傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

おばさんたちのいたところ

 アルバムを見ると、未熟児のための治療室から出て間もないころから、母親でないおばさんたちが、代わる代わる僕(だという気はしない脆弱そうな子)を抱いて、ばかみたいに大きな笑顔で写真におさまっている。おばさんたちは野太いものからかぼそいものまでさまざまの腕に僕と年子の兄の幼い日の姿を抱え、僕らきょうだいが小学校を出るあたりまで、なにかというと写真に写りこんでいる。誕生日、旅行、バーベキューやキャンプ、クリスマスだのハロウィンだのと理由をつけて集まっていたホームパーティ。

 父は内気で無口な人で、僕と兄の幼いころには、いつも夜のおぼろな記憶の、あるいは母の留守居の姿であって、眉根を寄せた笑顔をしている。父はおろおろと僕らをあやし、僕らは元気にだだをこねた。父はうまく僕らを叱らなかった。僕らを叱るのは母と「おばさんたち」だった。

 「おばさん」の筆頭にして代表は芙蓉ちゃんだった。芙蓉という名でフユと読む。僕らの家の近所に住んでいた母の五つ年下の妹で、母と父に次ぐ僕らの育児の主戦力だった。叔母は手先の器用な医療者で、僕らきょうだいが髪を切るといってははさみを持ち、熱を出したといっては勤務明けに顔を出した。叔母は僕が中学に上がるころに遅い結婚をしてその相手の国に職を見つけ、年に一度も帰ってこない。

 叔母がしょっちゅううちにいて僕らの面倒を見たので、そのほかのおばさんたちのこともとくにおかしいと思ったことがなかった。母の友人は職場の知己だの中高大学の同級生だの先輩後輩だので、ずいぶんとたくさんいた。僕や兄が名を覚えている者だけで1ダースを超える。そんなだから、僕と兄はなにかというと余所のおばさんが家に来ることや一緒に旅行に行くことを、当たり前だと思っていた。どうやらそれは、当たり前ではないらしかった。

 母の友人の「おばさん」たちはしばしば母に招かれて僕と兄のいるところに来た。幼い僕らをあやし、おむつを換え、着替えをさせ、風呂や温泉に入れ、寝かしつけ、手をふりほどくのを追って走り、車が通れば自分が先に轢かれる位置についた。僕らをその真っ白い、あるいは日に焼けた腕で抱きかかえて、世界のいろんな道をのしのしと歩いた。自分の子を連れて来て、あるいは子を持たず、幼い僕らのよだれを肩口にしみこませ、膝をついて鼻水を取り、泣く兆候を察知して巧みにごまかした。公共の場で騒げば僕らの目をじっと見てドスの利いた声で騒ぐべきでない理由をささやき、効果がなければ問答無用で僕らを引きずってその場を出た。
 僕と兄は幼いころ「誰でもいいやつら」という、えらく不名誉なあだ名をつけられていた。犯人はもちろん、おばさんたちである。自分の子を連れてきたおばさんのひとりが僕らをダシにしたことを、僕は覚えている。あのきょうだいを見なさい、とそのおばさんは言った。あのきょうだいは、誰でもいい、だっこしてくれるなら誰もいい、手をつなぐ相手は誰でもいい、あなたもそうあるべきです。ママ、ママ、っていつまでも言ってるのはあなただけ。よく聞きなさい。あなたに何をしてくれるのも、ママじゃなくていいの。まったくかまわないの。ママママ言って泣くのは、幻想です。
 おばさんたちは写真の中で、幼い僕らに足跡をつけられた服をそのままに、一緒に昼寝している。僕らの汚れた指を口に突っ込まれたまま僕らの口元をぬぐっている。そのうちのひとりが、今日、僕の家のリビングで母と向かい合って座っていた。あのねえ、と言った。わたし余命三年なのですって。
 僕はもう子どもではないから、おばさんたちが家に来ても放っておく。おばさんたちは相変わらずしょっちゅう僕の母を訪ねて来て、リビングで母と飲み食いしている。僕も兄も理由がなければそんなダルい場所に行かない。たまたまダイニングに水を飲みに来たらリビングからおばさんの声が聞こえた。だいたい三年、とおばさんが言った。それで、と僕は訊いた。別に反抗期とかじゃない。口を利くこともある。おばさん、死ぬの。
 おばさんは、うん、と言った。わたしは死ぬ。癌でじきに死ぬ。芙蓉ちゃんに治してもらおう、と僕は言った。それからその発言のあまりの幼さに狼狽し、今のは、と言った。今のはなし、とおばさんは笑った。昔、よくそう言ってたよねえ。芙蓉ちゃんにだって治せない病気がある、きみはもう、そんなこともわかっている、いい子だ、今の話は忘れなさい、おばさんたちは生きて、働いて、死ぬ、それだけのことだ、きみがそのことを気にしてくれたから、わたしは、ちょっとうれしい。いい子だね、おやすみなさい。

