傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

最後の路上飲酒者

 私たちは最後の路上飲酒者である。私たちは桜が咲いているときにはどうしても外で酒を、それも華やかで上等の酒を、複数人で、楽しく飲みたい。それに同意する友人を新しく得ることはきっともうできない。昔はたくさんの人が同意してくれたのに、ひとり抜けふたり抜け、もはや二人だけになった。私たちは歩く。ピクニックのような装備を持って歩く。川沿いを歩く。そこには昔、春になるとたくさんの人が来て、花吹雪を浴びながら笑いさんざめき、そして飲酒していた。今は誰も笑っていない。河原によぶんな空間などなく、効率的に護岸されて作られた道路の上を、人々は足早に通り過ぎてゆく。

 むかし筒井康隆が「最後の喫煙者」という短編を書いていた。その世界では喫煙という愚行が激しく糾弾され、もうあいつら死刑でいいだろ、みたいな雰囲気になる。筒井先生はそのような世界を肯定できず、最後の喫煙者として断固として戦うのである。煙草が排斥されるきっかけは、これといって書かれていなかった。からだに悪い依存性の薬物だということは知られて長いので、排斥されるか否かは社会の気分なのである。そういう小説だった。

 実際に消滅しつつあるのは酒である。煙草は電子煙草の普及により、姿を変えて生き延びた。進化した電子煙草は健康被害が少ない。依存症の治療薬もある。だから排斥されるほどのものではない。そんなものより酒だ。文化だの何だのという言い訳はどの薬物にもつきものだが、酒のそれはしぶとかった。しかし今や、そのヴェールは完全に剥がされた。それは人々の寿命を縮め、人間関係の悪化を招き、のみならず死に至る依存症の原因となる。社会全体の生産性を著しく低下させるものだ。

 けれども良識ある人間は今が過渡期だと知っている。だから禁酒法はない。依存性の薬物はただ厳しく取り締まるだけではいけない。歴史がそれを示している。酒はただ「みっともないもの」「心の弱い人間が頼ってしまうもの」「不衛生なもの」なのだ。酒を飲む人間にも人権はある。それぞれに事情があるのだ。本人のせいばかりではない。古い社会の病理の犠牲者という側面もある。だから寛大な目で彼らを見てあげなければならない。そういう合意が形成されている。

 今年は開花が早い。桜の名所は軒並み人が減って、規制が解除された。千鳥ヶ淵あたりから始まった花見のルールは都市部のほとんどに普及し、花見といえば歩いてするものになった。他者に配慮し、いつもより遅く歩くのが作法である。景色を独占することなく、ゆったりと歩く。立ち止まって写真を撮るのは行儀が悪い上に、映り込む側の不快感に配慮していない。なんとも迷惑なことだから、フォトスポットになっている飲食店にお金を払って入店するよりほかに、カメラを起動する機会はない。教育を受けたまともな人間は人の迷惑にならない歩き方を知っている。そしてそのような人間しか、公の場で花見をするべきではない。

 春になると老いた牛の群れのような人々が桜の下を移動する。その光景を、私は嫌いだった。どいつもこいつも口を開けば迷惑迷惑迷惑、迷惑じゃない人間なんかいるか、と私は思う。だからそいつらの花見が終わってから、数少ない友人と、ゲリラ戦のようにここへ来たのだ。私たちの花見をするために。愚かで生産性のない路上の宴を催す、最後の者たちになるために。

 待って、と友人が言う。私は我にかえる。この道じゃないよ、こっちの岸には座れるところ、ない、川の反対側に行かなくちゃ、さっきの橋は渡っちゃいけなかったんだよ。そうか、と私は言う。あの橋を渡ろう、と友人が言う。そして飲もう、反対側の岸に行けば、みんな道ばたでお酒飲んでるからさ。そうかな、と私はつぶやく。そうに決まってるじゃん、と友人は笑う。あなた去年ここで花を見たんでしょ。私はこたえる。去年じゃないよ、ここでお花見をしたのは三年前、三年もあれば世界は変わるでしょう、そのあいだに世界が路上飲酒をやめても少しもおかしくなんかない。

