誘惑

 イラストを描いて生計を立てはじめてもうすぐ十五年になる。学生の時分から仕事をもらっていて、そのまま職業イラストレーターになった。企業に所属してはいるが、企業側の役割はほぼエージェントであり、中身は自営業者の集まりに近い。所属を経由してできる仕事がなくなれば身の振り方を考える。イラストは今とても安い。趣味で描いたイラストを公開するのも当たり前になり、注文するのではなくそれを買うという流れもできている。職業イラストレーターの市場は縮小していて、わたしのイラストも一時期より安くなった。ディレクションなど仕事の幅を広げても収入は横ばいだ。しかし、辞めるほど悲惨な状況でもない。華やかとはいえないが、まあまあ悪くない職業人生だと思っている。

 わたし自身のイラストが安くなったのは残念なことだが、発注者も描き手も多様化したのはとても良いことだと思う。この世にはできるだけたくさんの絵があってほしい。わたしはそう思う。しかしながら、多様化というのは一筋縄でいく現象ではない。多様化を受け入れるからには「常識」「普通」という語は禁句である。「わたしはこれが標準的だと認識しているのですが、御社はいかがでしょうか」くらいがギリギリの線である。

 絵を描くのがどういう作業か理解していない発注者がいる。権利関係を認識していない発注者がいる。違法な行為を「みんなやっているから」と発注する。無償で描いてほしいと言う。どれも多様化以前には考えられなかったことだ。いずれも論外で、仕事は断る。わたしは企業に所属しているから、いざとなったら社長が出てきてくれる。それでも些末なことには自分で対処しなければならない。即断るほどでない問題が重なると、ほんとうに途方に暮れてしまう。

 納品した日から一週間以上、納品確認の連絡がない。やっと返事が来たのが二十一時で、「今日のうちにこことここを修正してほしい」と書かれている(二十三時に送った)。請求書を出すと、フォーマットの修正指示が五月雨式に来る。報酬の振り込みが遅延する。成果物にクレジットされたイラストレーターの氏名がまちがっている。これらが同一の発注元で繰りかえされる。

 わたしはいちいち彼らに「それは問題ではありませんか」と指摘しなければならないのだろうか。それとも彼らの仕事を断ればいいのだろうか。そもそもそういう扱いをされること自体が、わたしに実力のない証拠なのだろうか。新人みたいにいちいち社長に出てきてもらわなくちゃいけないのだろうか。

 それはさあ、と同僚が言う。まあ実力がないってことよ。絵を描きたい人間なんかいくらでもいて、下請けであるあんたは取り替え可能な部品なんだよ。そういう依頼元は全部断るっていうのもひとつの手だねえ。でもあたしなら受ける。そしていちいち気に病まない。あんたはねえ、そういう相手を、人間だと思うから、悪いのよ。

 あんたが「彼らはどうしてあのようなのか」と考えるのは、相手をまともなプロとして扱って、自分の仲間のように思っているからだよ。失礼があってはいけないと思っているからだよ。要するに相手の職能に期待しているんだよ。だからストレスがたまる。いいかい、相手は発表媒体とカネだけを出す機能だ。向こうはあんたに礼を欠いている。そしてそれをぜんぜん気にしていない。あんただけが勝手に相手の事情やら何らやらを忖度して気に病んでいる。あんたはね、必要なことはぜんぶ先回りして決めて、条件もぜんぶ設定して、淡々と絵を送ればそれでいいんだよ。

 わたしは驚いて同僚を見る。同僚はにっと笑う。あのねえ、自分がかかわる相手すべてを人間として認めるなんて、きついことだよ、多様性の増大は、不愉快になる可能性の増大でもあるんだよ、不愉快だと感じても目に見える加害さえしなければいいんだよ、自分の仲間のことだけに心を使って、残りの人物はファンクションだと思うことだよ、業務上自分がきちんとやっているという証拠だけ残しておけばいいんだよ。業務メール全部コピペで済むよ。

 わたしはこの同僚を親切だと思っていた。やさしくて寛大だと思っていた。でもそうじゃなかった。この人は世の中の大半の人を人と思わないことで生きるための労力を省いている。だから余裕があって、他人に親切にすることができる。自分がその気になった「人」にだけ。

 わたしは言う。それって、だいぶ、人でなしっぽく聞こえるんだけど。そうねえと同僚は言う。そうかもねえ、でもあんたはいずれ、その人でなしの仲間に加わることになるだろうよ。