恐がりやの悪徳

 手術か経過観察かを選ぶことになります、と医師は告げた。よし、手術しよう、とわたしは思った。経過観察という状態はどうも性に合わない。さっさとかっさばいて取ってすっきりしたい。少々のリスクや傷跡は、まあしかたのないことである。死ぬ可能性はいつだってあるのだ。毎年更新している遺書を書き直しておこう。そこまで考えて時計を見ると、医師のせりふから五秒が経過していた。
 やっちまいましょう、手術。そう宣言した。医師は職業的な笑顔で、それではゆっくり決めてください、と言い、診察を終了させた。何が「それでは」だ。もう決めたと言っているのに。
 自分の病気に関する情報はいちおう集めた。ただ、わたしは思うんだけれど、情報収集能力や情報処理能力があればものごとが決められるというものではない。情報がじゅうぶんに与えられて決断するという場面はむしろ少ないからだ。わたしたちはしばしば、決定のためのリソースを欠いたまま岐路に立つ。何かをすることはもちろん本人の意思だけれども、しない、というのも、一見決めていないように見えて、結局のところ本人の決定の一種である。それなら明確に決めたい。
 たいていのものごとは放っておくと現状が維持されるように見える。けれども実はそうではない。現状維持というのはまぼろしだ。わたしたちは刻々と老いて死に向かっているのだし、周囲の環境だって「維持」なんかされるはずがない。わたしたちは時間が経つにつれ少しずつ可能性をうしない、選択肢をうしない、何かを積み上げている。良くも悪くも。それなら選択肢をきっちり見て能動的に決断したほうが寝覚めがよい、とわたしは思う。
 それはさあ、と友人が言う。思いきりが良いように見えるけどさ、最適なタイミングまで待てない愚か者のやり方じゃないかなあ。めったなことでは死んだりしない手術だってあんたは言うけど、死ななきゃいいってもんじゃないでしょう。メスを入れるって結構なことだよ。切らなくて済むならそれに越したことはない。ていうか、手術するならするで、まあいいんだけど、なにも告知されたその場で決める必要はないでしょう。ちょっと間を置きなよ。誰かに相談するとか。あんたと一緒に住んでる男はなんだ、棒っきれかなにかか。
 とにかくさっさと切っちゃいたいの、一日も早く。そう答えてからわたしは、その理由を思いついて、話す。わたしは、手術そのものより、「結局は手術しなければならないかもしれない」と思い続けているほうがいやだ、というか、「切らなくて済むかもしれない」と期待してあとでがっかりするのがいやなんだと思う。
 あんたって、こらえ性がないよね。友人が言う。なんていうか、確率の低い希望に対する耐性がない。あんたから聞いたぎょっとするようなせりふ、だいたいその耐性のなさによるものだって気がしてきた。たとえばさ、仕事の愚痴を言う人がみんな職場改善したいとか転職したいとか思ってるわけじゃないんだよ、なんとなく「もっとましにならないかな」って思ってるだけなんだよ、あんたには信じられないだろうけど。そうだ、「結婚したい」っていう人に「じゃあ具体策を練ろう、私の知り合いを紹介しようか?あれはどう?これは?」って提案しだしたこともあったよね。「結婚したい」って口にしたほうはさ、「今すぐさまざまな方法を試し一定期間のうちに伴侶を見つけたい」とは言ってないわけ。あの話しぶりだと、「自然にいい人があらわれてなんとなくうまくいって結婚できたらいいのにな」っていう程度だったんだと思う。あんたはそういうぼんやりした希望みたいなものを人生から排除してるんだよ。
 だってそんな、口あけてたら飴が落ちてくるみたいな現象、あるわけないじゃん。わたしはそう反論しかけ、それから口をつぐんだ。あった。想像さえしていなかったような、都合の良いお話みたいな幸運は、わたしの人生にも、あった。それは交通事故みたいに突然やってきた。しかも一度ではなかった。飴どころか、もっとずっと、いいものだった。
 友人は言う。世の中はけっこう甘い。世界はときどきやさしい。フィクションならご都合主義だと言われるようなことだって起こる。それをあてにするのはまちがっているかもしれないけど、そんなのあるわけないって決めてかかって幸運をぞんざいにあつかうのも正しくはないと思うよ。いっけん勇ましいように見えるけど、恐がりやの過剰防衛というものだよ。決断力があるのはとってもいいことだ。いいことだけど、あんたの場合は、もうちょっと世界に期待したほうがいいと思う。

