傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女の失敗した結婚

 わたしの結婚はねえ、と彼女は言った。失敗だったわよ。なくてもよかったものだったのよ。仕事だってそう。わたしはちょっと美容院をやって景気のいいときに土地を転がしただけよ。かれはかれにしかできない仕事をしたから、わたしよりはましね、でもたいして変わらない。

 彼女はそのように言う。そのように言う人がもしも中年以下であれば、私は返答を検討せざるを得ないし、どうかすると不快に感じたかもしれない。けれども彼女は七十で、ひどく陽気で安定していて、だから私は、そうですかと軽く頷くことができるのだった。どのような反応をしても、それが正直なものであれば、彼女が気を悪くすることはない。隠蔽と追唱を彼女は憎み、その気配を敏感に嗅ぎつける。

 彼女は背筋の伸びた、顔の小さい元バレーボール選手で、染めていない髪をいつ会っても同じ軽くカールしたショートカットに整え、三十歳年下の私と同じだけの食事をぺろりと平らげる。容赦なく甘く風味の濃い欧州菓子を手土産にすると喜び、店の名をメモに書き留める。新幹線に乗ると満面の笑みで缶ビールをあける。そんなはずはないのにまるで苦労や苦悩と縁がないみたいに歪みのない笑いかたをする。いかにも昔の山の手の生まれの、ほの甘く切れのいい女言葉を遣う。

 彼女の「かれ」は彼女の七つ年嵩の夫で、ひところは有名な舞台俳優だった。あちらこちらの劇場をいっぱいにしてときどき映画の端役をやり、コマーシャルに出ながら自分が出ないコンテを持っていった。演出家とコピーライター兼ショートフィルム監督としての芸名のほうが知られている。

 彼女はテレビ局のヘアメイクをしていた時分に未来の夫と出会い、三ヶ月で結婚した。誰でもよかった、と彼女は言う。とにかく結婚しろという時代だったから、お見合いをして、そうしたらあんな生意気な女はいやだと三人に断られて、困ったなあと思って、そうしたらあの人がいて、だからねえ。

 ふたりは五十年ちかく、揃ってよく喋る長身の端正な夫婦であり、彼女はそれを完全な失敗だという。理由は子がいないこと、それから自分が夫なしには生きられないことがなかったためだと、そのように言う。だって、わたしたちが結婚しなければ生み出せなかったものは、この世にないのよ。それが失敗でなくてなんでしょう。

 ねえ、サヤカちゃん。わたしはたぶんかれの恋人であるべきだったのよ。子がなくてたがいに生活に困らないなら恋人でいいでしょうに。そうじゃないかしら、そうだと思うわ、理屈でいえば、そうでしょう、ねえ。わたし、ほかに好きなひとがいたこともあったのよ。かれもそうだわ、女好きだもの、ねえ、サヤカちゃんのことだって、もしもいま五十かそこいらなら口説いていたというのよ、ありゃあ話のできる、ちょいといい女じゃあないか、ってね。ほんとうよ。娘みたいな年齢だからその気にならなかったのですって。どうせ相手にされないのにねえ。

 かれは家事が下手だけど、そんなのはプロを雇えばよかったし、実際にわたしたちは一時期そうしていた。ついこないだだって、わたし、かれを置いて二週間旅行したの。ええ、イギリスにね、田舎のほう。ええ、ひとりで。今は飛行機が安いし、レンタカーもあるでしょう。わたし運転が好きなの。あら、たいしたことじゃないのよ。道なんてどの国でもたいして変わりゃしないわよ。これ、お土産。サヤカちゃんはあのあたりのウィスキーを好きでしょう。

 ねえ、サヤカちゃん。わたしたちの結婚は完全な失敗だわ。でもねえ、かれは足を折ったの。ええ、たいした事故じゃないのよ。まったく、耄碌しちゃって、だめねえ、わたしも、あの人も。歳だからすぐに治らない。わたし、介護というやつをしているの。もしかしたらわたし、今になってようやく、結婚した甲斐があったのかもしれないわね。

