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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

前菜のない人生の話

 仕事で知りあった人が自分のプライベートについて話すのはおおむね、好意のあらわれである。自己開示というやつだ。まれに「もう黙れ」という意味をこめた開示もあるが、継続的に楽しげに自分について話すのはだいたい好意によるものだ。伴侶の話だとか、子の話だとか、年齢によっては孫の話だとか、あるいは近ごろの恋人や親しい友人の話だとか。そういう話をする合間には、信条、能力、具体的な価値判断など、無難ではない話題も出てくる。そのようにいろいろな話題を共有する相手を友人と呼ぶのだとわたしは思う。
 目の前の女性は聡明で魅力的な人だ。手足が人形めいて長く、なかでも指の美しさときたら格別で、かぼそいのに力強く、神経がいきとどいている。シャープな印象に比して輪郭や目はまるくて可愛い(胴体だってみんな褒めるんだろうけど、わたしは、肩幅も胸も腰も薄い、いわゆるモデル体型を個人的に好きではない)。
 彼女は知り合って一年のあいだに何かと自身のことを教えてくれた。敬虔なキリスト教信仰と科学的な態度を同居させており、二十代で結婚と離婚を経験、現在は事実婚で、子はなく、両親は神戸にいる。夫は同い年で、職業は雑誌の編集者。最近の夫婦の流行はおかしなLINEスタンプを探すこと(スマートフォンの画面を見せてくれた)。愛犬はコーギー、赤っぽい毛色、今年で四歳、名前はあんずちゃん。
 けっこうプライベートな話だ、と思う。そういうことを話してくれるのはわたしを気に入ってくれているからだと思う。わたしだってこの新しい知人と友人になりたい。自己開示をやり返したい。けれども、わたしには平和に楽しく開示できる背景があんまりない。ていうか、ほとんどない。両親はすでに亡い。母は遺伝性の病気を持っていた。わたしもその病気を受け継いでいるかもしれない。結婚はしていないし、子もいない。自分でもびっくりするくらい、明るい背景がない。こんなに明るい人間なのに。せめてきょうだいでもいれば話題になるけれども、あいにく一人っ子だ。現在のパートナーは同性だが、自分を同性愛者とくくることもできない。異性を好きになることもある。パートナー以外の他者にセクシャリティを開示するつもりはない。というか、セクシャリティとか決めてない。ついでに結婚という制度にも賛成していない。
 わたしは好き勝手に生きてきた。たいそう楽しい人生を送っているつもりだ。後悔というものはほとんどなく、今後もそのつもりである。そりゃあ、死に至る病の遺伝子なんか持ってないほうがいいけど、それがあるのがわたしなのだ。長い長いあいだ苦しんで死ぬ病気が発現するかもしれない遺伝子、母の命を奪った病の遺伝子の上にわたしが乗っかり、へらへら笑って人生を歩んでいる。これらの事実は矛盾するものではない。わたしそのものだ。母は世を去る前、自分の病気が一定の確率で遺伝すると承知していた、と教えてくれた。わたしを産むか否か迷っていたと告白してくれた。産んで正解、さすがわたしの母、まったくもって正解である。わたしがこの先もし母と同じように発病したとしてもまったく傷つかない強度で、母の選択は正解である。
 正解だけれども、知りあいから友人になろうかという人とのランチの場で開示するにふさわしい内容ではない。クソ重い。もっと軽い話がほしい。前菜みたいなやつ。わたしがそのようにぼやくと、うさぎか何か飼えばいいじゃん、動物は無限の話題を提供するよ、とパートナーは言う。しかし、わたしは動物の毛のアレルギーなのだ。同居できる生物はヒトが限度である。ハダカデバネズミとかなら可能かもしれないけど、写真を見るかぎりあんまりかわいくない気がする。あと寒そう。
 わたしがそう言うとパートナーは笑い、それから、言う。そんなさあ、コース料理みたいに、軽いものから順繰りに出して、問題ないと判断したタイミングでメインを提供、のちデザート、なんて気を遣う必要、ないよ。たしかにそういう手順で供される会話は格好良いし、誰でもOKを出すでしょう。でも、手持ちにない種類の話題を無理に作る必要もない。あなたはもう強くて大人なのだから、その場の気分で自分の話をして、それで引かれたり嘲笑されたりしたら、相手と親しくなるのをやめればいいだけなんだよ。人生が重いのはあなたにかぎったことじゃない。誰の人生だって、ほんとうは重い。寄りかかられたわけでもないのに重さを否定する相手は、あなたが自分の話をするのに値しない人間なんだよ。