可能性を燃やす

 わたしたちはずっと夫婦ふたりで暮らしている。学生時代からのありふれたつきあいで、双方が二十七になる年に結婚した。わたしは子どもを産んでも仕事を辞めるつもりはなかったし、夫もそれに同意していた。わたしたちはそれぞれ、一人で暮らすぶんには問題がなかった。だからふたりで暮らすぶんにも問題ないだろうと、そのように甘く考えていた。わたしたちは家事を回し、どちらかが出張に出かけ、どちらかあるいは両方が忙しくなって家事のバランスが狂い、壮絶なけんかをした。それから少しの時間をかけて、あやうくバランスをとった。

 わたしたちの家庭に歪なところがなかった、とは言わない。新婚当初はあきらかにわたしの負荷が大きく、わたしはしばらくそれに悩み、そのあとシリアスな話し合いと一度の家出をし、また話をして、それからしばらく右往左往して、どうにかおさまった。わたしはそのように記憶している。夫はそれほど大きな問題はなかったと思っているようだ。あの家出は夫がわたしの誕生日を忘れたからだと、そう記憶しているようだった。誕生日?

 どちらの記憶が正しいか追求するつもりはない。栓ないことである。わたしたちは裁判をしているのではない。家庭を築いているのだ。記憶の食い違いくらいたいしたことはない。わたしがまちがっている可能性だってなくはないのだし。そう思ってわたしは、あいまいに笑う。

 わたしたちは夫婦ふたりきりで暮らしている。わたしたちは今年で四十になる。その事実はごくゆっくりした間欠泉のように、あるいは水中深くに潜ったくじらの漏らす息のように、不意に意識に浮かんでくる。わたしたちは仕事をする。わたしたちは食事を作る。わたしたちは皿を洗う。わたしたちは眠りに就く。

 三十過ぎまで、自分のせいだと思っていた。そのときは悩んでいたつもりだったけれども、それほど深刻ではなかった。三十二のとき、ほとんど確認のような気持ちで不妊検査をした。治療にいくらかかるかなあと思ってため息をついた。検査の結果を聞きに行ったとき、は?とわたしは言った。ふだんはそんな言葉遣いをしない。あのときだけだ。だって、医者が、わたしに異常がないなんて言うから。

 そんなことはまったく想定していなかった。子ができないのはわたしが不妊症だからで、治療してどうにかなればよいが、もしかすると子を諦めなければならないかもしれないと、そう思っていた。それしか思っていなかった。わたしはその検査結果を握りつぶした。

 それから数年は、待っていたように思う。夫が不満を口にするだろうと思って、待っていた。たぶん。一度だけ、親戚の子が遊びに来たあとで、うちには来ないねえ、と言った。そうだねとわたしはこたえ、それから黙った。そのあと夫が何を話したかは覚えていないが、少なくともわたしたちの子どもについての話ではない。それだけは確かだ。