 恋人なら介護をしませんかと私は尋ねる。まさかあ、と彼女は笑う。波うつ白髪、寄せては返す笑い皺、骨ばった長い手足、パールグレイのアイシャドウ、正確に縁どられた薄い上唇、それを隠すように曲がる細工物めいた指たち。ご結婚はたしかに失敗ですよと私は言う。結婚という名前が、たぶんお気に召していないのでしょう。お二人の関係なのに、お二人の気にいる名前がついていないから。別の名前をつけたら大成功ですよ。なにかこう、すてきな名前をつけましょう。たとえば外国のお菓子みたいな名前を。

人格の責任

 名家というのが今どきあるかは知らないけれども、歴史と伝統と家業と土地と財産のある家なら知っている。知っているというか、わたしのクライアントに複数そういう家がある。わたしは出入りの業者のようなもので、ただしその出入りは不定期だ。
 本家だの分家だのというのはもちろん呼び名にすぎないが、本家はとにかく威張っている。威張り方が小物のそれではない。威張り慣れている。わたしは威張っている人間はだいたい嫌いだが、いま仕事をしている本家の長男はとくに嫌いだ。その道では有名な人物で、仕事はできる。しかし、どんな相手だろうが、そこいらの虫みたいに扱われてうれしい者はいない。いや、指示(であるべきなのだが、彼の場合は命令、なんならご下命)はするので、虫というより道具だろう。わたしの家のルンバのほうがまだ身分が高い。
 うちのルンバは型落ちで投げ売りされていた安物で、価格のためかそれとも長く店頭にあって古いからか、かしこくない。わたしの家族は「うちのばかなロボット」と呼んでいる。ここから先は掃除に行ってはいけませんよという指示を出すことができるのだけれども、うちのばかなロボットは平気でそれを踏み越える。そうしてその先の段差に落ちてなさけないエラー音を出す。帰宅するとときどき玄関に落ちていて、そのさまはあわれをさそう。可愛い。
 わたしはそのクライアントにとって、ルンバのようなものでさえなく、棍棒とかに近いと思う。いくらでも代わりのきくもの。もちろん職というのは取り替えの利くものでなければならないのだけれども、そのクライアントはおそらく、自分はこの世に唯一無二だと思っている。そうして世の中の大部分の人間はそうではないと。そこには厳然とした階級があり、階級は細かくわけられ、「下々の者」はだいたいひとまとまりになっている、それくらい自分は雲の上の存在であるのだと。
 それは腹がたつねえ、と友人が言う。りくつで考えれば人間のあいだに階級があるわけないじゃん。まして現代日本だよ。そいつはなんなの、思考する能力が足りないの。能力は足りている、とわたしはこたえる。なにしろ次期当主さまだから、連綿と受け継がれた伝統的な仕事をする能力がなければあの家でも引きずり下ろされている。
 でもねえ、とわたしは言う。次男以下と女はいろいろなの。いやなやつもいるし、いい人もいる。長男だけがおなじ。先代もそうだったし、別の家の当主もおんなじような性格。長男だけがこんなにも同じ性格になるのは、それなりの理由があるとわたしは思う。
 人格における先天性の要因と環境要因の割合は永遠の議論の的で、わたしたちが生きているうちに結論が出ることはないんだけど、わたしは、環境、でかいなって思う。とくに極端な環境。わたしが見てるのは、当主は絶対、長男は次の当主、次男以下の男はスペア、女は嫁にやるもの、家業は尊いもの、お金と権力ととりまきが大量に存在するっていう特殊な家庭環境なんだけど、そうしたら、長男が同じ人格になるんだよねえ。
 そういうの見てると、この人がこんなに傲岸な差別者になったのはこの人だけのせいかなあって、思う。わたしが男で、名家とやらの生まれで、家業を継ぐプレッシャとそれ以外の面での甘やかしを空気みたいに吸って育ったら、こうなっていたのじゃないかって。犯罪者の責任を考えることに似ているなあ、と友人はつぶやき、わたしはその飛躍に少しおどろく。
 自宅に帰ると小学生の息子が珍しくまだ起きていて、言う。ママ、今日ルンバが自分で電気のところに行ったんだよ。はじめてじゃない?はじめてだと思う、とわたしはこたえる。すごいね、うちのロボット成長したね。息子は大人ぶって腕を組み、それからもっと大人みたいな顔になって、わたしに告げ口をする。だからパパがルンバをうんと褒めてきれいにしてたよ、ベランダで。
 そうか、とわたしは思う。わたしの花粉症がひどいから夫は部屋の中では分解をしなかった。それに夫もわたしたちのばかなロボットを可愛がっている。
 わたしの夫は、苦労をしなかったのではない。しなくてもいい苦労をやけにたくさん経験した。夫が子どもの前で愚かなロボットが正常に動作したことを褒めそやし、花粉症がひどい家族のために掃除機のメンテナンスもベランダでしてくれるのは、夫がやさしいからだ。それは誰のおかげだろう。夫が若いころに夫をひどい目に遭わせた人のおかげだろうか。きっと、そうなのだ、とわたしは思う。きっと、そうでもあって、そして、でもわたしたちは、愛する人を虐げた連中をいくらでも憎んでかまわないのだ、と思う。