 私が想像のしっぽを引きずっていることを、誰も気にしない。私たちは橋を渡る。私たちは親水公園のベンチに、あるいは持ち込んだシートに座るたくさんの人を発見する。見るからにほろ酔いで楽しそうだ。ただいま、と私は思う。ただいま、路上飲酒のある世界。私はそのようにしていくつもの世界を渡り歩く。私の頭の中にはたくさんの世界があって、目の前の「現実」はその中のもっとも長く手のこんだバージョンにすぎない。

嘘つきの親

 今年の桜は早く咲いた。子はまだ桜についてはよく知らない。はな、と僕は言う。おはなみ、と言う。子は気に入りの小さなリュックサックを背負っているために機嫌がいい。走らない、と言う。手をつなぐ。駅に着いたらベビーカーに入れる。空いてはいるが、電車はとにかく危ない。個人差はあろうが、二歳半というのはまだまだ、一瞬たりとも目が離せない年齢であるらしい。

 目的地は隣町だ。すぐに着く。電車の好きな子どもはたった二駅でもそれなりに満足したらしく、でんしゃ、と言う。でんしゃ、と僕も言う。エレベーターの位置をあらかじめ確認して乗車したので、よぶんな体力を使わず地上に出ることができる。子はすぐに立ち止まる。何を注視しているものか、僕にはわからないことも多い。わからないというか、気にする余裕がないというか。

 親水公園に着く。花見にかこつけてイベントがおこなわれている。僕と子は「ふれあい動物園」に行く。僕はうさぎを抱き上げ、子に撫でさせる。どうやってこの動物たちをおとなしくさせているんだろう、と僕は思い、それから、考えるのをやめる。考えるのをやめるのは難しいことでははない。思考はいつだってぶつ切りで、気をつけていないと考え続けることなんかできない。この一年でそうなった。以前はそうではなかった。

 子は川沿いへの階段を降り、すぐに昇って、また降りたがる。何度もそうしたがるのをてきとうにごまかして、子を座らせる。かわ、と子が言う。かわ、と僕は言う。かわ。おおきいかわ。こうやって単語を増やして繰り返すのが妻の癖だった。教育上の効果でもあるんだろうか。

 子が立ち上がる。横を通り過ぎようとした同年代の子どもが気になったようだ。子を連れていた女性が会釈する。僕も会釈する。怪しくないですよ、無害で善良なお父さんですよ、という顔をする。僕は彼女たちの前でいつも萎縮している。不審に思われたくなくて、びくびくしている。父親だけで幼児を連れているなんて今や珍しいことではないのに。

 でも、いつも父親だけが連れているのは、珍しいのだ。そう思う。妻が出て行ったのは僕にとって晴天の霹靂だった。子どもの両親がそろっているのは当たり前だとどこかで思っていた。でもそうじゃなかった。人間が目の前からいなくなるなんてごく普通に起こりうることなのだ。

 子どもが一歳半から二歳半になる今までのできごとを、僕はよく覚えていない。ひとり親になって、仲間と作った小さな会社の責任者を辞め、雇われる立場にしてもらった。それは仲間たちの好意だし、何より僕の希望したことだけれど、僕はものすごくさみしかった。さみしかったような気がする。今は遠いことで、実のところ、よくわからない。仕事をもらって、する。子どもの送り迎えをする。子どもの世話をする。子どもの世話を可能なかぎり外注する。自分の食事をとり、風呂に入り、できれば眠る。それだけである。僕の生活と経済は、ほんとうにただそれだけで終わってしまう。そんな人生を想像したことはなかった。でもそれが僕の今の人生のすべてなのだった。

 おかあさん、とよその子が言う。手を振る。その先を見ると、ふたりの女性が手を振っていた。よその子の横にいる女性はその子のお母さんではないらしかった。三人か、と僕は思う。姉妹か何かだろうか。よってたかって三人で一人の子の面倒を見ているのか。そう思う。胸が悪くなる。僕は苦笑する。苦笑するとどんな感情でも流れていくようになった。

