傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

劇場から出ない

 だって仲良くなって何度かおたがいの部屋に泊まった相手なら、部屋の中を下着でうろうろするものでしょ。

 私がそう言うと彼女は完全に沈黙し、それから、ほう、とつぶやいた。そのつるりとしたひたいに「保留」と書いてあるかのようだ。インテリジェントな人間によくあることだけれど、相手の意見を言下に否定することを下品だと考えているのだろう。

 それはちがうと思うの?私はそのように訊く。彼女は慎重に首をかたむけ、そう、うん、えっと、そう思う、とこたえる。私は考えて、言う。お行儀がよい人なら、恋人の部屋にいても、ちゃんと部屋着を着るんだろうね、あるいは子どもができて、教育上の理由で部屋着を着てすごすのでしょう。彼女はますます慎重なようすで、そうかもしれない、と言う。

 部屋着じゃないのだ。私はそう判断して確認する。つまり眠るまでは街着を着ているわけだ、お化粧も落とさない、おたがいにきちんとしている、それがどちらかのおうちであっても。彼女はあいまいにうなずき、でもまあ、わたしのささやかな経験にすぎないから、と言う。

 私の記憶によれば彼女の色恋の経験はそれほどささやかではない。でもそんなことはたいした問題ではない。一人だろうが十人だろうが統計的には超ささやかである。適切なサンプリングで適切なボリュームに対して調査をしなければ「恋人の自室ではだらしない格好をする者が多数派」みたいなことは言えない。

 言えないが、私はみんなそうだと思っていた。だって、家では、リラックスするものだからだ。私が親密になった相手はみな、流れるような動作で外出着を脱いでハンガーにかけていた。記憶にあるかぎり、そうしなかった人はいない。全員が当たり前に脱いでいた。フォークとナイフがたくさんあったら向かって外側から使う、くらいの感じで脱いでいた。

 ひとつ確認したい、と彼女が言う。さやかさんは彼氏とかの家に行ったら化粧を落とすんだね。そりゃあもう完全に落とすとも、と私はこたえる。それから思い出す。夏目漱石かなにかの小説で風呂上がりに薄化粧をする女が出てきた。主人公の男は寝間着に薄化粧の女を見て「おお」と思うのである。

 わたしは、と彼女が言う。わたしは薄化粧なんかしない。お風呂から上がったら、きちんとお化粧する。男の人がナチュラルだって言うようなやつを。髪だってセットする。自分ひとりのときみたいな格好はぜったいにしない。だってみっともないもの。生活感が出ちゃうもの。彼が来ているのに、プランクの格好でリルケを読むような真似はできない。

 私はたいそう感心した。体幹を鍛えながらリルケ。とても素敵だ。恋人に見せたらますます惚れるのではないかと思う。でも彼女は恋人の前では決してそうしないのだ。それは舞台裏だから。美しくあるための支度であって、仕上がった美ではないから。私は人と親密になったら生活の一部をともにするものだと思っているけれど、彼女はそうではないのだ。生活を排除し、美しい舞台を作り上げることこそが彼女にとっての恋なのだ。

 彼女は言う。そもそもわたしは彼の前で眠っていない。少しうとうとするだけ。そして早朝のうちに帰る、あるいは彼が帰るのを待つ。だって人間は熟睡したら口が開くし、へんな姿勢で寝返りを打つし、そしたら化粧が崩れるし、いびきだってかくかもしれないんだよ。

 私はますます感心した。人間が持っている当たり前のみっともなさを、彼女はぜったいに恋に持ち込まないのだ。カメラの前の女優さんみたいだ。よくしたもので、そういう人には同じタイプの恋人ができるものらしい。彼らが彼らの自宅にいるところを私は想像する。外にいるよりは気を抜いた姿勢の、しかしその崩し具合すら制御している二人が、決して取り乱すことなく、すてきな動作でくちづけをし、すてきな姿勢で眠っている(ふりをしている)ところを。描れない絵のモデルたち。撮影されない映画の主演。無人の劇場で演じられる恋。