愛がなくては住むところもない

 また拾ったの。私のその発言は質問ではない。確認だ。友人が相続した細長い建物の、その一階は元工場で、いまの季節は事務室だった空間に灯油ストーブを常時稼働させてようやく適温になる。居住性が高いとはいえない。その一階に友人が布団を出して寝泊まりしているときは、誰かが二階に住んでいる。またっていうほどじゃない、と友人はこたえる。たまにだよ、こないだから何年も経ってるよ。

 二度も三度も拾えばじゅうぶん「また」だと思う。犬や猫じゃないのだ。人を拾う人間はそんなにいない。けれども私は彼女のそのようなふるまいを嫌いではない。「よぶんな部屋があって、住むところがない人がいるから、住んでもよい」という動機の、その単純さが、なんだか好きなのだ。考えてみればどうして自宅に赤の他人を置いてはいけないのか。どうして人が人を拾ってはいけないのか。

 もちろん人は犬や猫じゃない、と彼女は言う。人のほうがここにいる時間がずっと短い。人は散歩させたりしなくていいし、そのうちお金をためたりして、よそに住処を見つける。もっといたっていいのに、半年や一年で出て行く。何か悪いことがあったらわたしの責任で、だから住まわせた相手が突然キレてわたしの後頭部を鈍器で殴ったりしてもまあしょうがないかなと思ってたんだけど、今のところ、悪いことはない。お礼をされたことはある。

 人間は意外と突然キレて鈍器で頭部を殴ったりしない、と私は言う。意外と、と彼女はこたえる。いま二階を使っているのは私たちと同世代の中年女性だという。困っていれば誰でも住まわせるわけじゃないでしょ、どういう基準で選ぶの。そう訊くと、なんとなく、と彼女はこたえる。嫌いなやつは家に入れないし、好きならいいわけじゃないし、なんとなく決める。とくに意味とかはない。

 ないけど、と彼女は言う。家、借りるの、実はこまかい条件があるよね。具体的に言うと、昔は親族の保証人が必須で、今は保証会社があるけど、緊急連絡先は親族じゃなきゃいけない。親兄弟がいない単身者、あるいは事情があって配偶者や親族から逃げている人がいたとしようか。続柄「知人」にしか助けてもらえない人。見たことない?けっこういるよ。そこいらにいる。

 そういう人は自分が借りられるレアな物件を探す気力と知恵、何よりカネがないと、住むところを手に入れることができない。わたしは親からもらった一軒家に住んで固定資産税と修繕費しか要らないし、養う子どももいないから、誰かが住んだらいいんだと思う。昔は近所の人に親戚が来てるって嘘つく必要があったけど、今はない。隣のおばあちゃんは「はやりのシャーハースでしょ」って言う。発音が良いのか入れ歯の具合が悪いのかわからない。

