傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

八木さんのこと

 わたしの仕事を非難するとき、八木さんは必ずわたしの名を呼んだ。ーー藤井さん。独特の間をあけて、ゆっくりと発音するのが常だった。わたしの胃はひゅっと縮みあがり、冷や汗がどばっと出る。今度は何をしでかしたんだ、と思いを巡らせ、ああしておけばよかった、こうしておけばよかった、と後悔した。いちばんしんどいのは、わかっていてもクリアできなかった部分を指摘されるときで、八木さんは決まって「ご自覚もあることと思いますが」と言った。

 八木さんはわたしにだけ厳しかったのではないと思う。長年のクライアントがよこした新人という、ものの言いやすい相手ではあったけれど、誰が同席しても八木さんは辛辣だった。仕事はとてもできた。非常に正確で、抜け漏れがなかった。八木さんに正解をもらえたら、だいたいOKだと思ってよかった。型のあっていない古くさいスーツを着て、おしゃれというものに縁がないから、うんと年長に見えたけれど、ほんとうはわたしより十歳しか年上ではないと聞いた。八木さんが笑うのを見たのはそのときがはじめてだった。八木さんはちいさく笑って、子どもは六歳です、と言った。六歳の子のことを考えて笑ったのだと思った。なにしろ愛想笑いをしない人だから。

 自分にも他人にも厳しいと言えば聞こえがいい。要求水準が高いと言ってもおおよそは褒め言葉だ。でも現実に誰にでも厳しく、いつでも高い水準の仕事を要求したら嫌われ、避けられる。当たり前だ。八木さんはだから嫌われ者だった。八木さんの会社は伝統があり堅い社風で、八木さんはそこにぴったりとはまりこんでいるように見えた。

 八木さんを担当していると言うと、わたしの会社の誰もが同情してくれた。新人の女の子に担当させる相手じゃない、という意見も聞いたことがある。でもわたしは配置換えを望まなかった。換える人員がいないからではない。八木さんが好きなのでもない(はっきり言って顔も見たくない)。八木さんがわたしに厳しいのはただただわたしの仕事ぶりが八木さんの要求する水準に合っていないから、それだけだからだ。

 若いからでなく、女だからでなく、容姿や態度がどうこうではなく、ただ仕事だけを非難する。そういう相手は、実は貴重だ。わたしの入社した時分には、雑談や酒の席で平然と女性社員の顔立ちや胸の大きさを品評する連中がいた。わたしはそれをぼんやりとやりすごしているふりをした。そして忘れたふりをした。でも忘れることなんかなかった。わたしは高校生のころ、「人間手帳」とあだ名されていたのだ。覚えようと思わなくてもたいていのことを覚えている。わたしが偉くなったらこいつら全員くびにしてやると思っていた。若かったのだ。今ではくびではなく減給くらいでいいかなと思っている。

 八木さんは誰にでも辛辣だった。誰に対しても愛想笑いをしなかった。気分で人を叱ることがなく、同じ基準で問題点を指摘した。いつも機嫌が悪そうに見えたが、実際には単に愛想がないだけで、気分屋ではなかった。むしろ一貫していた。八木さんは決してわたしの人格や気持ちを否定しなかった。わたしの属性によってわたしを判断しなかった。ただ仕事ぶりだけを否定した。わたしはだから八木さんを信頼していた。もちろん、ぜんぜん好きじゃなかったけど。

 向こうの送別会もかねて大勢集まるんですけど、いかがですか、あ、八木さんもいらっしゃるそうですよ。同僚がそう尋ねて、わたしは首をかしげた。新人の二倍ほどの年齢になり、わたしは現場に行かなくなった。八木さん、と言うと、同僚はちょっと笑って、あの人には絞られましたよねえ、とつぶやいた。でももうあの人も丸くなったんで、ええ、そうなんですよ、あの会社、組織が変わったでしょう、雰囲気もやり方もずいぶん変わったんです、それで、どうも八木さん、うまくいってないみたいで、まあ、あの調子ですからね、好かれやすい人じゃないんで、でも本人なりにどうにかしたいみたいで、とにかくにこにこしてますよ、にっこにこして、猫背になって、昔話ばかりしていますよ。