ピーマンの焼きびたしの作りかた

 ピーマンのあれを作りたい、とぼくは言う。あれって、と妻は訊く。あたりまえだ。質問が具体性を欠く。ぼくは反省しながら質問をおぎなう。つまり、ぼくは、時々きみが作るピーマンの、ピーマンだけの、あれを作りたい。苦みが残ってて、なんだか甘いやつ。
 よしくんはばかなの、と妻は訊く。よしくんというのはぼくのことである。ばかではない、とぼくは率直に述べる。少なくとも完全な無能ではない。ただ調理と味覚の連結にいささかの不備があるだけだ。きみは経験が不足している部下にもそんな物言いをするのか。
 申し訳なかった、と妻はこたえる。謝罪して訂正する。よしくんは決してばかではない。わたしは良くない冗談と嫌味を言った。わたしにとってはすごく単純なレシピだから。でもばかなんて言うべきじゃなかった。わたしが間違っていた。
 その件はもう終わりにしよう、とぼくは言う。そんなことよりピーマンだねと妻はこたえる。ピーマンだ、とぼくは諾う。まずピーマンひと袋のヘタを切り花落ちを軽く抉り、半分に割り、種とワタを手で掻いて、さらに半分、すなわち四分の一にする。妻は手振りつきで解説し、ぼくは右手を立てる。花落ちとは。妻も右手を立て、果実様の野菜には頭、いわゆるヘタと、反対側に花が咲いていたところがある、と説明する。包丁の刃の下で抉ると食感が良い。ここまではよろしいか。
 よろしい、とぼくはこたえる。ほんとうはどの程度を不可食部位とすべきか疑問が残っているが、それは個別具体的に調理者が判断する必要があるのだと考える。
 妻は満足そうにテレビをつけ、お気に入りの映画を再生しながら、早口で言う。あとは小さじ一杯程度の胡麻油を熱してジャーってやって焼き目がついたら、本返しと出汁いれて冷蔵庫。あるいは白だしでばーってやる。味が馴染んだら鰹節や生姜を載せてお召し上がりください。以上。
 ぼくは映画の再生を止める。妻はリモートコントローラを振って抗議の意をあらわす。ばーっとかジャーって、とぼくは主張する。そんな説明は手抜きだ。ぼくにはわからない。
 よろしい、と妻は言う。リモートコントローラで自分のこめかみを軽くたたき、言う。よしくんの調理能力は飛躍的に向上しているし、わたしのスーツの埃まで取ってくれてありがたいと思う。埃だけじゃない、とぼくは控えめにことばをはさむ。きみにはアイロンという概念がないし、ニットをタオルやなにかと一緒くたに洗ってすぐだめにする。それから、きみのネックレスのチェーンが絡むのは保存状態に問題があるからだ。なにより、スカートのしつけ糸を取らずに着てクリーニングに出して、取りに行ったぼくがどれほど恥ずかしかったか理解してほしい。クリーニングの水野さん、わざわざしつけ糸つきで返してくれたんだよ。新品をそのまま着ない潔癖な女性だと思って。そんなわけないのに。
 妻はリモートコントローラを三回振り、しつけ糸なんて、と大きな声を出す。それから口をとがらせ、ごめん、とつぶやく。
 ぼくは大きな声が嫌いだ。とくに女性の、甲高い声が。妻にそのことを話したのは一度きりなのに、よく覚えているものだ。黒っぽい色の服の埃は目立つから一度着たらブラシをかけるべきだという話は結婚してから十三回してるんだけど、それを覚えてないのは、まあいいんだ。ブラシなんかぼくがかければいいし、埃がついた服で仕事に行っても、たいしたことじゃない。ぼくは絶対にしないけど。
 ぼくは「なんともないですよ」という顔をする。「それはぼくの個人的な事情で、たまにきみの声が大きくなるのはぜんぜん悪いことじゃない」という顔をする。だってそうじゃないか。妻がちょっと声を荒げたくらいでびくびくするなんて、まったく不当なことじゃないか。ぼくはそのように自分に言い聞かせる。
 妻はばつの悪そうな顔でくちびるを噛んで(子どもみたいな癖だけど、ぼくは嫌いじゃない)、それから、熱いうちに、と言う。焼き目がついたら熱いうちに出汁につけるの。ほうれん草とか、葉物のおひたしとはそこがちがうんだ。焼きびたしっていう。
 冷めるあいだに味を浸透させる、とぼくは確認する。浸透させる、あと焼くときに油の香りをつける、と妻は言う。それから、すこし甘みをつける。出汁を使うなら、味つけは本返し。ほら、わたしが週末に作り置きしてるやつ。あれは醤油と味醂を煮切ったものなの。それがうちのごはんに出してる味だよ。
 すこしの甘み、とぼくは言う。すこしの甘み、と妻は言う。