 おかあさんは、と子が言う。僕は子を見る。母親がいなくなったときこの子は一歳半だった。覚えているのだろうか。そもそも母親という概念を覚えたのも最近ではなかろうか。おかあさんどこだろうねえ、と僕は言う。おかあさんどうしたんだろうねえ。嘘である。「お母さん」が出て行った先も、出て行った理由も、僕は知っている。でも言わない。嘘をつく。子が大きくなっても、きっと嘘をつくだろう。

 妻が出て行ったことを知るなり、新しい「お母さん」をこしらえてやれという人が何人もいた。時間外保育やベビーシッターを頼むのなら再婚しろと。何を言っているんだろうと僕は思った。知らない女と暮らすなんてとてもとても無理なことだし、だいいち、「お母さん」はそうんなふうに調達するもんじゃないだろう。そう思った。胸が悪くなった。とても強く、長く。思い出しても少しそうなる。僕は苦笑する。

 ふね、と子が言う。ふね、と僕は言う。とり、と子が言う。とり、と僕は言う。とり。しろいとり。かもめ。ゆりかもめ。はな。さくら。たくさんのさくら。

嘘つきの奥歯

 左上の奥歯が痛むので歯科医にかかった。毎年定期検診を受けて歯石を除去してもらっている、なじみの歯科である。歯科医院は小さなオフィスと住居が混在するマンションに入っていて、その建物にはちかごろよく見る「民泊禁止」の紙が貼ってある。

 歯科衛生士は首をひねった。ふだん歯切れの良い話し方をするのでたまにためらうと目立つ。マキノさん、この奥歯ねえ、あれよ、虫歯でそんなに痛いならもっとしみる、これ(プシュー)、うん、これが飛び上がるほどしみると思う、でもそもそもこの被せものは古いし、取ってみてもいいかもね、先生と相談してね。

 歯科医は首をひねった。痛みはどんな感じですか。ずどーん、と。ほほう。ずがーん、と。ふうむ。腫れはちょっとありますが、そんなにひどくはないですね。熱感は?ある、ありますか。主観的にはかなりひどいわけですね。眠れないくらい。市販の痛み止めは?あんまり効かなかったですか。

 私はてっきり虫歯だと思っていたので、だんだん不安になってきた。痛みには波があり、今はさほどでもないが、昨夜はもう歯の中身が腐ってるんじゃないかと感じるくらい痛かった。頭まで痛かった。なんなら目頭あたりまで痛い気がした。けれども今は、痛みそのものより「どうして痛いかわからないという不安」のほうがなんだか耐えがたくなってきた。開けますか、と歯科医が訊くので首を思い切り縦に振った。とにかく原因が知りたい。開けてほしい。どんどんオープンにしてほしい。

 歯科で歯を削られているのに心安らかというのは生まれてはじめての体験だった。ほらみろ、やっぱり虫歯だったんじゃないか、原因がわかればこっちのものだ、現代医療は偉大だ。そういう気分である。ところがひととおりの治療が終わると、歯科医は相変わらずはっきりしない顔で、いや、と言う。いや、たしかに削りました、虫歯はいちおう存在しました、でもたいした虫歯ではなかった、そんな激しい悪さをするほどのあれではないです、表面がちょっとぐずぐずっとしてるくらいのやつです。だから痛みの原因は虫歯ではありません。歯周病などもありません。レントゲンを見ても、中になにかあるという所見はありません。

 この歯科医は説明が丁寧で不要な断定を避ける。そういう専門家が原因は虫歯ではないときっぱり言うのだから、信じるしかない。ほかの可能性を尋ねると、歯科医領域外の、たとえば神経痛なども考えられるということだった。