 わたしは何を避けているのだろうか、と思う。わたしは何を避けて、そのために子どもを産む可能性をうしないつつあるのだろうか。否、うしなうのではない、投げ捨ててきたのだ。何年もかけて、少しずつ燃やすみたいに。どうして?夫のせいで子ができないとわかるのがいやだったのか。少し考えて、否、と思う。それを想像しても、それほど怖くはない。

 漠然とした疑惑だけがずっとあった。わたしのせいではなく、あなたのせいではなく、わたしたちの組み合わせが、だめなんじゃないのか。

 わたしが怖かったのはきっとそちらのほうだ。子が持てないこと自体がそんなにも恐ろしいのではなかった。数年前、自分が不妊でもまあしょうがないやと思って病院に行ったのだ。わたしが怖かったのは、わたしと誰か別の男性、夫と誰か別の女性であればぱっと子どもができる、という可能性だった。そこに思いが至ると、目の前がさっと白くなった。わたしがずっと恐れていたのはこれだったのだ、と思った。言語化と自覚を抑圧するほどに強く怖れていたこと。

 どうして今ごろ自覚したんだろう。そう思う。少なくとも自分は誰が相手でもそうそう子どもはできない年齢になったからかな、と思う。夫はまだ可能性があるのに、と思う。わたしはなにがそんなに怖かったのだろう。

 わたしの中に長いことあったはずの恐怖はもうぼんやりとした記憶に変じていた。数分しか経っていないのに、今はもう、怖かったことだけを覚えていて、どうして怖かったのかはわからないのだった。夫に言おう、と思った。子どもについての話をしよう。わたしたちが夫婦ふたりきりでずっと暮らしてきたことについて話をしよう。

堆積する鎧

 お盆の東京は寂しくて好きだ。みんなどこか楽しいところ、美しいところへ行ったのだ、と思う。よかったなあ、と思う。もちろんどこへも行かない人もいる。私もそうだし、これから尋ねる友人もそのひとりだ。

 彼女は夫と娘の三人暮らしだ。お盆のあいだ、夫は娘を連れて彼の故郷に戻っている。夫はねえ、と彼女は言った。わたしが調子悪いときにはあまり家にいないの。自分の仕事と娘の面倒見るのに専念すればいいから楽といえば楽かな、娘はもうそんなに手がかからないし。

 おじゃまします、と私は言う。よろしくお願いします、と彼女が言う。玄関をあけると箱が積み重なっている。シューズクローゼットが少しひらいていて、傾いだ靴がのぞいている。リビングは少しごたついているけれども、ひどく散らかっているというほどではない。子ども部屋も似たような感じだ。問題は寝室である。衣類や書籍、小型の家具、空き箱などが不規則に詰め込まれ、文字どおり足の踏み場がない。ベッドの上、枕のあるべき位置には横倒しの電気スタンドと子どもの靴下、それになぜか、きれいな空き瓶があった。

 彼女のすみかがこのようになるのは八年ぶり五回目である。結婚前はすみか全体が、結婚後は寝室と台所が、なぜだかカオスに飲みこまれる。いつもではない。いつもはふつうだ。調子を崩すとあっというまにものが増え、混沌を形成する。徐々に間遠になりながら繰り返し起きている。前回は産後の育児休暇中だった。

 それが起きたとき、私は彼女の家に行く。私は掃除が得意なのではない。自室の隅の埃は見て見ぬふりをしている。ただ、やたらとものを捨てる。そういう性分なのだ。自宅に不要なものがない、といえば聞こえが良いが、どうかすると必要なものもない。「常時夜逃げ前のような女」などと言われる。他人のものでも許可があればにこにこして捨てる。そんなだから、彼女は私を呼ぶ。

 この靴いいね、と私は言う。彼女はあいまいにうなずく。そしてその靴を履く。どう、と訊くと、足が痛いと応える。私はその靴をゴミ袋に入れる。この靴は底がすり切れているね、捨てる。そう言うと彼女はやはりあいまいにうなずく。私はその靴と似た色とかたちのものを探し、彼女に履かせる。それを繰り返す。