家を作れなかった男

 わたしの両親はわたしが十一歳のときに離婚した。そのことはとくにうらみに思っていない。わたしが小学校に上がるころまで、父はよくわたしや妹の面倒を見てくれた。父は乳幼児の相手が上手い人であったように思う。一方でわたしが少し大きくなるとなんだかよそよそしくなったし、わたしもそれほど父を慕わなくなったように思う。

 わたしは長いことそれを、父が家庭に寄りつかなくなったからだと思っていた。よその女性と恋をして家に帰ってこなくなった父をよく思えないのは当たり前だ、と解釈していた。母は父と離婚し、父はわたしと妹が二十歳になるまで相応の養育費を母の口座にふりこんだ。

 母は公平な人で、母子三人の生活のためのお金は自分が稼いでいること、わたしと妹の教育やささやかな娯楽にかかる費用は父の養育費で充当していることを、きちんとわたしたちに説明した。母も内心で思うところはあったはずだが、母の口から父の悪口を聞いたことはない。おかげでわたしも妹も、無理のない範囲で奨学金など借りながら大学を出て安定した職に就くことができた。父と面会したいと思ったことはないが、年に一度は母がもうけた席であいさつをしたし、入学や就職などの節目には感謝の手紙を書いたりもした。家庭を去った父とその娘としては、良好な関係だったと思う。

 そのような父がにわかにわたしの頭痛の種になったのはこの二、三年のことである。四年前に母が亡くなってしばらくしてからだ。

 母は定年後の悠々自適を数年楽しみ、孫の顔も見て、それから病気になった。余命のわかる病気で、母はたくさんの人たちと別れを惜しんだ。最後は自分の意思で入った緩和ケア病棟で息を引き取った。わたしはもちろんとても悲しかったけれど、親を送るのは子のつとめだとも思った。母は長女であるわたしにはときどき八つ当たりすることがあったけれど、それはわたしを深く傷つけるようなものではなかった。母は陽気でおおらかでかわいらしい人だった。母とわたしと妹と三人の家庭は、幸福なものだったと思う。わたしは母の子に生まれてよかったと思う。

 わたしは父が葬式にやってきて母の死を嘆くことに問題を感じたりはしなかった。別れたって情はあるだろう。それはいい。問題はそのあとである。今まで母を経由して来ていた連絡をわたしが直接受けるようになった。もっと事務的な連絡だろうと思っていたのに、ずいぶんウェットなのである。

 どうやら父は再婚先でも「家に帰らない人」をやったようだ。その原因が何だったかは知らない(聞きたいとも思わない)。そうして今度は家庭に戻ろうとした。しかしものごとはそう都合良くはいかないもので、二階建ての家で家庭内別居をしているというのである。玄関先などで(現在の)妻子とすれ違うと、妻子は完全に父を無視するのだという。

 そのような近況を聞かされて、わたしは十一歳のわたしの心境を理解した。この人は人間に対してきちんと向かい合うことができないのだ。ことばの通じない乳幼児の相手をするスキルはあるし、男と女という役割を演じるような恋愛も好んでやる。しかし、人間と向き合って日常を築きあげるということが、この人にはできない。きっとそうなのだ。だから十歳を超えたわたしはこの人を慕うことができなかったのだ。だから両親の離婚がそんなに悲しくなかったのだ。

 父がわたしにもたれかかろうとしているのはあきらかなことだった。わたしはどうにかして父と距離を取ろうと努力した。入院したというメールが入ったときには「ご家族によろしくお伝えください」と送信した。しかし、入院先の病院からなぜかわたしに連絡が入るのである。しかたがないから行った。入院の保証人や何かは再婚相手にしてもらってくださいと言うと、あの女は追い返した、と言う。あの女はおれのカネ目当てで別れる気はないからこういうときだけしゃしゃり出てくるんだ。老いた男はそのように言った。十一歳まで一緒に暮らしていたその人を、たとえ心の中だけでも「父」と呼ぶ気にはもはやなれなかった。

 人と向き合うことをしなかった男が年をとって誰かを頼りたくなり、しかし家族は冷たい。男は思う。最初の妻は亡くなったが、今にして思えばあのころが一番幸せだった。妻は自分を愛していたし、娘たちは自分によくなついていた。自分さえ一時の恋を選ばなければ、あの家庭は今でもあったのだ。

 キモい。圧倒的にキモい。わたしは鳥肌を立てながら最低限必要な書類だけを書いて病院を出た。父ではない、と繰り返し思った。あの老人はわたしの父ではない。わたしの父はわたしが十一歳のときにいなくなった。