 そう、とわたしはこたえる。懐かしいですね、と言う。それからてきとうな理由をつけてその会への出席を断る。わたしは八木さんを軽蔑したくなかった。わたしが仕事を覚えたころの手厳しい教科書、わたしの胃痛の源。八木さんにはいつまでも「できる大人」であってほしかった。愛想笑いして昔話なんかしてほしくなかった。わたしの作った書類を眺め回して、あの怖い声で「藤井さん」と呼んでほしかった。ため息をついて、「何ですか、これは」と言ってほしかった。

弱者になれない弱さ

 目の前の男はぜったいに困っているはずだ。あらためて、そう思う。どう見ても彼のできる仕事がないからだ。以前のことは知らない。合併前は別会社にいた人だし、仕事上のつきあいもなかった。推測するに、そもそもあんまり仕事ができるほうではなかったのだと思う。それでもどうにかなっていたのだろうと思う。企業に余力があるときはろくに仕事をしていない人間が結構なポジションにいることがある。彼はかつて結構なポジションにいて、合併でヒラになった。それでもなお、彼は待遇にふさわしい仕事をしていないのだった。

 業務内容の変更および業務量と待遇の切り下げに合意する、または退職する。それ以外に彼の選択肢はない。僕が決めたことではない。経営者たちが決めたことだ。僕の役割は新しく作られる部署の管理職のひとりとしてメンバーと面談をし、合意を得ながら細かな人員配置と作業フローを作っていく、みたいなことだ。

 それで面談をしているのだけれど、始まる前からうんざりしていた。口の悪い同僚は影で彼を「不良債権」と呼ぶ。そういう立ち位置になりたくてなる人はいないし、見ているほうもつらい。早く彼が役に立てる場所に行ってほしいと僕は思う。ミスマッチ自体はただの不幸で、相手を悪く思うようなことではない。僕は、雇用のミスマッチが起きている相手だから面談したくないのではない。若い部下たちが言うように「あの人は横柄だから、やたら威張っているから、嫌い」というわけでもない(嫌われやすいだろうとは思うが)。彼から発される憎悪のようなものを浴びるのがいやなのだ。

 憎悪に満ちた人間は皮膚の表面にそれをにじませている。僕はそういう人間をできるかぎり避けて生きてきた。彼らは「世の中まちがっている」と思っている。「自分はこんなところにいるべき人間ではない」と思っている。「自分はこのように扱われるべき人間ではない」と思っている。僕だってそう思うことはある。その場合は今いる場所の変革のために努力するとか、別の居場所を探すとか、不当な扱いをする相手を遠ざけるとか、する。でも憎悪に満ちた人間たちはそれをしない。とどまったまま、自分以外の何かを憎む。憎悪は減ることがない。増えるばかりだ。そういう人間と対面するすごく疲れる。

 この人にも家族がいるんだよなあ、と僕は思う。こんなにも激しい苛立ちをすべての仕草と声に載せている人間と同じ空間で息を吸って、同じテーブルで食事をとり、同じテレビの画面を見て、あまつさえ口をきいたりするんだよなあ。すげえな。俺には無理だ。心の中でつぶやき、彼を見る。おまえさあ、と彼が言う。だらしなく斜めに腰掛けていて、不快な臭いがする。声ももちろん不快だ。その声がつぶやく。ばかにしてんのか。

 している、と僕は思う。それは今日の議題ではありません、と僕は言う。内心の軽蔑を態度に出してしまったらふだんは反省する。でも今日はしない。俺より十年以上長く生きているはずなのに社会人としての口の利き方も知らない人間への気遣いなんか持ち合わせてねえよ、と思う。