 ゴミはゴミ袋に入れて積み上げる。人によっては資源というのだろうし、彼女の家の場合、ほとんど新品みたいな製品も少なくない。パッケージに入ったままのものさえある。リサイクルしなくては、有効活用される場所もあるだろう、とっておけば使うだろう。そういう考えは、私にはない。そんなことができる状態なら他人に助けを求めない。

 彼女にはゴミ袋に入れるところを見ていてもらい、止めたいときに止めてもらう。どうしようもなく迷ったものはミカン箱ひとつの範囲で迷い続けてもらう。彼女の場合、八年前になかったものがほとんどだから、迷いの範疇は比較的狭くて済む。精神力が落ちるとまずできなくなるのが判断である。だからあまりに具合が悪いさなかには、彼女は私を呼ばない。私のすることは結局のところ判断の強要だと知っているのだ。

 たくさん買ったねえ、と私は言う。たくさん買ったんだねえ、と彼女も言う。寝室で大量のパッケージごみを捨て、書籍を古書店行きの箱に詰め、残す服を決めるためのファッションショーをやっているときだった。すてきな服だねえ、と私は言う。本もたくさんあるねえ。

 捨てるものを詰めた袋や箱が積み上がった寝室で彼女は言う。これはね、わたしの鎧だったものなの。わたしは不安になるとものを買うの。家事がうまくこなせないと家電やキッチン小物や掃除用具を買う、自分の能力が足りないと感じたら育児書やビジネス本を買う、醜くなってしまったと思ったら服や化粧品を買う、そして少し安心する。

 そうか、と私は言う。安心するなら買ったらいいよ。でもあなたは醜くなんかないし、有能だし、家だっていつもはちゃんとしてるよ。わかってる、と彼女は言う。ものを手に入れると安心するけど、でも、これじゃないって、いつも思ってる。気がついたら調子が悪くて、なんだかぼんやりして、ものがたくさんあるとぼんやりしてても苦しくなくて、後ろめたいのにやめられなくなる。もういい年で、自分のパターンもわかってるから、調子が戻ったら買わなくなるんだけど、そうなると溜まったものをどうやって捨てていいかわかんなくなっちゃって。何で繰り返すのかな。いいじゃん、と私は言う。繰り返せばいいじゃん。五年や十年に一回具合が悪くなるなんて、むしろ健康だよ。私だって別の具合の悪くなりかたしてるよ。

眠り熊クラブ

 寝床を貸している。

 一昨年、ベッドを新調した。一人暮らしのちいさな寝室いっぱいにダブルサイズを置いている。わたしは眠るのに苦労するたちで、何時に就寝しても平日は朝五時に目が覚めてしまう。なんなら休日にも覚めてしまう。そうして仕事でしばしば終電帰り、タクシー帰宅をする。寝不足である。目の下の隈はもはや宿痾、わたしの人相の一部になって長い。快適な睡眠へのあこがれにまかせ、マットレスはもちろん、布団も枕もカバーもいいものを買った。

 そうしたら人が寝に来る。この場合、寝るという語はスリープ以外の意味を含まない。わたしのいない間に来て帰る。そういう人間がふたりいるので、合い鍵を渡し、好きに使ってよいと言ってある。わたしが帰宅すると、他者の気配の残滓だけが残っている。

 ふたりをA、Bとしよう。Aは昼間に来る。当直あけに来てソファで眠る。家に帰ると幼い子が喜んでまとわりついてくるからだという。ふだんろくに眠れないので、当直の日に泊まってくれる実母にすべてをまかせて眠りたい、という。あなたの家はとても静かでよく眠れる、とAは言う。そりゃあ、誰もいないからね、とわたしはこたえる。Aは「ほどよいところで起きられるように」ソファで眠る。わたしのソファは肘おきのついているタイプだ。Aはくるりと背中を丸め、ソファの座面にすっぽりはまりこむようにして眠る。Aは快活でよくしゃべる人間だが、残された気配はうっすらと冷たく、なんとなし清潔なところがある。