義務と娯楽

 お疲れ、と言う。つかれた、と彼女は言う。教科書どおりの膝下の礼服を着て二重のパールのネックレスをさげ(一重でないのは弔事でなく慶事であるというコードのひとつだ)、よく見れば生け花としてはやや前衛的に配した生花を胸につけている。
 そのコサージュ、かっこいいね。生花みたいに見えるけど、ツヤ感からするとそうではないみたい。私が言うと、この世のコサージュは九割、だせえ、と彼女はつぶやく。でも式典でアクセサリーが足りないと「先生、もう少し華やかにしてくださいね」とか文句言われるじゃんか。慶弔両用の服だからよけいに。両方買いたくねえよ、だりい。しょうがないから自分で無難かつ許せるデザインで束ねたのを友だちに教わって加工したんだよ。この花はもう死んでる、完全に死んでる、生花に見えたらならマキノの目は相変わらず節穴だな、昔から、あんたは、目が悪い、生きてる花は汁とか出るし式典のあいだに萎れるじゃん、だから、固めるの。なんなら人間の死体だって水気をプラスティックに置き換えて保管できるんだよ、知ってる?
 私はその加工の手法を尋ね、彼女は生き生きと解説する。彼女の脱いだ上着が椅子の背から床に落ちそうだから私は勝手に店の人に預ける。今日は彼女の勤務する高校の卒業式である。謝恩会やパーティは別日程だから、彼女いわく「消化試合」だという式典のあと、私たちはコーヒーを飲んでいるのだった。
 どこへ出しても恥ずかしくない立派な装いですよと私は言う。でもあなたの職場にはあなたより服装のいいかげんな人だっているでしょうよ、芸高なんて芸術家の集まりなのだし。そう言うと彼女は鼻で笑い、いるに決まってる、とこたえる。ああ、いるさ、でも彼らには権力があるんだ、権力か、または実績が。わたしにはない、あるいは足りない、だからわたしはコードを遵守してわたしの絵を描く時間と場所をもらうんだ。それしかわたしのできることはないんだ。
 彼女は高校生の時分に私の高校の近所の高校にいた。近隣の合唱部で集まって年に何度か合同練習をしていた。私は陸上部から駆り出された助っ人で(陸上部とサッカー部は足が強く、脚力と声量はおおむね比例するために、多少なりとも音程が取れる者はだいたい合唱コンクールに駆り出される)、彼女の高校はホールが広いから何度か合同練習に行った。
 私たちは公立高校ばかり集まったエリアにいて、彼女が属していたのは芸術系の高校だった。ホールが広いのも当然だ。彼女はそのころから絵描きだった。だから歌わない。ステージコーディネートに駆り出されてつまらなそうな顔をしてザーッと舞台をととのえ、でも袖で歌ってくれと頼んだら私よりはるかに上手かった。当たり前だよと彼女は言った。わたし、マキノのとことか、駅前の男子校みたく、模試でいい点とるんじゃないからさあ。
 私は彼女をだから、立派な人間だと思う。ちょっと意味がわからないくらい絵を描けて(ほんとうに見たらなんでも描けるのだ、なんでも)、立体造形もいけて、絵を教えるのもうまくて、学生時代あれだけ呑んだくれてたのに美術の教員免許だって取ったし、高校生の時分から今の今まで「あさ起きるのだるい」って言ってるのに毎日高校に出勤しているのだ。本質的にはぼろいジャージ着て猫背で口開けてぼけっとしていたい人なのに、こんな、顔に粉を塗って、まっとうな社会人みたいなふりして。
 疲れたね、と私は言う。学期末、ちゃんとした人のふりをして、疲れたよね。疲れたよお、と彼女はこたえ、それから、しょうがないからさあ、とつぶやく。
 彼女は「実家から通えるし学費が安い」という理由で国立の芸術大学に入り、「みんなの言うことがむつかしい。あと年上ばかりだ」という理由でときどき私に愚痴を言いに来て、今では高校の美術準備室を占拠して、私に展覧会のチケットをくれるけれども、「きちんとする」のが嫌いなのは高校生の時分から変わっていない。
 彼女は付け襟をがばりと外す。背中からなにかを引き出す。畳石めいた青の四角、あいだには青白いバロックパール。それらが支えるのはコサージュの中央の花によく似た繊細で複雑な白の造形、刀の影の残る彫刻だ。彼女の「きちんとしなければならない」象徴としての本真珠のネックレスは二重を解かれ、長く下がってその脇役におさまる。私はため息をつく。いいね。その花の彫刻はなあに。真珠母貝のばかでかいやつを彫ったんだ、と彼女はこたえる。義務があるなら義務の中でで遊ぶんだ、わたしはそのうちこれをコサージュだと言い張って使うよ。さあ、遊びに行こう。