 この人は五十年も生きてきて何をしていたのだろうと思う。何度か機会はあったらだろうにと思う。「今とても困っているから、相談に乗ってくれないか」と口にする機会が。あるいは誰かから「あなたの仕事には問題がある」と言われて「そうなんです、助けてください」と言う機会が。彼はそのすべてを無視し、自分を冷遇する周囲を憎み、自分より年齢やポジションが下に見える人間すべてに礼儀を欠いた口を利くという最悪の鎧をまとってここまで来てしまった。威張る人間はたいてい不安なのだ。自分の何が問題かさえ把握できていないから、誰かに持ち上げられていようとするのだ。感じのよさを身につけ、自分が困っていることを把握し、他人に適切にそれを開示することができない。そのように彼らは弱い。あまりに弱いので弱者としてふるまうことができない。

 人に助けを求める能力を身につけるのはけっこうしんどい。でも絶対に必要なものだ。誰でも持っているべきものだ。僕はそう思う。いい年して困りながら威張るなんて怠惰に過ぎると思う。幼児だってもう少しまともに自分の困り具合を把握している。僕の息子は困っているときにかんしゃくを起こす子だった。僕も妻もその癖にはかなり厳しく対処した。そうしなければ息子がまともに生きていかれないからだ。

 目の前の男を見る。幼稚だ、と思う。長く抱え込まれた未成熟はときに人間を化け物みたいにしてしまうんだ、と思う。同情の対象にさえならない、醜い何かに。

執着の技術

 半年前に知り合った女の子がいて、いいなと思って、もう大人だから女の子って言うのもなんだけど、でも、僕やマキノさんに比べたら若い人ではある。ちゃんとしてるんだけど、どことなく不安定で、脆い生き物という感じがして、でもとてもエネルギーのある人です。うん、僕とは全然ちがう人です。ばりばり働いていて、有能で、気が強くて、社交的で、そのくせ自信はないんです、プライドはとても高いのに、自尊心がグラグラしてる。いいよね。僕もいいと思います。え、マキノさんには紹介しませんよ、若い女の子をたぶらかすのが上手そうだから。

 うん、その人を、いいなと思って、好きだなと思って、そう思ってたら口から出た。言おうと思ってたわけじゃないんだけど。言わないでおこうとも思ってなかったからかも。そういうのってあらかじめ決めますか?僕は決めてなかった。

 そしたらふられた。「話し相手にはいいけど」みたいな感じで。うん、それで、気がついたらこう言ってました。「そのほうがいいと思います」。

 マキノさんの言いたいことはわかります。「告っといておまえ、なに目線だよ」って感じですよね。でも正直な気持ちでもある。頭で考える前に口から出たせりふです。完全に本音です。だって、つきあったら、相手のこといやになるじゃないですか。すぐに。なるんです、僕は。

 飽きるというか、倦くというか、腐るというか、だめになる。腐るのは関係じゃなくて僕の感情です。相手は何も変わっていない。好きな人に好きになってもらえたらとても嬉しいのに、すぐに嬉しくなくなってしまう。結局のところ、僕は誰とも一緒にいたくないんです。誰であっても自分の内面を作り替えるほど影響させたくない。そういう人間なんだと思う。でもときどき、どうしても好きな女の子ができてしまう。でももうわかってるんだ、一緒にいたらすぐにいやになるんだ。だからつきあわないほうがいいんです。断られてちょっとほっとした。好きですって言って、やっぱり好きじゃなくなったって言って、泣いているのを放って逃げて帰ってくる、そういうの何回もやった。もうやりたくない。

 え?それの何が悪いって?マキノさんすげえこと言う。だって泣かせたら悪いですよ。たしかに、過去につきあった人とだって、何かの契約をしたわけじゃない。約束すらしていない。相手との関係は感情と自由意思だけで決めていいはずです。理屈の上では。でもさあ、泣かせるのは、いやですよ。

 いやなのは好きだからです。自分の欲より相手の幸福を優先するくらい好きなんだ。そういうのって気分がいいですよ。そんな強い感情が自分の中にあったんだと思うとちょっとアガる。この年になるとなかなかないじゃないですか。だからすぐ腐らせたくない。自分の執着を長引かせたいと思う。好きになってすぐつきあうより、ふられてじっと待っていたほうが執着しそうですよね。だから、そのほうがいい。