 Bは夜に来る。わたしの出張時に来て泊まる。Bは奇妙なくせを持っている。ベッドでまっすぐ横になって眠るのに、無意識のうちに座り、直角の姿勢で朝を迎えるのだという。立ち歩くこともあるらしく、ときどき浴槽にはまった状態で目が覚めたりもするらしい。隙間があると入ってしまうから、安全のため自宅のベッド下は収納で塞ぎ、いくつかの扉に南京錠をつけて眠る。誰かと眠ると気味悪がられることもあって、Bはいつも完全に孤独な睡眠を求めている。でも飽きる、とBは言う。いつも同じところで眠るのはね、飽きる。眠っているあいだ少しだけ意識があるからかな。だからあなたの家はとてもいい。そうかいとわたしはこたえる。Bの残す気配は、触れるとそわそわするような、明るくて不安定な印象を与える。

 わたしはAのように不規則な時間にぱっと眠ってさっと起きるような器用さを持ち合わせていないし、Bのように意識が残っているような眠りかたもしない。わたしの眠りはなかなか訪れず、訪れたときを覚えていないまま早朝を迎えている。夢を見ることもほとんどない。電源が落ちたように眠り、電源を入れられたように起きる。その間は無である。いちいち死んでいるんじゃないかと思うくらいだ。

 どうして他人に寝床を貸すのかといえば、とくに理由はない。ただ、わたしにとってはよい習慣だと思う。定期的に他者の気配があると、なんとなし気分がよい。誰かが始終近くにいるとわずらわしい。それなのに、自分にとっていやではない他人が自分の留守中に自分の部屋で寝ているのは気分が良い。自分で思っているより孤独を好まない人間であるのかもしれない。

 出張の予定が入ると、A・Bと共有しているオンラインのカレンダーに記入する。AとBはわたしの家で眠りたい日に記入する。カレンダーには名称をつける必要があったので、「眠り熊クラブ」とした。わたしたちが冬眠する熊のごとく眠れますように、というていどの意味である。けれども、わたしたちは熊ではない。残念ながら。

  いったい、この世の誰が満足に眠れているのだろうか。そう思う。冬眠する熊のような人はいるのかと思う。中学生の時分に読んだ小説に、人間には放っておくと一日二十四時間ではなく、二十五時間の周期を刻んでしまうエラーが内包されている、と語る少年が出てきた。少年はどうしたことか、みんながうまくごまかしている一時間をどうしてもやりすごすことができない。わたしはその頃からうまく眠れなかったから、はらはらしてページをめくった。するとその少年はあっけなく死んだ。眠れないから死んだのだ。どうしよう、と思った。がんばって死なないようにしよう、と思った。

 結果として、わたしは死ぬほどのエラーを内包していなかった。だからといって苦しくないのではない。相変わらず眠れない。病院に行ったり運動したりしてどうにかごまかしているだけである。わたしはうまく眠れない。AもBもうまく眠れない。だからAとBはわたしの家で少し眠る。わたしはAとBの気配の残された日にいつもより長く眠る。

生き物を拾う

 少しさみしくなって人を拾った。

 わたしの家は小さな二階建てで、一階は元工場である。若いころに相続して少しリフォームした。ふだんは二階に住んでいる。一階にはピアノがあり、犬がいる。そこでも暮らせないこともない。だからわたしは拾いたい人にこう言う。部屋が余ってるから、来る?そうして人が来ると自分のすみかを一階にうつす。

 わたしは相手が男でも女でも仲良くなりすぎるとかえってさみしくなる。離れたくないように思う相手が稀にいて、二階でずっと一緒にいたこともあるけれど、結局のところふたりの人間はひとつにはなれないので、近くにいるほど別離を感じる。一階と二階に分かれているくらいがいちばん具合が良い。

 同じ家に人がいる。生活の中でなんとなし顔を合わせる。いいな、と思う。わたしは生き物の気配が好きなのだと思う。ずっと犬を飼っているのもそのためだ。今の犬は和犬の雑種で、小さくはない。小さすぎる生き物は苦手だ。触ると壊れそうだから。