 痛み止めなど処方してもらって帰宅する。激しい痛みはないが、うっすらと痛い。私は鏡の前に立ち、ぱかりと口をあける。奥歯を見る。神経、とつぶやく。たとえば神経が痛いと勘違いしているだけであんなにつらいことになるのか。どう考えてもこの奥歯の根元が痛かったと思うのに、そこには何の原因もなかった。神経痛かどうかはわからないけれど、少なくとも目に見える原因はないのだ。恐ろしい。神経がほんの一本「今すごく痛い」と嘘をつくだけで私の生活は崩壊してしまうのだ(一本と数えるかどうか知らないけど)。ものの本で「脚を切断した人の、もう存在しない脚が痛む」という話を読んだときには、なんという奇っ怪な、と思ったものだけれど、奇っ怪なのは私の歯も同じなのだった。

 神経とか精神とかのせいで起きる症状にはたいてい、規則正しい生活とかストレスを避けるとか、わりと薄ぼんやりした解決策が示される。でも、これがばかにできない。規則正しい生活もストレス対応も続けるのはたいへんだし、技術も必要だ。でも見返りはある。仕事をやりくりしてでも行う価値はある。そして私の奥歯はそれを求めているのだ。たぶん。

 私は私の病んだ一本の神経について想像する。彼女は何かひどい目に遭ったようで、すごく過敏になっている。嘘ばかりつく。痛い痛いと言う。サイレンみたいに泣きわめく。とても傷ついているのだ。彼女を責めてはいけない。嘘をつきたくてついているのではない。彼女をなぐさめ、いたわってやらなければならない。おお、よしよし。

 私は「よしよし」を実行する。色鮮やかな野菜を使ってあたたかい食事を作り、ゆっくり食べる。バスタブにしっかりお湯を張ってお風呂につかる。おお気持ちいい、と言う。そうして早めにベッドに入る。ほーら、健康だ。健康健康。ああハッピー。素敵な一日でした。私は横目でちらりと嘘つきの神経を見る。嘘つきの神経はじっと私を見ている。想像の中で、その一本の神経は、派手な服を着た若い女の子の姿をしている。しばらくはこの嘘つきの女の子と一緒に暮らして、彼女にやさしくしようと思う。

嘘つきの子ども

 母の前で僕は嘘つきになる。母が年をとって弱ってだめになって問題を起こすから、ではない。昔から僕は、親の前で嘘をついていた。

 僕の自己認識はとうの昔に「自分の両親の息子」であるより「自分の娘の父親」である。しかし子は成長する。じきに成人する娘に、親というものは、そりゃあいたほうがいいだろうけれども、いなくたってまあどうにかなる程度のものでしかない(そうでなければこちらが困る)。だからそろそろ年老いた両親の保護者としての役割のほうが重要になって、僕はふたたび「人の親」より「人の子」としての認識を強めなくてはならないのだろう。そう思って、僕はため息をつく。親。このやっかいなもの。

 僕は当時としては遅くにできた子で、両親はいま八十代。平均的には定年後に直面する親の介護問題が十年早くやってきたような具合だ。両親は地方に、僕は自分の家族と東京に住んでいる。父親は足腰がやられてろくに外出もできなくなった。そしていらいらして母親に暴言を吐く。執拗に吐く。いやな話だけれど、僕の田舎ではよくある話でもある。物理的な暴力をふるっていないだけましだと言われる。誰に言われるかというと、母親が父親にいびられて家を出て街をうろついていると警察官に保護されて、その警察官に言われる。殴られたわけじゃないんですから、とか言われる。

 そんなわけで僕の携帯電話には警察や母親から電話がかかってくる。警察官は、息子さんがちゃんと親御さんの面倒を見てください、と言う。母親は父親が「家に他人を入れるな」と怒鳴って介護士を追い返してしまうと言う。他人でなくて介護をしてくれるのは息子だけだと言う。東京で仕事があるから行けないんだよと僕は言う。僕にも生活があるんだ、自分の家庭があるんだよ。

 嘘である。僕の職場には早期退職制度がある。僕はそろそろその制度の利用が可能な年齢にさしかかっている。娘は来年大学を卒業するし、妻も働いていて、僕をあてにする経済状況ではない。なんなら僕を助けてくれるだろう。僕が介護のために田舎に帰ったからといって崩壊するような家庭ではない。僕はただ田舎に行きたくないのだ。僕は定年まで仕事をしたいし、もっといえば、介護なんかしたくないのだ。