 わたしは、親がまだ元気だし、兄もいる。だから独身でも不自由はない。だけど、親族が早死にしたりろくでなしだったりして持ち家がなければ住むところに困る。そんなの、おかしいでしょう。法制度に乗っかった親子愛と異性愛を得ないと罰金です、みたいな話じゃん。どう考えてもまともじゃない。でもそうなってる。多くの人が意識しないのは親族のない人について想像したことがないか、「努力すればいい」と思っているから。そりゃ努力して財力と知恵をつければ住むところくらい手に入る。でもなんで特定の属性の人だけよぶんな努力やお金を投じなきゃいけないんだ。何の罰金だよ。

 わかってる。マイノリティには見えないかたちで罰金みたいなものが課されるっていうのはよくわかってる。その罰金が高すぎるから、わたしは、身近に住むところのない人がいたらわたしの家に住めばいいと思うのかもしれない。最近では法律婚が認められていないカップルをターゲットにした賃貸物件や生活保護世帯の受け入れをビジネスの一環にしている物件もある。ある人たちが困っていることが認識されれば、商売の種にもなって、不均衡なりに抜け穴ができる。でもどうして彼ら、たとえば同性カップルは賃貸マンションを探すのがたいへんだってことがあきらかになったんだと思う?そして誰がまだ「気づかれない」「努力すればいい」ゾーンにいるんだと思う?

 困っている人って、堂々とそこいらを歩いて「こういうことで困っている」と言えるようになって、それからみんなが「そうか」と認識するものなんだよ。でも、親子愛か異性愛が必須です、両方あるのが標準です、それ以外の状況は想定してません、みたいな世の中だと、堂々と歩いて声を出す前に力尽きちゃう。石を投げられるのはひどいことだけど、見えないようにされるのも、同じくらいにひどいことだよ。

愛と希望が救えないこと

 わたしは愛と希望で満たされている、のだそうだ。たぶん息子ふたり、夫(むかしは恋人)、あと両親と妹を指しているんだと思う。あるいは仕事があるという意味かもしれない。

 今、ぜんぶ、どうでもいい。

 わたしたち夫婦はどちらかになにかあっても子を育てられると思っている。そうでなければ結婚しない。一生恋人をやっていればいい。でもわたしはもう夫に恋をしていない。ほかの誰かに恋をするつもりもない。恋は強烈に「生きてる」感を与えるけどわりとすぐ消える。まったく永遠ではない。夫を信頼しているし、信頼されていると思う。けれども信頼は気力のブースターとしては出力が低い。そのうえ他人だから苛つくこともある。当たり前だ。

 子は命だというのはかなり嘘だ。わたしは息子たちになにかあったらあやういけど息子たちはわたしがいなくてもどうにかなる。だいたいもう小学生だ。いちばんたいへんな時期は終わった。彼らは自分で着替えるし歯磨きなんかもする。冷蔵庫の中の作り置きをレンジで温めるし、わたしのわからないゲームの話もする。ほとんど一人前だ。

 わたしの両親と妹は都内に住んでいて、子育て世帯の叫びたくなるような不自由を毎月のように緩和してくれている。それでわたしや夫になんの要求もしない。夫の両親は地方にいて、これまたなんの要求もしない。子どもの写真を大きくプリントして送り、夏休みや年末に家族で夫の実家に行くだけでたいそう喜ぶ。みんな腰が痛いだの血圧が高いだの低いだの言いながらしっかりしていて、わたしが心配する必要はない。

 だから今のわたしに安全装置はない。わたしはすごく疲れた。息しかしていない。寝て起きて夕飯の仕込みと洗濯をして(片付けと掃除は夫がする)息子たちに朝食を食べさせて送りだし、出勤し、帰り、息子たちと夕食をともにし、ときどきそれを夫に任せて残業し、寝ている。それで息しかしていないように感じる。愛していても。愛されていても。望んだことをしていても。大きな不幸や抑圧がなくても。

 わたしは、疲れた。ネットスーパーと全自動洗濯乾燥機と学童保育と学習塾をフルに使って、疲れた。夫はロボット掃除機と食器洗浄機を使って疲れているだろうか。それを尋ねる気にはなれない。会話はあるのに。仲も良いのに。