 わたしの犬は日に一度ばかり、わたしの腕や足に軽く歯を当てる。眉間を撫でてやると目を三日月にし、歯の位置をずらして何度か甘噛みする。子犬のようだね、おまえ。わたしはよくそう言う。ひどく落ち着いた犬で、甘噛みさえ静かにする。ほとんど成犬になってから捨てられたのを拾った。

 街で人々を眺めると、みんな居場所があるような顔して行き来している。けれども、行き場のない人もいるのだ、もちろん。わたしは何年かに一度、そういう人を、拾う。拾って家に置く。朝晩口を利く。友人のようであることも恋人のようであることもある。いずれでもないようなこともある。わたしは他人とのかかわりに名前をつける必要を感じない。

 さみしくなると人を拾う。人はやがてわたしの家を出て行く。たまに死ぬ。このあいだ、また拾った。わたしの犬と似ていた。噛み癖のある人間をはじめて見た。そう言うと、そんなに珍しくない、と返ってきた。そうなのだろうか。きみは犬のようだね、とわたしは言った。うちの犬は噛む、怪我をしない程度に。躾のなってない犬、と相手はこたえた。わたしの犬より噛み方がなっていないくせに。だいいち、わたしの犬は、わたししか噛まない。

 わたしの犬は誰が来てもたいてい落ち着いている。おまえはいい子だねとわたしは言う。犬はしっぽをゆらりと振る。わたしの家の近くには大きな川がある。わたしたちは川のそばを歩く。犬は誰がいても気にとめないけれども、散歩をさせるほど気を許すことは少ない(えさは誰がやっても食べる)。今回は同居人が引き綱を取っても機嫌よくついていくので、わたしの運動量が減った。半年ばかりのあいだそのような日々が続いた。それはずっと続くもののように感じられた。珍しいことだ、と思った。けれども、もちろん同居人は一時的な存在にすぎない。いつでも。

 そろそろ自分の家を借りる、と同居人が言う。たいていの人間は一時的にしか住居を喪失しないのだ。残念なことだと思う。そう、とわたしは言う。今度はきみの番、と同居人が言う。なんのことかといえば、わたしと犬にその「自分の家」とやらに来いというのだった。何を言うのかとわたしは思った。わたしが他人の家に行く理由なんかどこにもない。そう言うと同居人はわたしを「公平な関係に耐えられないどうしようもない人間」と指摘して出て行った。公平な関係に耐えられない。わたしは復唱し、犬を撫でた。指を差し出すと犬は申し訳程度に歯を立てた。犬とわたしは公平な関係ではない。もちろん。

 元同居人から連絡があったので、何の用かと尋ねた。それから、用事なんかあったためしがないと気づいた。わたしは誰にも用事なんかない。誰かと継続的にかかわるエクスキューズとしてわたしの家の二階があって、それが相手にとって用なしになれば、わたしには何も残っていないのだった。

 用もなく会いに行くと、なぜだか得意げな顔で待っていた。帰ってきてほしいなら機嫌を取りなよ。そう言った。わたしは人間向けの機嫌の取り方を知らない。誰かの機嫌をとる人生なんかごめんだと思って生きてきた。しかたがないから指を差し出した。犬向けの機嫌のとりかただ。親指の付け根に痛みが走る。犬と同じだとわたしは思う。犬も人間も、わたしを噛む連中は、噛みながらわたしの目を見る。このまま噛み切ることを許されている、その特権を確認している。どうしようかな、とわたしは思う。左手でグラスの中身をぶちまける?にっこり笑ってもっと噛めと言ってやる?