 すてきだねえ、と私は言う。あなたたちは、きれいだねえ、と言う。どうもありがとう、と彼女は言う。おたがいに格好つけない関係、いいなって思うよ、でもわたしにはできない。わたしは、恋をもっと美しいものだと思ってしまう、美術館に置かれるようなものだと思ってしまう、夢のような恋人でありたいと思ってしまう、だから、ねえ、彼が結婚してほしいというんだけど、そんなの無理に決まってるじゃない、彼、どうしてそんなこと言うんだろう、どうしてわたしたちの恋を、生活といううすのろに売り渡そうとするんだろう。

 

追記
この「劇場から出ない」人から返信をもらいました。

note.mu

夫が病気になったので

 朝はテレビのニュース番組をつけっぱなしにして、見ていたり見ていなかったりする。わたしの家の朝の日常的な光景だ。夫は決まってトーストとコーヒー、わたしはそれに加えてヨーグルトかチーズを食べる。トーストを焼くのは夫、コーヒーを淹れるのはわたしである。娘が生まれる前は朝食に火を使うこともあったが、今はそんな余裕はもちろんない。娘はパンをあまり好まないので、まとめて作って冷凍しておいたいくつかの味つけのおにぎりをレンジアップして食べさせる。食べないこともあるが、わたしも夫もあまりうるさくは言っていない。

 今朝は娘が自ら保育園に行く支度をしたので少々の余裕があり、ニュースを横目で見ながら感想を述べた。さる医科大学が女性受験生の得点を割り引いたというもので、非常に差別的かつ複合的な問題を感じさせる事件だ。それを見たわたしは当然怒った。ひどい事件だ、と言った。すると夫が言った。しかたないんじゃないの、女医さんばかりじゃ困るんだから、ちゃんとした医者がいないと。

 えっ、と思う。振り返ると夫はすでにいない。ドアが閉じる音がする。夫は通常の出勤時間、わたしは娘が小さいあいだは送り迎えの「送り」ができるよう職場で調整してもらっているのだ。娘が得意げに支度のできたところを見せにくる。娘に朝食をとらせる。娘は小さなおむすびをひとつだけ食べる。娘に靴を履かせる。自分の靴を履く。先ほどの記憶がよぎる。背筋が寒くなる。けれどそれも朝のあわただしさ、娘の登園と自分の出勤を時間内に終わらせる義務感の後ろにすっと下がってしまう。

 夫と喧嘩をしたことがないのではない。結婚直後、妊娠時、出産後、生活が変わるたびに激しく言い争った。家の中でどちらが何をするか、何をどこまで許容するかというのが、その主題だった。要するに生活のための喧嘩である。わたしばかりが損をしているとわたしは思いたくなかった。喧嘩をしてでも納得のいく家庭内の負担のわけあいをしたかった。夫は喧嘩から逃げたことはなかった。ちゃんと自己主張をし、折れたり折れない理由を述べたりした。だからわたしは夫をとても信頼していた。

 あの発言はいったいなんだったのか、とわたしは思った。あれは論外だろう。夫はわたしの仕事を認めて、娘の教育についてもちゃんと考えている人だ。少なくともわたしはそのように認識している。でもあんなことを言った。わたしは帰りの電車でネットスーパーの注文ボタンを押しながら決意する。夫をきちんと問いたださなければなるまい。

 しかしその夜、夫の帰りは遅かった。翌日はわたしが残業である。わたしと夫は保育園の送り迎えの割り振りをしながらたがいの仕事時間を調整しているのだ。週に一度は近くに住むわたしの母が全面的に育児と家事をサポートしてくれている。朝のニュースが流れる。わたしはそこから目をそらす。当たり障りのないニュースでありますように、と思う。そうして気づく。わたしのトーストがない。

 夫は当たり前の顔をしてコーヒーをのんでいる。パン食べないの、と訊くと、出てこないからね、と言う。わたしは彼を見る。彼はスマートフォンを見ている。娘がぐずぐずしている。おとうさあん、と言う。夫はスマートフォンを見ている。わたしは娘に声をかける。夫はため息をつく。そしてつぶやく。まったく、この家はジョセイサマの家だな。わたしは一瞬、漢字の変換ができなかった。じょせいさま?