 眠りが途切れてリビングルームに行くとそこは水槽の表面のようで、わたしは、しばらく立っていれば、床が罅割れて溺れることができるんじゃないかと思う。作為には至らない。だから健康なのだと思う。少なくとも病気ではない。わたしは、すごく疲れた。

 そりゃそうだよと友人は言う。私たち、愛とか希望とかで生きてるんじゃないもん。生まれたから生きてるんだもん。忘れたの、思春期に結論出たじゃない。過去の資産を今、引き出して使おうよ。けっこう利子ついてるよ。たぶん複利だよ。

 私たちは定期的に生きてるのめんどくさくてしょうがなくなるし、あなたの結婚相手やご両親や妹さんもそうかもしれない。子どもによっては今の息子さんたちくらいから気配を感じはじめる。なんで生きてるのかなっていう、あのおなじみの疑問の。生きることが目的だから生きる意味はなくて、生き延びちゃったあと気が抜けたら、もうひたすらめんどくさい。

 あのさ、屋根のあるところで寝て起きてごはん食べてるってかなりすごいことだよ。ぜったい疲れる。みんな当たり前みたいな顔して、なんなら働いたり子ども育てたりまでしてるけど、疲れてないわけがない。愛も希望も関係ない。愛は地球もあなたも救わない。とりあえず休みなよ。

 そうか、とわたしはこたえる。そうだったね。わたしたち昔、なんで死なないのかみたいな話、よくしたよね。友人はスマートフォンの向こうで笑う。そもそも、人が愛と希望で生きてるんなら私あなたの半分も生きてないよ。なあに、半分って。えっと、小学生ふたりぶん。

 間の抜けたやりとりをして、わたしもすこし笑う。それから本音の半分をこぼす。家出しようかな。しろしろと無責任に友人は言う。半年くらいならうちにいてもいいと言う。口調は冗談だけれど、行けばほんとうに置いてくれるだろう。死ななきゃなんでもいいよと、手の中の機械が言う。古い友人の声で言う。ちがう。過去のわたしの、気難しい十六歳の声で、言う。死ななければそれでいいと決めたのだった。だからわたしは本音の残り半分をしっかりつかんで閉じこめる。

 

買母の量刑

 ただいまあ、という。おかえり、と返ってくる。週に一度はあまり残業をせず、夕食といってよい時間帯に帰ることにしている。月に何度かは作りたてのごはんを出したいという母と、疲れたら作りたてのごはんを食べたいというわたしの思惑が一致して、なんとなし習慣になった。

 母は台所に立って天ぷらを揚げている。わたしもいい年だし、母はもちろん老婆だから、そんなにたくさんの油ものはいらない。今日はわかさぎをもらって、だから揚げているのだった。ついでにさつまいもを切り、余った野菜でかき揚げもやって、いくらかを半切りにして冷凍しておく。簡単に麺で済ませるときに冷凍の揚げ物があると楽なのだ。緑もほしいわね、大葉の一枚くらい食べられるでしょう。そんなふうに言いながら母は冷蔵庫を探り、天ぷらは結局結構な量になる。

 わたしは寝室で着替え、デスクとして使っているカフェテーブルを居間に持ってくる。おかずをたくさん並べるときにはこれをダイニングテーブルにするのだ。リビングで大根おろしをつくっていると、母が華やいだ笑顔で大皿を持ってくる。箸休めは白菜のゆずびたしとひじきの五目煮、味噌汁は豆腐となめこ、薬味はごく薄切りの白葱、天つゆが強いかつおだしだからか、味噌汁には珍しくいりこを使っている。煮干しの頭と腹を取るのが億劫だからという理由でしょっちゅうは使わない。

 わたしの住居は家族向けではない。友人がそう指摘した。部屋はよぶんにあるけどファミリー向けの物件ではないよね。ものが極端に少ないから一部屋余っているようなもので、そこが「あなたのお母さん」の部屋なわけね。遊びに来た友人はそう言い、そうだよとわたしはこたえた。狭いその部屋が本来は寝室なのだけれども、わたしは広めのリビングの一隅をクローゼットで区切ってベッドを据え、その足下にデスクを置いて、それだけでじゅうぶん、暮らしていかれるのだった。