 いや、永遠に振られたままでいたいわけじゃないです。そんなに清らかじゃないです。えっと、彼女にとって僕はそれなりに親密にしていい相手なんです。僕は今のところそれである程度満足して、嬉しい気持ちでいる。マキノさん、人間は、いつも元気ではないです。とくに自尊心が弱い系は、何かあったら派手に弱ります。ボキっといく。そして人間は弱ったらそこらへんにもたれかかりたくなる。だから僕はそこらへんにいたらいいんです。確率の問題です。期待して待つって、楽しいじゃないですか、わくわくしたりがっかりしたいじゃないですか、それだけなら泣かれたりしないし。

 依存されるのはいやじゃないかって?ごめんなさい、言ってることがちょっとわからないです。好きなんだから凭りかかられたいに決まってるじゃないですか。僕を好きになってほしいから相手が弱るのを待つ、弱さが露出するのを待つ、そしてその弱さをどうにかしてあげられる者になろうと思う。これって、何か変ですか。えっ、変ですか。そうか、うーん、言われてみれば、「好きな女の子が強くて、強いまま僕を好きになる」という発想はなかったな。

 マキノさんの言うことは、理屈としてはわかるけど、実際にあることだという気がしない。相手に依存されない「好き」って経験がないです。精神が自立した人間との恋愛ってイメージできない。世の中のどこかにあるんだろうとは思うけど、自分に起きる気がしない。

 すごい机上の空論しちゃいましたね、あはは。僕、実際にはふられてるんで。何も起きてないです。ちょっと空想して、マキノさんがあれこれ言って、それだけです。ところで、話は戻るんですけど。

幸福な水槽

 老けたね。まあ、わたしもだけど。おばあちゃんの葬式以来か。十年前、いやもっと経ってる。わたしの子ども?元気だよ。旦那も元気。みんな、ふだんはあんたの存在とか忘れて暮らしてるから、だいじょうぶだよ、あんたは今までどおり、好きにしてなさい。はい書類。間違いなかったら、印鑑。待ちなさい、なんで読まずに捺すの、ちゃんと読んでからはんこつきなさい。

 ふう。OKOK。え?なんで謝るのよ。わたしはわたしなりにうまいことやってるし、あの母さんだって、最近は無害よ、無害、わたしの勝ちって感じ。で、あんたは何、まだ他人を住まわせてるの、でかい家借りて、男ばかりで寄り集まって。そう、相変わらずだね。

 あんたは覚えてないかもしれないけど、大学生のときに一回、あんたの住んでた寮、大学の寮にさ、わたし、行ったことあったじゃない。覚えてないか。母さんに頼まれて、わたしの友だち連れて、行ったんだよ。家族の見学ですって言って。学生たちはみんなわたしに気を遣ってくれて、それはわたしが男子寮に来た女の客だったからじゃなくて、まあそれもあるかもしれないけど、あんたの姉だったからだよ。

 寮生たちはあんたのことがとても好きみたいだった。あの寮には、スタッフはいなくて、リーダーみたいな役職もなくて、なんとなくみんながあんたを頼りにしてるんだって、そんなようなことを言ってた。いいやつとか、やさしいとか、なんとか。へえ、この子、他人に興味ないと思ってたけど、友だちにはやさしいんだ、なんて、わたし思って、でも間違いだったよね、すぐにわかった。

 あんたは水槽の熱帯魚を見るみたいに、寮生たちを見てた。寮生たちは楽しそうだったけど、わたしはぞっとした。同じ寮で賑やかに過ごしてる学生同士って、友だちとか、仲間とか、そういうのだと思ってたけど、あんたははっきりと違った。この子は、わたしの弟は、父さんと同じだ。そう思った。

 父さんって家ではなんにもしなかったじゃない。母さんが何でもやってあげちゃうから、あれしろこれしろとさえ言わない。ろくに口をきかない。たまに怒鳴る。わたしたちのことなんか何も知らない。まともに会話をした覚えがない。この人にとって家族ってなんだろうって、わたし、よく考えたもんよ。あんたとちがって人間に興味があるんだよ。