 父親は昔から僕に向かって感情をあらわにすることがない。感情を表出する能力が低いんだと思う。はけ口は母親しかない。僕にとっては無愛想ながらやさしい父親だった。それなりの良識をそなえてもいた。でも今はそういう人格ではない。ただの精神的DV男である。母親をののしるくらいしかすることがない。母親は、自分はもう生きていてもしかたがないと言う。どうせもう長くないんだから楽になりたいと言う。これから死ぬと言う。すぐ来て自分を殺してくれと言う。

 僕はしばしば、夜中に母親からの電話を取る。こっそりベッドを抜け出して暗いリビングで通話ボタンを押す。そうして電話の向こうの母親に言う。そんなこと言わないで、死ぬなんて言わないで、長生きしてよ、みんなそう思ってるからさ、僕もできるだけそっちに行くから、仕事さえ都合がつけば。

 嘘である。僕は「死ぬ」「殺してくれ」と包丁持って迫ってくる母親と始終顔を合わせていたくない。仕事が休めても田舎に行きたくない。親にずっと生きていてほしいと思わない。あと数年のうちに始末がついてほしいと思っている。要するに早く死ねと思っている。思っているも同然だ。僕は、親に、死ねと思っているんだ。

 僕はやさしい子どもでいたかった。でもそうではなかった。ほんとうの子どものころから、僕はやさしくなんかなかった。父はやさしかったし、母はもっとやさしかった。彼らは自分たちのことより僕のことを優先させた。彼らは借金をしてまで僕に特段の教育を受けさせた。物心ついたころから僕はいつも後ろめたかった。だって、両親が僕を愛するようには、僕は両親を愛することができなかったんだ。僕にできたのは嘘をつくことだけだった。自分より親を大切に思っているふり。そうすれば彼らはこう言ってくれた。わたしたちのことより自分を大切にしなさい。ああ、僕は最初から、自分のほうが大切なのに。

 父親は弱りきって僕にことばをかけてくれなくなった。母親は弱りきって僕を振り回すようになった。でも僕はいまだに、彼らがいつか言ってくれると、心のどこかで思っている。わたしたちのことより自分を大切にしなさい、自分の人生を大切にしなさい、幸せになりなさい、お父さんとお母さんはそれが幸せなんだから。

ある腕時計の死

 わたしの時計が止まった。電池式の腕時計である。わたしはこの時計が永遠に止まらないような気がしていた。正確には、わたしが死ぬまで動いていて当たり前だというような、そういう気分で、毎日腕に巻いていた。でももちろんなくならない電池なんかないので、今日、止まった。六年とすこし動いていたことになる。

 ありふれた時計だ。ちょっとだけ良いもので、長く売れている機種で、ほどほどのかわいらしさと職場でも悪目立ちしない行儀のよさを両立している、ありふれた時計だ。それが六年も動き続けたことに、わたしは少し驚いてしまう。

 六年前につきあっていた人は嘘つきだった。人生の背景、すなわちわたしといる時以外についての話がほとんど嘘でできていた。息を吐くように嘘をつく人間がこの世にはいて、彼はそういう人間だった。自分の利益や見栄に寄与するような、意味のある嘘をつくのではない。つくりごとを話すこと自体にとりつかれていたのではないかと思う。

 彼は素敵な人だった。出身は千葉県だと言っていた。年齢は当時三十四歳だと言っていた。兄がひとりいると言っていた。母親は何年か前に亡くなり、父親は健在だと言っていた。誕生日は五月二十六日だと言っていた。高校まで県内の公立に通い、大学は都内の私学で、遠距離通学に耐えかねて二年生から一人暮らしをはじめ、社会人になってから二度引っ越しをして今のマンションに落ち着いたのだと言っていた。