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彼女の失敗した結婚

 わたしの結婚はねえ、と彼女は言った。失敗だったわよ。なくてもよかったものだったのよ。仕事だってそう。わたしはちょっと美容院をやって景気のいいときに土地を転がしただけよ。かれはかれにしかできない仕事をしたから、わたしよりはましね、でもたいして変わらない。

 彼女はそのように言う。そのように言う人がもしも中年以下であれば、私は返答を検討せざるを得ないし、どうかすると不快に感じたかもしれない。けれども彼女は七十で、ひどく陽気で安定していて、だから私は、そうですかと軽く頷くことができるのだった。どのような反応をしても、それが正直なものであれば、彼女が気を悪くすることはない。隠蔽と追唱を彼女は憎み、その気配を敏感に嗅ぎつける。

 彼女は背筋の伸びた、顔の小さい元バレーボール選手で、染めていない髪をいつ会っても同じ軽くカールしたショートカットに整え、三十歳年下の私と同じだけの食事をぺろりと平らげる。容赦なく甘く風味の濃い欧州菓子を手土産にすると喜び、店の名をメモに書き留める。新幹線に乗ると満面の笑みで缶ビールをあける。そんなはずはないのにまるで苦労や苦悩と縁がないみたいに歪みのない笑いかたをする。いかにも昔の山の手の生まれの、ほの甘く切れのいい女言葉を遣う。

 彼女の「かれ」は彼女の七つ年嵩の夫で、ひところは有名な舞台俳優だった。あちらこちらの劇場をいっぱいにしてときどき映画の端役をやり、コマーシャルに出ながら自分が出ないコンテを持っていった。演出家とコピーライター兼ショートフィルム監督としての芸名のほうが知られている。

 彼女はテレビ局のヘアメイクをしていた時分に未来の夫と出会い、三ヶ月で結婚した。誰でもよかった、と彼女は言う。とにかく結婚しろという時代だったから、お見合いをして、そうしたらあしんな生意気な女はいやだと三人に断られて、困ったなあと思って、そうしたらあの人がいて、だからねえ。