 わたしは週末に夫と話をしようとした。しかし夫は応じなかった。わたしは泣きそうになった。夫は変な冷笑を浮かべて、ふだんしていた掃除もしないのだった。夫に任せているからすぐにどうこう言うことはない。しかし、ふだんより明らかに何もしない。わたしが作る料理にお礼も言わない。娘のお迎え当番だけは行っていたが、娘をかまう頻度はあきらかに減っていた。

 半年を目処に、きちんと話せないなら離婚の可能性も考えなきゃいけない。そう思った。住宅ローンは共有名義で半分ずつ返している。わたしは自分だけで返すことを考えてローンの計算をしなおした。洗面所に行くと鏡にものすごい顔の女が映っていた。

 

 彼女はここで話を切る。聞いていた私はごくりと喉を鳴らし、ことばを探し、それからまた黙った。聞くだに怖いでしょ、と彼女は言った。ところが、その後、夫は元に戻ったの。暇さえあれば娘の世話を焼いて、まめに掃除をして洗濯物をたたんで、わたしの料理を賞賛して、おかしくなった時のことを話しても「ごめん、覚えていない」と言うの。まるで一過性の悪い病気になっていたみたいにね。

夏の子ども

 巨大で清潔で管理された水たまりに行った。凶暴な日差しが濃い影を作る水辺、といったら楽しそうだが、なにしろ膝までしかない水たまりなので、それだけあっても楽しいものではない。幼児を解き放って水遊びさせるための設備だ。プールより手数をかけず安全に子どもを水につけておける。家庭用のビニールプールのものすごく大きいバージョンと思えばだいたい合っている。都市のマンションにはなかなか置けないから、代わりに公共のビニールプール的なものがあるのだろう。保護者たちがなぜそんなにも夏の子どもを水につけたいかといえば、彼らが自主的に良い運動をして疲れてすっと眠ってくれるからである。仕事で疲れきって週末も延々幼児の相手をするなんて保たない。

 息子は少し大きいお兄さんたちをちらちら見ながら遊んでいる。彼にとっての「お友だち」はまだ、そこいらにいる子たちである。選択的な友情を知るのはもう少し先だ。小学校あたりだろう。小学生にもなれば泳げる子もあるし、年齢二桁に達すれば子どもだけでプールに行ったりもできるだろう。そう思う。遠い、と思う。

 僕の息子はもうすぐ四歳になる。生まれて二年は妻ともども記憶が途切れ途切れだ。いちど大きな病気をしたこともあって、なんだかよくわからないほど大変だったのだ。子どもが生まれる前、仕事して子育てすることを当たり前だと僕は思っていた。自分はそれくらい当たり前にできると思っていた。ぜんぜん当たり前じゃなかった。正直なところ、ゼロ歳からのプロセスをもう一回やる気がしない。妻によると僕は「夜な夜ないかれたミッキーマウスみたいな声で」息子をあやしていたということである。小さい子どもは高い声によく反応するから自然とそうした発声にはなるのだが、そこまでだったろうか。半ばやけになっていたのかもしれない。

 息子はもうすぐ四歳になる。ある程度ことばが通じるから、楽になったと思う。思うが、まだまだ手はかかる。そのうち手がかからなくなることが信じられない。息子はまだ時間の概念があいまいだ。つられたように僕も妻もどこか刹那的に生きている。永遠の四歳弱とその両親。いくつと問えばいつまでも三本指が差し出される気がする。薬指を完全に上げることのできない、不完全な三のジェスチャ。季節は夏だ。水面が輝き、僕は疲れていて、いつでも睡眠不足で、甘ったるいめまいがする。