 わたしは彼が嘘をついていると知っていた。なんとなく知っていた。ほんとうは結婚していて単身赴任で都内に独居しているとか、そんなところじゃないかなと思っていた。わたしは彼の嘘を確認したくなかった。その場その場の彼との時間、わたしと彼との親密さだけを求めていた。わたしがそんなにも彼に対して未来の希望のようなものを持たなかったのは彼が嘘つきだとどこかでわかっていたからだと思う。けれどもその嘘の内容はわたしの予測していたものとはちがった。

 六年とすこし前、彼と連絡がとれなくなった。何のメッセージもなく、何の予兆もなかった。彼のマンションは無人で、向かいの道路から見える窓にはカーテンすらかかっていないのだった。わたしはマンションのポストに自分の連絡先を入れた。彼に宛てたものだけれど、彼の弟から連絡があった。兄とふたり兄弟だと彼は言っていた。嘘だった。

 彼はふだんろくに連絡をよこさないのだと、そのきまじめそうな弟は言っていた。でも僕がこのマンションの保証人だったのでね、解約したから精算だけしておいてくれ、敷金はやる、とだけ連絡が入りましてね、どこに行ったのか知りません、昔からわけのわからない兄で、仲も別に良くないんです、保証人になんか、なるんじゃなかった。その「弟」の口にした彼の名はわたしの知っている彼の名ではなかった。写真を見せると、たしかに兄です、と確認してくれた。わたしは彼について矢継ぎ早に質問した。年齢も、出身地も、出身校も、わたしの知るものではなかった。弟さんは律儀に自分の身分証明書を見せ、兄がどうしてそんな嘘をつくのかわからない、と言った。自分の知るかぎり嘘をついて隠すような過去はないのに、と。

 わたしの恋人は二重に消えてしまった。第一に、物理的存在として。第二に、名を持ち歴史を持つひとりの人間として。第二の彼ははじめからいなかった。わたしが知っている彼は存在しなかった。わたしはその事実を、長いことかけてのみこんだ。わたしは静かに仕事をして静かに暮らした。今は別の人と暮らしている。

 彼がわたしに腕時計をくれたのは六年とすこし前のクリスマスのことだった。彼がいなくなったのは翌年の二月のことだった。だから時計は明確に彼の記憶と結びついていた。彼はわたしからお金をだまし取ったのではなかった。彼は妻がいるのを隠してわたしとつきあったのではなかった。わたしは警察や裁判所に訴えるような被害に遭ったのではなかった。でもわたしは傷ついていた。自分の存在の一部が無効にされたかのような感覚を持っていた。とても深く損なわれたのだ。そのことを、六年経ってようやく自覚した。あまりに根の深い感情は、それが消えたあとにしか自覚できないんだな、と思った。ごっそり持って行かれた穴が目に入らないふりをして、それがふさがってから、ああ穴があった、とわかるのだ。わたしは時計を見た。それはただの死んだ時計だった。わたしはその時計を捨てた。

皮膚接触のリテラシー

 ため息をついてからだを離す。自分の肩が下がっていることに気づく。その肩をあらためて上下させてみる。引き攣るように痛い。少しほぐれたときの痛みだ。僕の背面は首から背中まで常時ひどく凝っていて、ほぐれるとぱちぱちと痛む。気持ちのいい痛みだ。運動もマッサージもなしにほぐれるなんて久しぶりだ。

 いつぶりだろう。そう思う。なんとなく左側を見る。左側は車道である。夜、夜中、繁華街、その外れ、人通りは少なく、みな大人で、道ばたでハグというにはちょっと長いこと人を抱きしめたくらいで文句を言う人間はたぶんいない。いたら謝る。どうも申し訳ございませんね、みっともないところをお目にかけまして、ええ、いい年をしてねえ、お見苦しいところを。