 わたしの母はわたしの血のつながった母ではない。わたしが昔一緒にいた男の母で、すなわち、いま、あらゆる意味で、他人だ。なんの関係もない。なんの関係もない老婆をわたしは母としてあつかう。なんの関係もない中年女を老婆は娘としてあつかう。そのことについてあらたまって話をしたことは、ない。

 ファミリー向けではない家で余っている狭い部屋が狭く見えないほど母の荷物はすくない。寝具とちいさな古い文机しかないように見える。家具や家電を買おうかといえば、リビングにみんなあるじゃないのと言う。

 母が掃除や洗濯をし、作り置きのおかずを冷蔵庫にしまい、週に一度は食卓をともにするのは、わたしが娘だからだ。けれどもそれは嘘だ。わたしは娘じゃない。ほんとうはぜんぜん娘なんかじゃない。

 母が部屋のあらゆる溝のほこりを取り、長すぎたカーテンの裾を繕い、わたしの好みの銘柄の米をこまめに米屋でひいてもらって土鍋で炊くのは、わたしが生活費をまかなっているからだ。わたしはその金で母を買っている。わたしはわたしの日常をメンテナンスしうるさいことを言わずしかしいつも気にかけてくれている、そういう理想の母であるような女をひとり、金で買っている。

 そのことを人に言いたくない。一人暮らしではないことがわかるといやだから、誰にも家に来てほしくない。ひとりだけ、母がまぼろしでないことを知ってもらいたいような気がして呼んだ。母のいないときに。

 いいじゃん。家に呼んだ友人は実に軽薄にそのように言うのだった。お母さんと暮らしてるってなんで誰にも言わないの。大人同士がおたがいの意思で決めたんなら誰が誰と暮らそうがぜんぜんいいじゃん。どうして他の人には言わないの?なんにも悪くなんかないのに。他人をお母さんにして、それのなにがいけないの?

 友人のせりふを、わたしは頭から追い出す。それから、お母さん、と言う。なあに、と目の前の女がこたえる。音量を絞ったテレビからちょっと目をそらし、わたしを見てすこし眉と口角をあげ、それからわかさぎをひとつ食べて、また、テレビに目を向ける。木曜日から出張だから。わたしは言う。そう、気をつけて行っていらっしゃい。母は言う。適度な無関心と適度な関心がわたしを安心させる。この人が何を考えているかなんてわたしにはわからない。わかりたくもない。わたしはただこの人と暮らしていたい。そうしてそれが悪いことのような気がしている。とても悪いことで、誰かがいつかわたしを罪に問い、量刑を宣言するのだと思っている。

孤独死OK、超OK

 いつもより早く起きる。川を渡り、友人の家まで歩く。友人の犬を連れて河川敷を走る。犬は往復の道で私を先導し、ときどき私を振り返り、信号ではぴたりと止まる。引き綱をつける必要もほんとうはない。でもつけてほしいと飼い主は言う。顔見知りじゃない人とすれちがってリードのついていない犬がいたら安全じゃないような気がするでしょう。

 犬は散歩用の綱をつけるとき、顎を上げて協力する。とくにいやではないようだ。それどころかちょっと笑う。この犬にかぎらず、犬は、笑う。私にはそのように見える。口角を上げ、目を三日月にして、犬は笑う。そうして私の手や顔をぺろりとなめる。

 ありがとう、と友人が言う。彼女の犬は定位置でくつろいでいる。主が半月ぶりに戻った日の飼い犬のふるまいとしてはたいへんクールだ。彼女は一年に一度か二度、私を留守居に雇って、朝晩の犬の世話をさせる。「出稼ぎ」のためだ。「俳優のディナーショーとかで伴奏するとお金になる」のだという。

 彼女はあんまり労働意欲がない。ふだんは週四日ばかり雇われのピアノ教師をやっていて、ときどき演奏の仕事をする。「一日八時間以上働くとか信じられない」という。贅沢には興味がない。相続した町工場は相続する前から閉鎖されていて、からっぽの元工場にはピアノが置いてあり、彼女は階上に居住している。もとは工場の従業員が住んでいたのだという。