 子どもが生まれてからというもの、ときどき驚くほど感傷的になってしまう。自分の中の感情がキャパシティを越えている。僕はそんな経験をしたことがなかった。こんなにもいろいろな感情が始終行き来する心であったことはなかった。間欠的に湧く新鮮な驚き、慢性的な疎ましさと多幸感、衝動的な憎しみ、目の前にいないときの開放感と寄る辺なさ。

 思春期も、恋愛しているときも、僕はわりと静かな人間だった。子どもができたってそうだろうと思っていたけれど、なんだかぜんぜん違ってしまった。あなた、二倍くらいになった、と妻は言っていた。体重じゃなくってね、体重はもっと増えていいよ、そうじゃなくって、あなたという人が、わたしが思っていたよりもずっと、豊かだった、なんていうか、月の裏が見えたみたいに、地層の奥があったみたいに。

 息子が戻ってくる。息子は大人のそばで遊んでいるとときどき戻ってきてがばと抱きつき、何をするでもなくそのままぷいと遊びに戻る。その一瞬、息子は頭を僕に押しつけ、僕は息子の背を一度だけぽんとたたく。ぽん、というか、ぼん、というか、けっこう強めに刺激する。寝かしつけのときも強めに背をたたいてやるほうがよく寝る子である。

 子どもが好きだと思ったことはなかった。もうひとり欲しいとも思わなかった。僕はただ、理不尽にこの子だけが好きなのかもしれなかった。偶然に、特別に、排他的に。いいじゃない、と妻は言っていた。今いる息子が可愛いならそれでいいじゃない。よくない、と僕は言った。こんなに入れ替え不可能ではだめなのだ。病気で死ぬかもしれないのに。あした死ぬかもしれないのに。

 僕はそのときの記憶があまりない。妻もよく覚えていないというが、嘘だと思う。僕は大病をした息子のそばにいることに耐えられず、妻にすべてを押しつけて逃げたのだから。たとえそれが数日のことだとしても、覚えていないはずがない。「月の裏」は、「地層の奥」は、そのようにろくでもないものでもあった。

 僕は息子を呼ぶ。そろそろ水を飲ませて帰り支度をさせようと思う。息子が歩いてくる。僕の息子が水を蹴って歩いてくる。季節は夏だ。永遠のような夏だ。

折り返し地点の転倒

 寝苦しいのは冷房のせいだと思っていた。このところの気温の高さで、眠るときにも冷房をつけたままにしているからだ。でもそうではなかった。うとうとし、何度か目が覚め、そのたびに「悪い夢を見ているんだな」と思った。そうして何度目かに認めた。これは現実だ。

 胃のあたりに焼けるような痛み、吐き気、背中を主とする全身のみしみしとした痛み。息をするのも不快で、でもしないわけにはいかない。しかたなく呼吸をする。眉間の少し下、鼻の隆起がはじまるあたりに痺れるような不快感が通る。鼻も口も肺もふだん軽々とこなしている仕事を不承不承やってくれているという感じだ。

 一大決意をして立つ。歩く。「立って歩く」が重労働である。とにかく何もかもが痛いので、買い置きの痛み止めを服用する。この痛み止めを買ったのは十ヶ月ほど前、歯痛に悩まされたときだった。歯痛の原因は未だ不明である。歯科医に駆け込んだが、該当箇所に虫歯も歯周病も見られないまま治ってしまったのだ。その後、一ヶ月ほど前にも強い胃痛があったが、一晩で治った。このたびは一晩で済みそうにないと直感した。

 痛み止めが効いて朝まで眠ることができた。起きると立って歩くことができたので、ぬるま湯と、カップに梅干しを入れて番茶を注いだものをのんだ。胃はそれさえも不服のようだったが、水分と塩分がみるみるうちに身体にしみわたったように感じられた。いつもは朝からごはんをもりもり食べるというのに。