 見苦しいことをする場所がほかにない。見苦しいなんてほんとうは思っていないけれどーー人前で抱きあって許されるのは年若く見目麗しい男女だけ、というようなジャッジを、僕は永久に憎むーー単に抱きあうべき場所がない。僕らはもう一緒に住んでいない。僕らが密室で服を脱ぐような間柄でなくなって久しい。かといって並んで食事しておしゃべりしてそれで終わりという関係でもない。どう考えても僕らはそうはならない。僕らは出会った日から皮膚接触を第二の言語とする恋人同士だった。そうでなくなったときからは「元恋人」だ。元がついて何年たとうが、友人だとかそういう、別の名前はぜったいにつかない。その結果として路地を、都市を、夜を、僕らは必要とする。たぶん。

 右側のあごに髪が触れ、元恋人が僕に言う。下手になったねえ。何が、と尋ねるとわずかに動いて僕のこめかみと鎖骨のあいだに頭をおさめ、その距離にふさわしい大きさにチューニングした声で言う。こういうことが、ですよ。自転車なら乗り方を忘れることはないけど、他人の皮膚に触れる技能は、衰えるんだよ。ちゃんと、まめに、やっておかないと。

 失礼だなあ、何もしていないのに、昔より上手くなっていたらどうするつもり?僕がそのように茶化すと元恋人はちらと首をもたげて僕を見て、それから言う。ばかだなあ、そんな話をしているんじゃないよ、単に触れるときの話をしているんだよ、子どもを抱き上げるのと同じカテゴリの動作の話だよ。ねえ、きみ下手になった、とっても下手になった、こちらから抱きかえそうと思っても腕を固定して放してくれないんだもの。昔はそうじゃなかった、相手の動きを受け取っていたし、たいていの場合、その意味をちゃんとわかっていた、今はそうじゃない、きみ、能力が下がってる。

 そうか、と僕は思う。僕は下手になったのか。あらかじめ接触を許されていると信じて疑ったことのないこの人を相手にしても、抱きしめるのが下手なのか。枕にしがみつくみたいに相手をまるごとぎゅうぎゅう締めつけて動けなくしていたのか。自分の背中に腕を回してもらうことを想像できないほど、鈍くなっていたのか。

 しばらく誰にも触れていないだけならいいんだけどねえ。路地を抜けて落ち着き、飲み直しながら元恋人が言う。伴侶とか子どもとか、親密に触れる相手をつくらないという選択はもちろんある。そもそも誰にも触れる必要がない人だっている。きみが誰にも触れない生活を選んだ、あるいはしばらく誰に触れる必要も感じなかったというなら、だから下手になったんだな、と思うだけなんだけど。

 元恋人は口をつぐみ、僕を見る。僕は首をかしげてみせる。元恋人は首を横に振り、言う。もしもきみに抱きしめる相手がいて、それであんなふうに身勝手な、あるいは切羽詰まって何も見えてないようなやりかたをするのなら、その人かきみか、どちらかがかわいそうだと思って。つまり、きみは相手のことを考えていないか、相手からじゅうぶんなものをもらっていないと感じているか、どっちかなんだと思う。

 僕は口をひらく。それから閉じる。僕が誰かを粗雑に扱っていても、あるいは誰かから粗雑に扱われていても、この人には何もできないのにな、と思う。少し可笑しかった。何もしてもらえないのに嬉しいと感じる自分が可笑しいのだった。理解されることは皮膚に触れられることに似ている。もっと僕について想像してほしい。もっと僕のことを心配してほしい。そう思った自分の甘えぶりを恥じて、それから、開き直る。道ばたで僕らを非難する他人を想像する。僕はその他人に向かって、ぜんぜん悪いと思ってない顔で謝る。いい年をして、ほんとうにお見苦しいところを、ええ、気持ち悪いところをお見せして、すみませんねえ。

五歳児の甘えの技術

 息子が晩ご飯を食べたくないと言う。なぜかと問えばスープがないからだという。保育園のごはんにはついているので、それがなくてはいやなのだという。まったく理屈が通っていない。わたしは保育園のごはんも把握している。息子の通っている保育園は献立だって教えてくれるし、ごはんをちゃんと食べているかも知らせてくれるのだ。ほんとうにいつも元気で、お友だちにもやさしくて、好き嫌いもなくて、と聞いている。めちゃくちゃいい子だそうだ。