 それでわかった。父さんは人と人との関係を必要としない。少なくとも家庭ではそんなものぜんぜんなくて平気。父さんにとっての家庭は、魚が入った水槽みたいなものなの。母さんは父さんのために家事とかするから、もう少し別の存在だったかもしれないけど、わたしとあんたはそうじゃない。わたしたちはね、父さんにとって、眺めて楽しむものだったの。水槽の中の魚みたいなものだったの。人間じゃなかったの。そう考えて、やっと腑に落ちた。

 わたし、大学の寮を訪ねたあのとき、わかった。弟は父親の同類なんだ、って。わたしは家族を自分と同じ人間だと思ってて、それで長いこと苦しんだのに、あんたはそうじゃなかった。あのね、あんたはね、人を人とも思ってないんだよ。自分と同じ内面があって傷つきもする人間だと思ってない。もちろん、わたしのことも。あのくそ親父にそっくりだ。父親とちがって、相手の利益になるようにふるまってはいるけど、自分とおんなじもの、自分と対等な人間だとは、ぜったいに思っていない。そう考えてはじめて、あんたが過去に言ったことやしたことが理解できた。え?自覚なかった?その年まで?そりゃあずいぶんだね、あんた、ばかみたいに頭よかったのにね。

 もちろん、大学生のあんたは、一緒に住む男の子たちに良くしてあげていたんでしょう。彼らに慕われていたんでしょう。そうして今でも、赤の他人を家に置いて、よくしてやっているんでしょう。住まわせた人たちからは感謝されているでしょう。でもわたしは知ってる、そのろくでもなさを知ってる、わたしは、あんたの姉だから。

 あんたは、親が嫌いで、親の作った環境と正反対のものを手に入れたつもりでいるんだろうけど、わたしに言わせればたいしたちがいじゃない。くそ親父の作った家庭が血縁ベースの不幸な水槽だったから、あんたは血のつながらない人間を集めて幸福な水槽を作ってる、それだけのちがいだよ。

 怒らないよねえ、あんたって、昔から。あはは。うん、母親のことはさ、わたしが面倒見るからさ、あんたの邪魔させないから、だいじょうぶだからね。だいじょうぶ。それじゃあ、また。誰か死んだら連絡する。

いいから主語を拾ってこい

 好きなんじゃないかと思うんですよ。

 隣のテーブルの男の声を拾い、私はぱっと耳をそばだてる。私はあまり耳がよくないんだけれど、隣のテーブルの会話を拾う能力はやけに高い。下世話なのだ。覗き趣味があるのだ。独裁者になったらすべての人にできるだけ自由な生活をしてもらってそのようすを延々と観たり会話を子細に聞いたりしたい。

 男の向かいに座った女が緊張と苦笑をふくんだ声でこたえる。そのようです。認めざるをえません。

 誤解だ、と私は思う。あなたがたは主語というものを何と心得るのか。主語がないとろくなことにならない。男のせりふはどう聞いても「わたしはあなたのことを好きなんじゃないかと思うんですよ」という意味だ。そして女のせりふは「(あなたが指摘したように)わたしはあなたのことを好きであるようだと認めざるをえません」だ。会話がぜんぜん噛み合っていない。

 彼らは自分の恋心とか下心とか、なんでもいいんだけど、自分の浮ついた感情に足を取られていて、相手に伝わりやすく話す力や相手の意図を読み取る力を一時的に喪失している。自分のことばかり考えてしまっている。色恋ってそういうもので、だからそれ自体はまあいいんだけど、大人なら自分の状態くらい把握しておいたほうがいい。この人たち、たぶんぜんぜん自覚してない。そのくせ大人らしく振る舞うことだけは遂行してしまっている。

 だいたいこの男のせりふはなんだ。「好きなんじゃないかと思う」だと。好きでいいだろ好きで。そんな大量の留保をつけるくらいなら言わなくてよろしい。じゃっかんイヤそうに言うのもわけがわからない。少しは色っぽく言え。女も女だ。誤解ついでに告ること自体はOK、まったくOKだ、だがその物言いはなんだ。自社サービスの弱点を指摘された営業の人か。なんで二人ともトーンが暗いんだ。もっとこう、花火を打ち上げるとか、花びらを撒くとか、そういうかんじで言ったらいいじゃないか。