 ともに独居で近くに住んでいるという理由で、私と彼女は相互に、死んだら通知が行くようにしている。正確には、生存確認のシステムに応答しないと互いに通知が行くように設定している。死んでいたときの対処も決めてある。いま自宅で死んだら犬の鳴き声とか異臭で近所の人が先に発見する可能性が高いけど、犬よりはあなたをあてにする、と彼女は言っていた。

 彼女が「出稼ぎ」から戻ると、預かっていた合鍵を返す。そのときに彼女の家で豪快な手料理をご馳走になるのが恒例だ。今日は私の仕事が終わるよりずっと早く帰ってきたようで、骨つき肉のシチューが出てきた。ちょっとした洗面器くらいのボウルに山盛りのサラダがついている。犬は骨をもらってせんべいみたいにぱりぱりかじっている。

 今回の雇い主がやたらとプライベートな話を聞きたがる人で、と彼女は言う。ためらいなく骨を手でつかみ、骨についた肉を器用に食べ、話す。ひとり暮らしにものすごく反対するの、まだ見込みはあるんだからがんばって、とか。何を、と私が尋ねると、さあ、と彼女はこたえる。

 同居人が欲しければとうに探しているので、独居は私たちの選択によるものなのだけれども、ときどきそうは思わない人がいる。うぜえ、と私はつぶやく。なあ、と彼女はこたえる。それから裏返った声で一時的な雇用者の真似をしてみせる。今はいいけどね、年とって、一人でいたら、寂しいですよ、ええ、もう、みじめなものですよ、だいたい、まわりに迷惑でしょ、家族に迷惑でしょ、社会にも迷惑かけるんですよ、孤独死するかもしれない。

 孤独死、というところで急に声をひそめ、ひどく重大な秘密を話すような口調になったので、私は笑ってしまう。彼女も笑う。彼女は自宅で不意に死んで腐ろうが犬に食われようが平気だ。私も同じようなものだ。死ぬのはいやだけれども、そのあとのことはとくに心配していない。死んだあとに自分の死体がどうなってもまあいいやと私たちは思っている。人が生きて死んだら迷惑なんかある程度かけるのが当たり前だと思っている。私たちは一人で死ぬより生きているうちに意に沿わない人間関係を持つことのほうがよほどおそろしい。

 孤独死ってあれでしょ、一人で死んで死体の発見が遅れたりすることでしょ。彼女は話す。最低限のことはいろんな人に頼んであるし、書類と費用も用意してあるし、それで一人で死んで何が悪いんだろ。何が問題なのかわからないよ。そんなことより好きなように生きたいよ。それに比べたら死の間際に誰もそばにいないことなんてぜんぜん問題じゃない。OKOK、超OK。

 私はまた笑う。それから思う。幸福な死などない。けれどもどうやら死には序列がある。正確には、序列を想定している人が多くいる。平均寿命より長く生きて子や孫に看取られて死ぬのがまっとうな死で、孤独死は下等だと思っている人がいる。私たちはそれを鼻で笑う。たぶんね、と私は言う。そういう人たちは、私たちのこと、綱をつけずに往来を歩いている犬みたいに思ってるんだよ。私たちの飼い主じゃないんだから、放っておけばいいんだよ。そいつらにしっぽ振っても骨のかけらもくれないんだし。

飛行機とサンダル

 取引先での会議がいつになく長引いた。彼は腕時計の盤面を視界の端でとらえ、直帰、と思う。よく来る場所だから、道はもう覚えていて、通り道も固定されつつあった。でも、と彼は思う。今日は、帰ってすぐ寝るような時刻でもないから、ちょっとうろうろしよう。

 彼は方向音痴なのに、通ったことのない小さな道に入るのが好きで、気づけば迷っている。道に迷うのが趣味なのかもしれないと思う。さんざんうろついたあと、不意に、もういいや、という気になる。それからおもむろにスマートフォンで現在地を確認する。道草しても遠回りしても文句を言うやつはいない。誰にも責任を取らなくていい。そのような状況をつくることが、彼は好きだった。