愛されない子のピアノ

 両親から相続した小さな二階建てをリフォームしてひとりで住んでいる。空き部屋があるので、ときどきそこに人を住まわせる。たいていは自分の住居を見つけて出て行くから、わたしはまたひとりになる。しばらくひとりでいて、また別の人を住まわせる。わたしのそのような癖を知る友人は「人を拾うなんてよくないことだよ」と言う。

 わたしは楽器メーカーが運営する教室にピアノ教師として雇われている。それからときどき演奏の仕事をする。ディナーショーの伴奏とか、そういうやつだ。忙しくはない。嫌いな仕事ではない。しかし心躍ることもさほどない。

 だからたぶんわたしは暇なのだ。暇でさみしいからときどき人を拾うのである。礼子はわたしのそういうところを見抜いていたように思う。礼子をわたしに紹介したのは音大時代の同級生である。「才能があって生活力がないから空き部屋に置いてやって」ということだった。ピアノを弾かせてみると、おそろしく明晰で隅から隅まできわめて硬質な、ほとんど恐怖を感じさせるような演奏をした。そこには完全なひとつの世界があった。透明で永遠に罅割れることのない孤独だけでできた世界。

 空き部屋に住んでいいと言うと礼子はとても喜んで感謝の意を述べた。それは伝わったが、やりかたはものすごく下手だった。穏当に会話をするだけのコミュニケーション能力がそなわっていないようだった。これじゃあ社会でうまくいくわけがないよな、とわたしは思った。

 礼子はピアノがそれほど好きというわけではなかった。親に習わされていたから弾けるというようなことを礼子は言った。自分の演奏の価値には興味がないようだった。礼子にはもうひとつ才覚がそなわっていた。数学だ。わたしにはわからない分野だが、どうやら極端に数学ができる人間を雇いたい企業があるらしく、礼子には収入があった。ただ、正社員として勤められるだけの社会性がなく、近隣とのトラブルで住んでいたアパートを退去したあと、新しい物件を借りることができずにいるということだった。

 礼子が人を恋しがっていることはわたしにもわからないのではなかった。礼子はどうして自分の人生がうまくいかないのかひどく悩んでいた。わたしが自室にいると、突然ばんばん扉をたたき、扉の外から、どうして自分には友だちができないのだろう、親密な関係が持てないのだろう、というような意味の大量のせりふをものすごい早口で投げかけてきた。わたしにもとくに親密な関係はないと答えると、礼子は「嘘つき」と言った。礼子はめったにピアノを弾いてくれなかったので、わたしはこの同居人と親しく話をしようとは思わなかった。まして踏み込んだ相談に乗る気にはなれなかった。

 ある日、知らない人間の声が聞こえたので、礼子の部屋に入った。礼子は薄汚い女と向かい合って座っていた。その女の身なりはあきらかにまともではなく、部屋には異臭がただよっていた。女は落書きめいたアイライナーの内側の巨大な目をぎょろぎょろと動かし、しかし決してわたしと目を合わせることなく、歯茎を剥き出しにして侮蔑的な表情をつくり、礼子に向かって、何このババア、礼子さんのカラダ目当てなんじゃねえの、こういう終わってるババアまじキモい、と言った。

 わたしは礼子に女を泊めてはならないと告げた。礼子は決して首を縦に振らなかった。女は部屋に居座り、自分はここに住んで当然とばかりにずうずうしく起居しはじめた。わたしは礼子に、あの女を追い出しなさい、と言った。礼子は頑として言うことを聞かなかった。あの子を見捨てることは自分を見捨てることだと言った。礼子からそんなにはっきりとしたことばを聞いたことはなかった。わたしはあの女を追い出さないと警察を呼ぶと宣言した。礼子はべそべそ泣いたり長々と(礼子なりに考えたのであろう)口上を述べたりしたが、わたしは決して応じなかった。礼子はわたしが警察を呼ぶ前に、女と一緒に出て行った。 

 そのような顛末を話すと、友人はため息をつき、あなたが悪い、と言った。何をどう考えてもあなたが悪い。何ら責任を負うつもりのない相手を自分の家に住まわせて、大家と店子という線引きをせず、相手が親密になりたがってもこたえず、才能だけを鑑賞して、自分の領域には決して踏み込ませない。あなたは、ほんとうにひどいことをした。

 礼子さんが別の人を拾ってきたのは、何のことはない、あなたの真似をしたんだよ。礼子さんはさみしかったんだよ。飢えが筋肉を細らせるようにさみしさに精神を食われていたんだよ。だからどうしても他人を助けてそばに置いておかずにはいられなかったんだよ。