 ふたりは五十年ちかく、揃ってよく喋る長身の端正な夫婦であり、彼女はそれを完全な失敗だという。理由は子がいないこと、それから自分が夫なしには生きられないことがなかったためだと、そのように言う。だって、わたしたちが結婚しなければ生み出せなかったものは、この世にないのよ。それが失敗でなくてなんでしょう。

 ねえ、サヤカちゃん。わたしはたぶんかれの恋人であるべきだったのよ。子がなくてたがいに生活に困らないなら恋人でいいでしょうに。そうじゃないかしら、そうだと思うわ、理屈でいえば、そうでしょう、ねえ。わたし、ほかに好きなひとがいたこともあったのよ。かれもそうだわ、女好きだもの、ねえ、サヤカちゃんのことだって、もしもいま五十かそこいらなら口説いていたというのよ、ありゃあ話のできる、ちょいといい女じゃあないか、ってね。ほんとうよ。娘みたいな年齢だからその気にならなかったのですって。どうせ相手にされないのにねえ。

 かれは家事が下手だけど、そんなのはプロを雇えばよかったし、実際にわたしたちは一時期そうしていた。ついこないだだって、わたし、かれを置いて二週間旅行したの。ええ、イギリスにね、田舎のほう。ええ、ひとりで。今は飛行機が安いし、レンタカーもあるでしょう。わたし運転が好きなの。あら、たいしたことじゃないのよ。道なんてどの国でもたいして変わりゃしないわよ。これ、お土産。サヤカちゃんはあのあたりのウィスキーを好きでしょう。

 ねえ、サヤカちゃん。わたしたちの結婚は完全な失敗だわ。でもねえ、かれは足を折ったの。ええ、たいした事故じゃないのよ。まったく、耄碌しちゃって、だめねえ、わたしも、あの人も。歳だからすぐに治らない。わたし、介護というやつをしているの。もしかしたらわたし、今になってようやく、結婚した甲斐があったのかもしれないわね。

 恋人なら介護をしませんかと私は尋ねる。まさかあ、と彼女は笑う。波うつ白髪、寄せては返す笑い皺、骨ばった長い手足、パールグレイのアイシャドウ、正確に縁どられた薄い上唇、それを隠すように曲がる細工物めいた指たち。ご結婚はたしかに失敗ですよと私は言う。結婚という名前が、たぶんお気に召していないのでしょう。お二人の関係なのに、お二人の気にいる名前がついていないから。別の名前をつけたら大成功ですよ。なにかこう、すてきな名前をつけましょう。たとえば外国のお菓子みたいな名前を。