 彼らはしばらく沈黙し、それから当たり障りのない話をはじめる。彼らはどうやら仕事仲間で、でも「御社は」とか言ってるから同僚ではない。取引先か何かだろうか。私は焦れる。仕事の話なんかこの際どうでもいいだろう。何を楽しそうに会話しているのだ。気の利いた冗談を応酬している場合か。いいからさっきの話に戻れ。戻って主語をつけろ。つけたら手をつないでおうちに帰れ。どっちのおうちでもいいから。あっ、どちらかあるいは両方に家庭があるのかな?声は大人っぽいけど、実際はいくつくらいなんだろう。なにしろ隣の席だから、目を向けたらすぐにわかってしまう。自然に彼らを眺め回すことができない。

 私はペーパーナプキンに盗み聞きの内容を簡単に書く。向かいに座っている友人に渡す。友人はふうとため息をつき、それから手洗いに立つ。戻ってきてさらさらとメモを書く。アラサー、スーツ、めがね、見目よし、指輪なし。ふたりとも。私はちいさく首を振り、嘆かわしい、とつぶやく。いい大人が肝心なときに主語を落とすなんて。いかにもちゃんとした社会人みたいな口をきいて、こなれた身なりをして、そのくせ「好き」のひとこともまともに伝えられないなんて、いったいどういうことなんだ。

 ほんとうは、と友人が言う。ほんとうはわからないのではないでしょう。私はうなずく。隣のテーブルは空になっている。だから私は遠慮なく、声に出して彼らの話をする。私が想像するに、彼らは自分の感情をみっともないと思っているのだ。できれば認めたくないと感じているのだ。振られたらいやだという怖れもあるんだろうけど、それ以上に、自分の感情に動揺している。彼らは大人だし、自分をコントロールできると思っている。みっともなさを捨てて、彼らは大人になった。みっともなかったころのことはよく覚えていない。色恋だって格好つけたままこなしていたのだ。でもなぜか格好がつかない感情がやってきた。だからそれを認めたくない。認めたくないのに、ぼろっと口に出してしまう。

 私はそのように話す。下世話だ、と友人が言う。マキノの妄想にはおそれいる。感心するくらいだ。それから、あの二人、ホテルから出てきたところだったよ。「好きなんじゃないかと思う」より前の会話を聞いてたらマキノにもわかったと思う。ホテルからこの店までだいぶ遠くて、延々と歩いてきたみたい。私はそれを聞いて再度さまざまの妄想を走らせ、にやりと笑う。それはそれは、ずいぶんと、ややこしい二人ですねえ。個人的にはその順番、けっこう好きだな。

素朴の義務

 警察官の姿が見えた。ひやりとした。話しかけられたら東北弁で話そう。

 そう思った。何か悪いことをしていたのではない。自宅の鍵を部屋に忘れて入れなくなっただけだ。オートロックでたまにやっちゃうやつ。鍵を忘れて出るくらいだから、そもそも鍵をかけるのを忘れていて、マンションの中にさえ入れれば問題は解決する。持っているのは財布とスマートフォン、コンビニで買ったアイスクリーム、ついでに買った卵(六個パック)、夏蜜柑である。俺はホストだから、酒を飲むのが仕事みたいなものだけど、本来は甘党だ。それで夜中にアイスを買ってきたらこのざまだ。休日だから髪はセットしていないけど、堅気には見えるまい。警察官が近づいてくる。職務質問をするつもりじゃないか。ああ嫌だ。警察は嫌いだ。

 俺は思うんだけど、人間は職業に人格を侵食される。勤めていた会社が潰れてやけになってホストのアルバイトを始めて半年、内心「ああ昼間の人間たちがまぶしい」と思いながら、元来のくよくよした地味な性格を隠してちゃらちゃらしている(地味なキャラで営業するホストもいるが、俺は素人すぎて「素」を売ることができない。客商売で素顔に近いキャラを売るには高度な技術が必要だ)。その結果、なんだかやさぐれてしまった。着るものにもこだわりがないから抵抗なく先輩の服装をコピーしていて、いかにもホスト風の格好をしている。これが夜の仕事の影響でなくてなんだろうか。