 うちではそこまでではない。ちょっとしたわがままを言ったり、だだをこねたりもする。五歳なんだからそれで問題ない。だだをこねる部分も含めて彼はパーフェクトだとわたしは思っているし、夫もそう思っている。でも今日はちょっとしつこい。しかたがないからスープも出してみたが、これじゃないと言う。そのくせごはんを下げようとするといやだと主張し、ほとんど意地になったように文句を言い続けている。もはや「けちをつけている」というレベルではないか。

 わたしは息子の名を呼び、いちゃもんをつける行為がいかによくないか、長々と説明した。夫は「きみは誰でも話せばわかると思っているんじゃないか」と心配するが、いくらなんでも誰しもにわかってもらえるとは思っていない。五歳の息子ならわかってくれるとは思っている。というか、二歳くらいからわかってもらえると思って接してきた。

 翌日、保育園に息子を迎えに行った。自転車の後ろに乗った息子はいつもとさほど変わらない。わたしは自転車をぐいぐいこぐ。息子はどんどん重くなり、わたしの脚はどんどん強くなる。今日はちゃんと食べるだろうなと思いながら夕食の準備をしていると、息子が台所にやってくる。そうして言う。牛乳がほしいんでちゅう。

 でちゅう。わたしは思わずつぶやいた。息子は大まじめである。ふざけている気配、冗談を言おうとしているようすは見受けられない。すごくまじめに、なんなら切実に、でちゅう、という謎の語尾をつけているのだ。たいていの幼児は「でちゅう」とは言わない。現実の幼児語というより、アニメやなにかで使用される記号的なせりふだ。

 わたしは膝を折り、とても小さな子にするように話しかける。牛乳がほしいの?牛乳がほしいんでバブ、と息子はこたえる。まじめにこたえている。わたしは考えながら冷蔵庫をあけ、牛乳を取り出し、息子に与える。息子はそれをのみ、しかるのち、ハグをしてほしいんでしゅ、と言う。わたしはハグをする。息子はハグということばを以前から知っている。しかし、「バブ」「でしゅ」は新しい。どこで覚えてきたのか。離乳食はないので食事どきにまでバブだったらちょっと困るなあと思っていたら、息子は「五歳に戻りました」と宣言して、いただきます、と言った。

 翌日は夫が保育園にお迎えに行く日だった。わたしが帰ると息子はもう眠っていたので、夫に昨日のようすを話した。夫によれば、今日は赤ちゃんごっこをしていないし、今までもしてみせたことはないという。ちょっと見てみたいなあと夫は言った。少しのあいだ赤ちゃんになって「五歳に戻りました」というのはなかなかの知恵だ、巧いと思うよ。甘やかされ慣れているというか。赤ちゃんごっこをしたがるなんてあの子も大きくなったね、逆説的だけど。

 わたしの脚はどんどん強くなると思っていた。つまりどこかで、わたしは永遠に幼児の母であるような気がしていた。でもそんなはずはないのだった。あの子はもうじきわたしの自転車の後ろの席を必要としなくなる。わたしたちが仕事を調整して朝晩の送り迎えをする日々はもうすぐ終わる。もうじき子は小学生になって、ひとりで学校へ行く。そのことを知っているから、息子はきっと大人になるために努力をしているのだろう。そしてそれに疲れてしまうと、「バブ」とか「でしゅ」とか言ってみせるのだろう。それが嘘で、お芝居だとわかっていて、言うのだろう。そんな技術を身につけるほどに、息子は大きくなったのだろう。もう大きいから、必要なのは牛乳とハグだと自分でわかっていて、自分でねだることができるのだろう。

 わたしの息子は賢いなあ、と思う。わたしは同じことをできているだろうか、と思う。わたしの「牛乳」はとても複雑になって、目の前の伴侶にも、親しい友人たちにも、きっと全部はわからない。そしてたがいに、わからなくて当たり前だと思っている。だからときどきは言おう、と思う。牛乳がほしいんでバブ。