 慎重にシャワーを浴び、慎重に髪を洗い、慎重に乾かした。身体はだいぶ回復したが、ふちまで水の入った壺を運ぶようで、揺らしたら痛みがこぼれそうである。通勤はタクシーですることにした。職住近接最高だなと思った。今日までにどうにかしなければならない作業はなく、出なければならない会議などもなく、すべてを後回しにできるし、退勤も早めにできる。しかも金曜日だ。具合が悪くなるにはうってつけの日である。そんな日があると実感したくはなかったが。

 今晩食事をするはずだった友人に繰り延べをお願いする。すぐにメッセージが返ってきた。もちろんいつでもいいよ、無理しないでくれてありがとう。無理しないでくれてありがとうってすごくいいフレーズだなあと思う。今度使おう、と思う。

 職場の近くのクリニックに向かう。外は酷暑である。目の前は白っぽく現実感が薄いが、汗は流れ落ちてくる。汗が流れるという身体機能が動いていることに少し安堵する。医師の見立ては予想どおり「胃腸が荒れているようだが、詳しくは専門的な検査を受けるべき」というものであった。発熱も三十七度台、自宅静養の範疇である。まあそうだろうな、と思う。こういうのってだいたいすぱっと診断がおりたりはしないんだ。

 帰宅する。念のため二名の友人に「かくかくしかじかの症状が出ている。まんいち日曜日のうちに再度連絡がなかったらうちに来てほしい」と連絡する。独居者同士のネットワークである。

 それから三十時間ほどのあいだに考えたことは「痛みが強くなってきた」と「弱くなってきた」と「早く時間が経ちますように、今でなくなりますように」の三つしかない。およそ思考というものができなかった。頭の中には仕事で大きな、しかも自業自得の失敗をする、むかし死んだ誰かがそこにいてこちらを見ている、飼ってもいない生き物の世話ができず苦しませている、といった幻想が行き交っていた。幻想は過去にあったこととなかったこと、ありえたこととおよそ生じにくいことがないまぜになり、しかしその最中の現実感は同じなのだった。取れる姿勢は仰臥と横臥のみである。立って歩くことはふたたび重労働になった。痛みの少ないタイミングをみはからって立ち歩いた。

 日曜日になると、痛みと不快感が明瞭に小さくなった。痛みに芯がない。独居者ネットワークに回復を報告する。それから人間ドックを予約する。検査したところでわからないことのほうが多かろうが、やるだけやっておこう、と思う。検査のあとは専門医かなあと思う。生活習慣を見直す必要もあるだろう。心あたりはいろいろある。起き抜けのコーヒー、空腹時のアルコール、食事を摂る時間の不規則さ。

 一方で、改善はそれほど見込めない気もする。もとからけっこう健康的な生活をしているのだ。もう四十年も生きたからガタもくるさ、と思う。いい人生だったなあと思う。まだ死ぬ気はないが、平均寿命の半分くらいは過ぎたわけで、その半分に感謝してもいいだろうと思う。今まで生きていてよかった。とても楽しかった。そして少し疲れた。

 

バスタブの桃

 丸ごと皮を剝いた桃を片手に湯船につかる。指の腹に果汁がじんわりしみる。肩から下の温度を感じながら白い桃を眺める。それからがぶりと噛みつく。わたしが動くと湯気がぼわりと揺れ、浴室に桃の匂いがたちこめる。入浴剤ともハーブのオイルともちがう、気性の激しい果実の香り。わたしは鼻孔をひらき、口をひらき、まぶたをゆるめ、歯を剥きだしにして桃を食べる。