 警察官だって仕事として規律の番人をやっているだけで、中身は俺と似たようなものかもしれない。頭ではそう思う。でも話しかけられるのはいやだ。もともと嫌いだったけど、昼の仕事をうしなってからよけいに警察が嫌いになった。とにかく自分が悪いですという顔をしていなければならない気がして、それが負担なのだ。

 よく考えてみれば俺は、警官なんかいなくても「自分が悪いです」という顔をしている。一昨日なんか女性客に暴言を吐かれて額をこづかれたけど、笑顔で耐えた。なんなら「ごめんなさい」と言った。俺は悪くないのに。昼間の仕事だっていっしょうけんめいやってたんだ。会社がつぶれたのは俺のせいじゃない。そのあと希望の職種で就職できないのは俺のせいだと思うけど。だいたい、好きなイラストに関係した仕事で食べていこうなんて思ったのがまちがいだったのだ。特別な才能があるわけでもないのに。ああ、やっぱり俺が悪いんだ。

 どうも、こんばんはあ。俺は小さい声で「練習」をする。完璧な東北弁である。俺は福島の、ほぼ宮城みたいなエリアの出身だ。震災以降は町の名を言えばだいたいわかってもえらえるくらい派手に被災した地域だ。地震が来たとき俺はまだ高校生で、たぶん一生分の「かわいそう」を浴びた。助けに来てくれた親戚とか、ボランティアとかから。いろんなことばや、いろんな表情によって。

 そのとき俺は学習したのだ。自分が弱い立場のときには、「いい人そう」でなければならないと。そのほうが有利で、便利だと。外見の加工は少なく、態度はおとなしく、相手の予想外のことを言わず、「素朴」でいる。それがいちばんだと。そのための武器のひとつが方言だった。方言で話すと急にいい人に見える。中身はなんにも変わっていないのに。

 警察官が俺に会釈して通り過ぎる。俺はへらへらと笑いかえす。口をきかずに済んで、よかった、と思う。地元に帰ったときに方言に戻るのは普通のことだけど、東京で方言を話すのは人工的なことだ。戦略的にしている人もいるだろうし、それが自然だという人もいるだろう。でも俺はそうじゃない。それは「素朴な若者」としての演出で、はっきり言ってしまえば、いい子にしているから手加減してくださいと言っているのと同じだ。俺はそんなのはいやだ。いい人じゃなくても存在してかまわないはずじゃないか。鍵を忘れてアイスを買いに行ったのは俺の過失だけど、でもそれだけだ。ちょっとばかだけど、警察官を見てあれこれ考えるほど後ろめたく思う必要はない。失職して安直に夜の仕事に就いて、その能力がないから「いじり要員」としてへらへら笑っているしかないけど、悪いことはしていない。

 マンションのエントランスが開く。女性がひとり出てくる。俺はさも「いま来た」みたいな顔をして入れ違いに入る。助かった。アイスクリームはだいぶ溶けていた。それをひとかたまり口に突っ込んで、唐突に思った。なんで俺は半年もイラストを描かずにぼけっとしたんだろう。ポートフォリオを更新して、就職活動をしよう。自分にとってOKな仕事を探そう。そして「素朴ないい人」の演出をやめよう。

ときちゃんの死なない工夫

 ときちゃんはこのあいだ四十三歳になった。一年九ヶ月の無職期間を経て派遣社員として働いている。長々と休もうが満期を待たず辞めようが次の仕事があるのはときちゃんにそれなりの能力があるからで、ときちゃんはそのことをうっすらと自覚している。でもそれがずっと可能とは思わない。ときちゃんは世界のほとんどすべてのものが怖いし、良くしてくれる派遣会社だってその例外ではない。

 ときちゃんは時折だめになる。今回の無職期間は最大の長さでだめだった。ときちゃんは仕事をしたくないのではない。ときちゃんはただ世界が恐ろしく、足がすくんで動けなくなるのだ。