人格の責任

 名家というのが今どきあるかは知らないけれども、歴史と伝統と家業と土地と財産のある家なら知っている。知っているというか、わたしのクライアントに複数そういう家がある。わたしは出入りの業者のようなもので、ただしその出入りは不定期だ。
 本家だの分家だのというのはもちろん呼び名にすぎないが、本家はとにかく威張っている。威張り方が小物のそれではない。威張り慣れている。わたしは威張っている人間はだいたい嫌いだが、いま仕事をしている本家の長男はとくに嫌いだ。その道では有名な人物で、仕事はできる。しかし、どんな相手だろうが、そこいらの虫みたいに扱われてうれしい者はいない。いや、指示(であるべきなのだが、彼の場合は命令、なんならご下命)はするので、虫というより道具だろう。わたしの家のルンバのほうがまだ身分が高い。
 うちのルンバは型落ちで投げ売りされていた安物で、価格のためかそれとも長く店頭にあって古いからか、かしこくない。わたしの家族は「うちのばかなロボット」と呼んでいる。ここから先は掃除に行ってはいけませんよという指示を出すことができるのだけれども、うちのばかなロボットは平気でそれを踏み越える。そうしてその先の段差に落ちてなさけないエラー音を出す。帰宅するとときどき玄関に落ちていて、そのさまはあわれをさそう。可愛い。
 わたしはそのクライアントにとって、ルンバのようなものでさえなく、棍棒とかに近いと思う。いくらでも代わりのきくもの。もちろん職というのは取り替えの利くものでなければならないのだけれども、そのクライアントはおそらく、自分はこの世に唯一無二だと思っている。そうして世の中の大部分の人間はそうではないと。そこには厳然とした階級があり、階級は細かくわけられ、「下々の者」はだいたいひとまとまりになっている、それくらい自分は雲の上の存在であるのだと。
 それは腹がたつねえ、と友人が言う。りくつで考えれば人間のあいだに階級があるわけないじゃん。まして現代日本だよ。そいつはなんなの、思考する能力が足りないの。能力は足りている、とわたしはこたえる。なにしろ次期当主さまだから、連綿と受け継がれた伝統的な仕事をする能力がなければあの家でも引きずり下ろされている。
 でもねえ、とわたしは言う。次男以下と女はいろいろなの。いやなやつもいるし、いい人もいる。長男だけがおなじ。先代もそうだったし、別の家の当主もおんなじような性格。長男だけがこんなにも同じ性格になるのは、それなりの理由があるとわたしは思う。
 人格における先天性の要因と環境要因の割合は永遠の議論の的で、わたしたちが生きているうちに結論が出ることはないんだけど、わたしは、環境、でかいなって思う。とくに極端な環境。わたしが見てるのは、当主は絶対、長男は次の当主、次男以下の男はスペア、女は嫁にやるもの、家業は尊いもの、お金と権力ととりまきが大量に存在するっていう特殊な家庭環境なんだけど、そうしたら、長男が同じ人格になるんだよねえ。
 そういうの見てると、この人がこんなに傲岸な差別者になったのはこの人だけのせいかなあって、思う。わたしが男で、名家とやらの生まれで、家業を継ぐプレッシャとそれ以外の面での甘やかしを空気みたいに吸って育ったら、こうなっていたのじゃないかって。犯罪者の責任を考えることに似ているなあ、と友人はつぶやき、わたしはその飛躍に少しおどろく。
 自宅に帰ると小学生の息子が珍しくまだ起きていて、言う。ママ、今日ルンバが自分で電気のところに行ったんだよ。はじめてじゃない?はじめてだと思う、とわたしはこたえる。すごいね、うちのロボット成長したね。息子は大人ぶって腕を組み、それからもっと大人みたいな顔になって、わたしに告げ口をする。だからパパがルンバをうんと褒めてきれいにしてたよ、ベランダで。
 そうか、とわたしは思う。わたしの花粉症がひどいから夫は部屋の中では分解をしなかった。それに夫もわたしたちのばかなロボットを可愛がっている。
 わたしの夫は、苦労をしなかったのではない。しなくてもいい苦労をやけにたくさん経験した。夫が子どもの前で愚かなロボットが正常に動作したことを褒めそやし、花粉症がひどい家族のために掃除機のメンテナンスもベランダでしてくれるのは、夫がやさしいからだ。それは誰のおかげだろう。夫が若いころに夫をひどい目に遭わせた人のおかげだろうか。きっと、そうなのだ、とわたしは思う。きっと、そうでもあって、そして、でもわたしたちは、愛する人を虐げた連中をいくらでも憎んでかまわないのだ、と思う。

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愛がなくては住むところもない

 また拾ったの。私のその発言は質問ではない。確認だ。友人が相続した細長い建物の、その一階は元工場で、いまの季節は事務室だった空間に灯油ストーブを常時稼働させてようやく適温になる。居住性が高いとはいえない。その一階に友人が布団を出して寝泊まりしているときは、誰かが二階に住んでいる。またっていうほどじゃない、と友人はこたえる。たまにだよ、こないだから何年も経ってるよ。

 二度も三度も拾えばじゅうぶん「また」だと思う。犬や猫じゃないのだ。人を拾う人間はそんなにいない。けれども私は彼女のそのようなふるまいを嫌いではない。「よぶんな部屋があって、住むところがない人がいるから、住んでもよい」という動機の、その単純さが、なんだか好きなのだ。考えてみればどうして自宅に赤の他人を置いてはいけないのか。どうして人が人を拾ってはいけないのか。