愛された子のピアノ

 メイ先生の家に行く。メイ先生はわたしが小学生のときに近所でピアノ教室をしていたおばあさんである。息子たちが独立して久しく、五年前に夫が亡くなってひとり暮らしをしている。さみしかろうと思ってときどき行く。

 わたしにとってピアノはただの手習いのひとつで、たまたま自分に与えられたものだった。幼いころからそういう認識を持っていたし、両親もそのような姿勢だった。だからてきとうにやっていた。妹も同じようなものだったはずだ。それでも、妹の弾くピアノには自然に人を引きつける響きがあった。妹はときどき、集中しすぎているような、ぼんやりしているような、半ばこの世にいない者のような顔をすることがあって、ピアノを弾いているときもしばしばそうなった。

 妹は特段に造作が整った子というわけではなかった。目から鼻に抜けるような賢いタイプでもなかった。でも妹は特別な子どもだった。はじけるように活発で、思いもかけないことを言い、早弾きみたいに笑った。そのくせときどき手がつけられないほど陰鬱な顔をしてふさぎこんでいた。赤ちゃんみたいなところと大人みたいなところが同居していた。子どもたちは競って妹と仲良くなりたがったし、大人たちも妹を見るとほとんど必ず相好を崩した。

 メイ先生ももちろん妹を可愛がっていた。メイ先生の家は近所で、自宅にピアノを置いて子どもに手習いをさせる、町の教室だった。わたしと妹は週に一度か二度、メイ先生の教室に通っていた。

 わたしにとってメイ先生は大勢いる周囲の大人のひとりにすぎなかった。ピアノも当たり障りのない習い事でしかなかった。でもわたしが愛の不公平さについて知ったのはピアノ教室でのことだった。妹はただピアノを弾いていただけだし、メイ先生もそのそばでときどきアドバイスを与えているだけだった。それなのに、わたしは直感した。義務や利害抜きに、メイ先生は妹を好きなのだ。わたしは絶対に妹のように特別に愛されることはない。そしてそれはメイ先生にかぎったことではない。妹は特別に愛される子どもで、わたしはそうじゃないんだ。わたしはふつうなんだ。

 その感情は喜びでも悲しみでもなかった。高揚感があり、落ち着きのなさがあり、妹がうらやましいと感じる一方で、目立つのは好きじゃないから妹みたいじゃなくてよかったとも思い、そんなにも特別な子どもがわたしの妹だということが誇らしくもあった。わたしたちは仲の良い姉妹だった。

 だった、と思う。でも妹は若くして周囲の誰にも行き先を告げず姿を消した。成人後のことで、事件性も確認されず、本人の意思で行方をくらました、ということになった。残された家族はどうしたらいいかわからなかった。

 そもそもわたしも両親も、妹のことをそれほど理解していなかった気がする。妹の素行や成績は平凡の範疇だったけれど、内面はそうではなかったように思う。妹にはわたしや両親にはない、触覚とかしっぽとか、そういうものが実はついていて、それでもって世界のひどく邪悪な部分、あるいは焼かれるほど美しい部分に触れてしまって、だからわたしたちの知らない世界に行ったんじゃないかと思う。

 メイ先生を訪ねるとお菓子が出てくる。ブルボンの、うんと昔からある、個包装の菓子だ。ピアノ教室でも同じものをときどきくれた。わたしはもう大人で、メイ先生はおばあさんで、だからわたしはもっとフォーマルなお菓子を手土産にしているけれど、メイ先生が出すものは変わらない。わたしはそれを決まってひとつだけ食べる。

 あなたが小さかったころ、とっても楽しかったわね。メイ先生が言う。お教室にはいろんな子が来たけれど、みんなかわいかった。夕方になるとみんなおうちに帰った。わたしも急いで家族のごはんを作った。家族が帰ってきて、ごはんを食べて、テレビを観て。それ以上のことなんかなかったわ。

 でもね、そういう日々が引き留められないものもあるの。人はいなくなることがあるの。本人の意思かもしれないし、何か恐ろしいことが起きたのかもしれない。真実はわからない。でもいいこと、妹さんがいなくなったのはあなたのせいではないの。あなたの妹さんは、あなたがわかってあげなかったからどこかへ行ってしまったのではないの。何年も何十年も自分を責め続けてはいけないのよ。

 はい、とわたしはつぶやいた。妹はみんなから愛されていた。でもその愛は妹をこの日常に引きとめておく錨にはならなかった。わたしはそのことにずっと納得していなかった。わたしはこんな年齢になるまで、それを認めていなかった。わたしはうつむいて少しだけ泣いた。