 うろうろしているときに彼は、たいていなにも考えていない。最初のうちは考えていることもあるけれども、そのうち無心になる。目的地や美しい眺めみたいなものはとくに必要ない。ただ歩き、知らない路地の、なんということのない景色を流し見て、それで気が済む。

 視界になにかが入る。なにか、見覚えのあるなにか、見覚えのある人、知っている人、あの人。一瞬でそのような情報処理がおこなわれ、彼の頭脳はなにも考えない快楽をもぎ取られる。

 その女性は今日尋ねた取引先で来訪を告げると扉を開けてくれる社員で、あまりにいつも開けてくれるので、彼はなんだか居心地が良くないのだった。受付もないし、同じフロアに来訪相手がいるのだから、人を介する必要はないじゃないかと思う。もう慣れているのだから、ビルのセキュリティチェックを通ったあとは勝手に会議室まで行かせてくれたっていいのに。来訪相手が出てくるという手もある。まあ、来訪相手はなんだか尊大な人物だし、動きが鈍いから、椅子から立ち上がりたくないんだろう。彼はそんなふうに考えている。そんなわけで彼女は彼を気まずくさせる。路地でも反射的に気まずくなり、それから彼は、靴、と思った。

 彼女は野暮ったいパンプスを気持ちよく脱ぎ、別の靴に足を入れて滑らかに身をかがめ、靴紐を結んだ。その靴は使いこまれたジョギングシューズで、「運動靴」ということばを彼は思いうかべた。そんな単語が自分のなかに残っていたことに彼はすこし驚いた。

 あ、と彼女がつぶやき、彼の名を口にして、ぺこりと頭を下げた。彼も頭を下げた。その靴、と彼は言った。考えるより先に発声していた。すごくいいですね。彼女はほほえみ、ありがとうございます、とこたえた。わたしの愛車です。

 彼が茫漠と彼女を眺めていたからか、彼女はすこし低い、やさしい声で話した。自宅まで早足で四十分、雨がひどくなければ徒歩で通勤していること。社内ではいわゆるオフィスカジュアルに合う靴で働いていて、人前で履き替えるのが気恥ずかしいから、こうして近くの路地で履き替えていること。夏はシューズの代わりにいくらでも歩けるサンダルを使っていること。

 彼女のいる会社を訪ねて扉を開けてもらっても気まずいばかりだった。それなのに、なんてすてきなんだろう、と彼は思う。ようやく言語化して、思う。こんなに鮮やかに輪郭が景色から切り出されている人をはじめて見た。

 彼女はあっけなく消えた。消えたのではなくて歩き去ったのだけれど、愛車という比喩にまかれて彼の記憶のなかでは一瞬で路地の向こうに消えたことになっている。

 彼女が夏に履くサンダルはどんなのだろう、と彼は書く。一方的に予期せぬ恋に落ちた人間の多くがそうであるように、彼は落ちつかず、三日もすると、なにを話しても問題のない(役には立たないが害もない)友人にスマートフォンで連絡をとっていた。スポーツサンダルってどんなのかな、見たことない。そのような文言を送信すると、ほどなく返信のメッセージが届く。ぼろいジョギングシューズを車にしちゃう人だからね、サンダルはきっと飛行機だ。かかとに羽根がついてる、一人乗りの飛行機。

 飛行機を持っている人に気に入られるにはとうすればいいんだろう。僕の車は彼女のよりぜんぜん素敵じゃない。飛行機は持ってない。送信。返信。きみの車だってそんなに悪くない、いつも女たちに気に入られていたでしょう。そんなんじゃだめなんだ、そういうので気を引けるタイプじゃないんだ。たぶん。送信。

 返信。きみが二人乗りの飛行機を作ればいいんだよ。靴だけでどこまでも行けるみたいな、自由な人には、二人乗りも楽しいですよって提案すればいい。そういうのって、歩くの嫌いな相手を乗せてあげるより、ずうっと楽しいような気がする。