 もちろん人は犬や猫じゃない、と彼女は言う。人のほうがここにいる時間がずっと短い。人は散歩させたりしなくていいし、そのうちお金をためたりして、よそに住処を見つける。もっといたっていいのに、半年や一年で出て行く。何か悪いことがあったらわたしの責任で、だから住まわせた相手が突然キレてわたしの後頭部を鈍器で殴ったりしてもまあしょうがないかなと思ってたんだけど、今のところ、悪いことはない。お礼をされたことはある。

 人間は意外と突然キレて鈍器で頭部を殴ったりしない、と私は言う。意外と、と彼女はこたえる。いま二階を使っているのは私たちと同世代の中年女性だという。困っていれば誰でも住まわせるわけじゃないでしょ、どういう基準で選ぶの。そう訊くと、なんとなく、と彼女はこたえる。嫌いなやつは家に入れないし、好きならいいわけじゃないし、なんとなく決める。とくに意味とかはない。

 ないけど、と彼女は言う。家、借りるの、実はこまかい条件があるよね。具体的に言うと、昔は親族の保証人が必須で、今は保証会社があるけど、緊急連絡先は親族じゃなきゃいけない。親兄弟がいない単身者、あるいは事情があって配偶者や親族から逃げている人がいたとしようか。続柄「知人」にしか助けてもらえない人。見たことない?けっこういるよ。そこいらにいる。

 そういう人は自分が借りられるレアな物件を探す気力と知恵、何よりカネがないと、住むところを手に入れることができない。わたしは親からもらった一軒家に住んで固定資産税と修繕費しか要らないし、養う子どももいないから、誰かが住んだらいいんだと思う。昔は近所の人に親戚が来てるって嘘つく必要があったけど、今はない。隣のおばあちゃんは「はやりのシャーハースでしょ」って言う。発音が良いのか入れ歯の具合が悪いのかわからない。

 わたしは、親がまだ元気だし、兄もいる。だから独身でも不自由はない。だけど、親族が早死にしたりろくでなしだったりして持ち家がなければ住むところに困る。そんなの、おかしいでしょう。法制度に乗っかった親子愛と異性愛を得ないと罰金です、みたいな話じゃん。どう考えてもまともじゃない。でもそうなってる。多くの人が意識しないのは親族のない人について想像したことがないか、「努力すればいい」と思っているから。そりゃ努力して財力と知恵をつければ住むところくらい手に入る。でもなんで特定の属性の人だけよぶんな努力やお金を投じなきゃいけないんだ。何の罰金だよ。

 わかってる。マイノリティには見えないかたちで罰金みたいなものが課されるっていうのはよくわかってる。その罰金が高すぎるから、わたしは、身近に住むところのない人がいたらわたしの家に住めばいいと思うのかもしれない。最近では法律婚が認められていないカップルをターゲットにした賃貸物件や生活保護世帯の受け入れをビジネスの一環にしている物件もある。ある人たちが困っていることが認識されれば、商売の種にもなって、不均衡なりに抜け穴ができる。でもどうして彼ら、たとえば同性カップルは賃貸マンションを探すのがたいへんだってことがあきらかになったんだと思う?そして誰がまだ「気づかれない」「努力すればいい」ゾーンにいるんだと思う?

 困っている人って、堂々とそこいらを歩いて「こういうことで困っている」と言えるようになって、それからみんなが「そうか」と認識するものなんだよ。でも、親子愛か異性愛が必須です、両方あるのが標準です、それ以外の状況は想定してません、みたいな世の中だと、堂々と歩いて声を出す前に力尽きちゃう。石を投げられるのはひどいことだけど、見えないようにされるのも、同じくらいにひどいことだよ。

愛と希望が救えないこと

 わたしは愛と希望で満たされている、のだそうだ。たぶん息子ふたり、夫(むかしは恋人)、あと両親と妹を指しているんだと思う。あるいは仕事があるという意味かもしれない。

 今、ぜんぶ、どうでもいい。

 わたしたち夫婦はどちらかになにかあっても子を育てられると思っている。そうでなければ結婚しない。一生恋人をやっていればいい。でもわたしはもう夫に恋をしていない。ほかの誰かに恋をするつもりもない。恋は強烈に「生きてる」感を与えるけどわりとすぐ消える。まったく永遠ではない。夫を信頼しているし、信頼されていると思う。けれども信頼は気力のブースターとしては出力が低い。そのうえ他人だから苛つくこともある。当たり前だ。