ミイラ取りの田中さん

 彼に対して田中さんという呼称を使用する人はいない。田中さんは複数いて、彼はもっとも新しく来た人だからだ。下の名前と同じ読みの人もすでにいる。そんなだから、座席表は「田中(浩)」、近しい同僚からの呼び名は「ミーさん」で落ち着いた。ミはミイラのミである。

 田中さんは中途採用、今年度で三年目に入った。というのは表向きのことで、ほんとうは中途ではない。田中さんは採用時二十八歳で、学校を出たばかりだった。履歴書を読むと大学院博士課程満期退学、と書いてある。新卒じゃん、と私の上長は言い、そうですね、と私はこたえた。けれども、私たちの会社では新卒というのはどうやら二十代前半までで、だから田中さんは新卒扱いにしたくないらしいのだった。そんなのどこにも書いてないじゃん、と上長は言い、書いてないですねと私はこたえた。

 採用チームは人事担当ならびに採用対象の所属する予定の部署で組む。私は採用チームで年齢がいちばん下だったから、前例や内規を調べるというような、下っ端らしい仕事をした。田中さんのような新人の前例はなく、内規にも書いていない。だから田中さんは新卒だと私も思う。でもそうはいかないだろうなと思ったとおり、私の上長以外はもごもごとよくわからないことを言い、田中さんは中途採用の扱いになった。そもそも田中さんは年齢を理由に採用ルートから外れるところだった。年齢差別するなら内規にそう書いとけばいいじゃん、と私の上長は言い、まったくですねと私はこたえた。

 田中さんの採用面接はちょっとした見物だった。今まで何をされていたのですか。私の嫌いな役員が侮蔑を隠そうともせず、田中さんに尋ねた。はい、と田中さんは元気にこたえた。ミイラの研究をしていました。ミイラ、と私の上長が言った。ミイラ、と私も言った。ミイラです、と田中さんはこたえた。すごくいい笑顔だった。

 田中さんは外国でミイラを発掘していたから語学ができる。ミイラの分析には数学を使うのだそうで、数字に強い。外国の僻地に行って生きて帰ってくるのが専門だったからいろいろとタフである。たとえば嫌みを言われると「異文化ですね」で済ませる。身体もすこぶる丈夫だが、椎間板ヘルニアだけが悩みだという。発掘なんかするからですよと誰かが言い、まったくですと田中さんはこたえた。

 田中さんはいつも同じような服装をしている。就職するからとはりきってスーツをいくつか買って、そればかり着ているのだという。着るものについて考えるのが面倒であるらしく、私服も制服みたいに数パターンとりそろえて済ませているのだという。ある日の仕事中、田中さんのめがねのレンズがフレームから落ちた。田中さんは落ち着き払ってレンズをフレームにあて、ばんそうこうで止めた。そのまま週末まで仕事をしていた。視界にばんそうこうが入って邪魔でしょう、と訊いてみたら、鼻もずっと視界に入っていて邪魔ですと言った。

 田中さんはあっというまに人気者になった。能力が高い人間が職場で人気になるのはあたりまえだけれども、田中さんの場合は人を否定する雰囲気のないことも人気の要因だと思う。いつもなんとなし愉快そうであって、よく人を褒める。それだけのことだけれど、選んでつきあっているのでもない相手ばかりの会社という場所でそれだけのことができる人はあまりいない。機嫌が悪そうに振る舞うことで相手をコントロールしようとする人もけっこういる。

 田中さんの採用に否定的だった人々のうち、一部はいまだ田中さんを無視している。田中さんは彼らにも元気にあいさつしている。あいさつを無視されて腹が立たないのかと訊いてみたら、あいさつはタダだから腹は立たない、ということだった。田中さんはやたらとコスト意識が高い。精神や感情を使うことはコストだと思っていないのかと訊くと、相手の反応を気にしなければコストにならない、と説明するのだった。反応を気にするのは自分が愛する人間やミイラだけでよいのだという。なんだろう、ミイラの反応って。

 田中さんの入社から二年半、社内には田中さん的な雰囲気が伝染したような人も幾人か出てきた。そのなかには田中さんの採用に不満を述べていた人も含まれている。「ミーさん化」と誰かが言った。ミイラ取りがミイラになる、の反対ですかねえ。私がそうつぶやくと、あなたも人の好き嫌いが激しいねえ、と上長が言った。考え方が合わないからって、同僚に向かってミイラはないでしょう、ミイラは。