長い法要

 もうすぐ帰国します。二週間ほどいるので、お暇な日を教えていただけませんか。日本っぽいものが食べたいな。

 そのようなメッセージが入る。履歴をさかのぼると去年にも似たようなメッセージがある。その前は一昨昨年。海外に住む知人から、「帰国するから食事でも」というメッセージが入ったなら、出かけていく人は多いだろう。

 でもわたしは知っている。人間は、会わないで済ませたい人間には会わない。家族でも親戚でも親しい友人でもない相手に対する「帰国するから」ということばは意味のないエクスキューズにすぎない。彼女はわたしに、一年から二年に一度のペースで会うことを、かなり意図的にやっているのだと思う。

 ごめんなさあい、お待たせしちゃって。彼女はよくとおる、ちょっと甘い声で言う。わたしは胸の中に冷たい水が満ちるように感じ、しかしそれが顔に出るような年齢ではもはやなく、ほどよい笑顔を彼女に向ける。

 彼女は椅子を引く。わたしの目の前にあるメニューを、からだを斜めにして覗きこむ。わたしはできるだけ平然と座っている。肩の触れるようなカウンターの店を選んだのはわたしだ。並んで座って身を寄せるようにして話す状況を作ったのはわたしだ。わたしはそんなの平気なんだと彼女に示してやりたいのかもしれなかった。

 わたしは彼女の顔を見る。女の顔である。化粧をしている。髪が長い。しかし目鼻は彼女の兄にそっくりである。いや、そっくりだったと思う。わたしはもはや彼女の兄の顔を忘れた。わたしは定期的に会わない人の顔をきれいさっぱり忘れてしまう。だから彼女の兄の顔を思い出すこともふだんはない。しかし彼女があらわれると「そうだ、かつてこのような顔の男がいたのだった」と思わざるをえない。

 わたしは彼女と話す。わたしたちにはいくつかの共通点があり、近況と現在の興味だけで二、三時間は楽しく会話することができる。彼女は話す。彼女は笑う。わたしは彼女の声を聞く。女の声である。しかし、音の高さを少し下げてやれば、その声は彼女の兄の声とほとんど同じなのだった。きょうだいとは不思議なものである。話しかたやアクセントの癖もほとんど同じだから、よけいそっくりに聞こえる。興が乗ったときのトーンの上がりかた、息を吸う間合い、笑い声を刻むリズム。ぜんぶ同じだ。

 わたしの視界は少し揺れる。彼女の兄を想起する。しかし彼女は兄の話をしない。わたしも彼女の兄の話をしない。その男は十年前に死んだ。自分の意思で死んだ。彼の遺骸は警察からそのまま火葬場に送られて骨にされた。彼の両親の意向ということであった。家族以外で彼との別れを惜しみたい者は彼の両親の自宅を訪ね、骨壺の入った箱がしつらえられたスペース(宗教色のない祭壇というような体裁で、厳かにととのえられていた)の前で神妙に手を合わせた。わたしもそうした。奇妙なものだなと思った。人間は死んだらそれまでだし、火葬のタイミングだって遺族の好きにしたらいいとわたしは思うけれど、ただ箱の前で神妙にしていても「ああ、あの人は死んだのだな」という気はあまりしないのだった。

 死者の妹が死者のあれこれを欲しがるものだから、手元にあった写真だの何だのをあげた。死者の書いた文章もあげた。そうしたらだんだん「あの人は死んだのだな」という気分になってきた。助かった、と思った。

 彼の妹はその後、海外に就職した。そうして忘れたころに「帰国します」というメッセージを送ってくるようになった。会えば食事をともにし、近況を話す。まるで昔のクラスメートか何かみたいに。でもわたしと彼女が最初に会ったのは死んだ男の骨の前だ。わたしと彼女はただ死んだ男によってのみつながっている。

 死んだ男にそっくりの目鼻と死んだ男にそっくりの声音が定期的にわたしの前に提示される。何かのしるしのように。何かの信号のように。

 彼女は生きているので年をとる。笑うと目尻にさざなみのように皺が寄る。それは彼にはなかった。あったらきっと似合っていただろうと思う。そう思わせるために、彼女はわたしの目の前に来るのかもしれない。

 駅まで歩く。彼女は楽しそうに話している。わたしも楽しく話している。駅に着く。それではと言う。彼女はわたしに抱きつく。ハグしましょうよと言う。わたしは彼女に向き直り、あいさつにふさわしい動作で軽く抱きしめる。彼女は背の高い女で、ヒールを履くと兄と同じ身長になる。電車がやってくる。わたしは彼女に手を振る。彼女はわたしに手を振る。