 わたしが小さかったころ、「お行儀のない日」という祝日があった。親が口にする冗談みたいなもので、国民の祝日ではない。でも未就学の小さな子どもにとって、自宅での特別な日はそれと同じようなものだ。「お行儀のない日」は一年に二回くらい来た。今にして思えば、それは母とわたしをとても親密にした。

 わたしの基本的な生活習慣を躾けたのは父だった。父はまめな男で、家にいるときはしばしば掃除をしていた。手を洗うついでにシンクに残った食器を洗うような人だった。幼いわたしは父に爪を切ってもらい、髪を結ってもらい、歯の仕上げ磨きをしてもらい、日焼け止めを塗ってもらった。そうして何百回も「夜は決まった時間に眠らなければならない」と諭された。わたしは父を好きだったけれど、ちょっと煙たくなることもあった。だって、お父さんには、嫌いな野菜さえないんだもの。

 母は生のトマトと加熱したにんじんが嫌いで、気を抜くと箸の持ち方が変になってしまう人だった。家庭における母は豪快な料理を作って笑っている係で、台所以外では家事をせず、よく飲みかけのコーヒーカップを置きっ放しにしていた。しかもほとんど必ず少しコーヒーを残していた。父はそれを洗いながら、食器は一度使ったら洗うものだ、と言った。はあい、と母は言った。そしてまたカップを置きっぱなしにした。母なりにきちんとしようと努力していたけれど、どうしても追いつかない。そんなふうに見えた。

 父の泊まりがけの出張をねらって、母は宣言した。「お行儀のない日が来ました」。わたしはものすごく喜んだ。わたしたちはベッドの中でチップスを食べたり、おたがいの顔に母の化粧品で落書きをしたり、落書きした顔のままファンキーなダンスを踊ったり、夜中までテレビを観たり、パジャマを着ないで眠ったり、した。

 お父さんには内緒よ。外ではやらないのよ。母はそう言った。わたしの答えは決まっていた。はあい。とても良いおへんじ。だって、「お行儀のない日」は特別で、頼まれたって母以外の人と過ごしたいものではなかったから。わたしと母のふたりきりの日、外の人はみな知らない日であってほしかったから。「お行儀のない日」、母はいろんなことを提案したり、許したりしてくれたけれど、悪いことはひとつもなかったと思う。わたしたちの秘密はとても無害なものだった。誰にも迷惑をかけないこと、でも人には言わないこと、お風呂の中で桃を食べるようなこと。

 不器用な子どもが桃の種のまわりをかじると顔も服もべたべたになる。母がお風呂に桃を持ち込んだのはそのためだったのだろうと思う。ベッドでチップスを食べたのはシーツを洗う直前のことだし、夜中までテレビを観ていいと言われても、幼いわたしはわりとすぐに眠ってしまったはずだ。子どもはほんとうに起きっぱなしになりたいのではなく、起きていてもいいというシチュエーションにはしゃぐだけなのだ。母はああ見えてけっこう合理的に判断していた。そう思う。

 頭まで湯につかる。バスタブの底の栓を抜く。居間でぼんやりする。寝室で眠る夫も二歳の息子も、わたしがお風呂で桃を食べたことを知らない。わたしは自分の子とふたりきりで特別な「祝日」を過ごすことがあるだろうか、と思う。あるにしても、わたしと母のことは秘密のままにしたい、と思う。わたしも母親になったけれど、だからといって母の子でなくなったのではない。子どもであるわたし、保護される側のわたしがいなくなったのではない。お母さんはお母さんのままだ。まだ六十代なのに、ときどき台所のコンロに火をつけたことを忘れるようになり、親族の総意で家をオール電化にしたけれど、お母さんはお母さんのままだ。なんにも変わっていない。

 大人になってから母と過ごす時間にはだいたいほかの家族がいて、母とふたりで話すことはあまりない。けれども、次にそういう時間ができたら、きっと言おうと思う。わたしが小さかったころ、お母さんとわたし、お風呂の中で桃を食べたよね。お母さん、とっても楽しそうだった。