 子は命だというのはかなり嘘だ。わたしは息子たちになにかあったらあやういけど息子たちはわたしがいなくてもどうにかなる。だいたいもう小学生だ。いちばんたいへんな時期は終わった。彼らは自分で着替えるし歯磨きなんかもする。冷蔵庫の中の作り置きをレンジで温めるし、わたしのわからないゲームの話もする。ほとんど一人前だ。

 わたしの両親と妹は都内に住んでいて、子育て世帯の叫びたくなるような不自由を毎月のように緩和してくれている。それでわたしや夫になんの要求もしない。夫の両親は地方にいて、これまたなんの要求もしない。子どもの写真を大きくプリントして送り、夏休みや年末に家族で夫の実家に行くだけでたいそう喜ぶ。みんな腰が痛いだの血圧が高いだの低いだの言いながらしっかりしていて、わたしが心配する必要はない。

 だから今のわたしに安全装置はない。わたしはすごく疲れた。息しかしていない。寝て起きて夕飯の仕込みと洗濯をして(片付けと掃除は夫がする)息子たちに朝食を食べさせて送りだし、出勤し、帰り、息子たちと夕食をともにし、ときどきそれを夫に任せて残業し、寝ている。それで息しかしていないように感じる。愛していても。愛されていても。望んだことをしていても。大きな不幸や抑圧がなくても。

 わたしは、疲れた。ネットスーパーと全自動洗濯乾燥機と学童保育と学習塾をフルに使って、疲れた。夫はロボット掃除機と食器洗浄機を使って疲れているだろうか。それを尋ねる気にはなれない。会話はあるのに。仲も良いのに。

 眠りが途切れてリビングルームに行くとそこは水槽の表面のようで、わたしは、しばらく立っていれば、床が罅割れて溺れることができるんじゃないかと思う。作為には至らない。だから健康なのだと思う。少なくとも病気ではない。わたしは、すごく疲れた。

 そりゃそうだよと友人は言う。私たち、愛とか希望とかで生きてるんじゃないもん。生まれたから生きてるんだもん。忘れたの、思春期に結論出たじゃない。過去の資産を今、引き出して使おうよ。けっこう利子ついてるよ。たぶん複利だよ。

 私たちは定期的に生きてるのめんどくさくてしょうがなくなるし、あなたの結婚相手やご両親や妹さんもそうかもしれない。子どもによっては今の息子さんたちくらいから気配を感じはじめる。なんで生きてるのかなっていう、あのおなじみの疑問の。生きることが目的だから生きる意味はなくて、生き延びちゃったあと気が抜けたら、もうひたすらめんどくさい。

 あのさ、屋根のあるところで寝て起きてごはん食べてるってかなりすごいことだよ。ぜったい疲れる。みんな当たり前みたいな顔して、なんなら働いたり子ども育てたりまでしてるけど、疲れてないわけがない。愛も希望も関係ない。愛は地球もあなたも救わない。とりあえず休みなよ。

 そうか、とわたしはこたえる。そうだったね。わたしたち昔、なんで死なないのかみたいな話、よくしたよね。友人はスマートフォンの向こうで笑う。そもそも、人が愛と希望で生きてるんなら私あなたの半分も生きてないよ。なあに、半分って。えっと、小学生ふたりぶん。

 間の抜けたやりとりをして、わたしもすこし笑う。それから本音の半分をこぼす。家出しようかな。しろしろと無責任に友人は言う。半年くらいならうちにいてもいいと言う。口調は冗談だけれど、行けばほんとうに置いてくれるだろう。死ななきゃなんでもいいよと、手の中の機械が言う。古い友人の声で言う。ちがう。過去のわたしの、気難しい十六歳の声で、言う。死ななければそれでいいと決めたのだった。だからわたしは本音の残り半分をしっかりつかんで閉じこめる。