 ときちゃんの生活は質素だ。スーパーマーケットで旬の野菜と半額シールのついた肉を買い、豆腐や納豆や季節の魚を買い、一口しかないコンロで素朴な美味しいごはんを作る。服や靴はこぎれいだけれど、ぜんぶファストファッションのセール品で、それを長く使う。靴の数は三足で、歩けるところには歩いて行く。そうしてURの事故物件を渡り歩いて暮らしている。そんなにハードな事故ではない。独居の高齢者が部屋で亡くなったくらいのやつだ。

 ときちゃんは美味しいものが好きで、こつこつ貯めたお金で友だちと贅沢な食事をする。そのほかにお金のかかる趣味はない。ときちゃんはそこいらでコーヒーを飲んだりしない。ペットボトルの水も買わない。ときちゃんは図書館で本を借り、インターネットに公開されている文章を読む。テレビは持っていない。持っていなければNHKの受信料を払わずに済むからだ。

 ときちゃんはなかなかメールの返信を出さない。めんどくさいのではない。ときちゃんは自分の感情や意見が文字で固定されて相手に届いて取り消せなくなるのが怖い。その怖さがときどき度を超してしまう。下書きがたくさん溜まる。LINEとかはもちろんやらない。怖いからだ。技術的なことは怖くない。でも使うのは怖い。おおまかに言ってソーシャル的なものが怖い。人間関係とか組織とか社会とかが怖い。

 ときちゃんは無職ひきこもりの期間、友だちからメールが来ても返信をしない。友だちは放っておいてくれて、忘れた頃にまたメールをくれる。こんばんは。最近はどう?調子が良くなったらレストランに行こう。ときちゃんみたいな名前なんだ。地球を怖がって、でも離れられなくて、ぐるぐる回る衛星の名前だよ。

 ときちゃんはそのメールに返信を出すことができなかった。ときちゃんはわずかな貯金と保険で食いつないでいて、出かける気にはなれなかった。でもいつかは衛星のレストランに行こうと思った。そこが衛星なら、わたしが今いるのは深海だ。ときちゃんはそう思った。社会は水面にあって、ときちゃんは水の底にいる。働いていて家族や恋人や友だちがいるような人々の世界に向かって、吐いた息の泡がゆらりと上がる。

 ときちゃんは何かというと仕事を辞める。今回はそれが一年九ヶ月におよんだ。ときちゃんは社会に参加したくないのではなかった。ただその不確かさが恐ろしく、また深海に沈み荒波を逃れる能力をそなえていたから、ゆらゆらと沈んでいたのだった。

 深海の暮らしで、ときちゃんはたくさんのブログを読んだ。ブログはすでに固定された、ときちゃんのために書かれたのではないことばで、だからあんまり怖くなかった。そこにはいろいろな人がいて、社会だ、とときちゃんは思った。ときちゃんはそれを読んでいたから、社会から隔絶されたと思ったことはなかった。そうして一年九ヶ月が過ぎ、ときちゃんは深海の底を蹴った。

 ときちゃんのささやかな貯蓄は無職期間にほとんどゼロになっていた。ときちゃんには資産家の両親とか、安定した稼ぎのある配偶者とか、そういうのはいない。だから何人かの友だちは生活の心配をする。ときちゃんは言う。だいじょうぶ。わたしは、あのまま仕事をするほうが、だいじょうぶでなかった。

 ときちゃんは自殺したいと思ったことがない。ただ、疲れてすっと死ぬことはあるかもしれないと思う。それは少しいやだなと思う。だから死なない工夫をする。仕事を辞め、深海に潜る。また仕事をする。ごはんを作る。ときちゃんは世界のほとんどすべてのものが恐ろしいけれども、どこの誰に脅されても「まとも」な生きかた、たとえば一年九ヶ月無職でいないような生きかたをすることはない。そちらの側のほうが自分の死に近いことを、ときちゃんはわかっている。

 ときちゃんは友だちに返信を書く。長い時間をかけて、短いメールを書く。こんばんは。来月にはお給料が入ります。衛星のレストランに行きましょう。