傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

つまらない顔

 年に一回、化粧品を買う。毎日きちんと化粧をするのではないから、スキンケアと日焼け止めと粉は買い足すけれども、色を塗るものは一年保つし、なんなら余る。なにごとにも流行はあり、最新の、とは言わないけれども、年に一度、簡易なメイクとフルメイクを更新するくらいの手間はかけようと思っている。

 本質的に化粧を好きなのではない。面倒だと思っている。それだから、年に一度の更新は自力ではない。いつも同じデパートの、化粧品ばかり売っているフロアの、決まった店のカウンターに行く。そうして注文を伝え、普段着とドレスアップ、ふたとおりの化粧をつくってもらう。今回は久しぶりに眉墨を買った。メイクをしてくれている美容部員の女性は私の眉の(多少整えただけの)形状をほとんどそのままなぞり、眉の中央にだけ別の色を乗せた。ご面倒でも二色使いされると、このように瞳が大きく見えます、と女性は言った。眉頭は描かなくていいでしょうかねえ、と私は訊いてみた。眉と眉が離れ気味なので。

 もちろん、そのほうが黄金比に近づきます。異国の祭りの拵えのようにも見える、服でいえばコレクションラインの化粧をほどこした女性が、ゆったりと回答する。ほんとうにそうなさりたいのなら、眉のほかに、そうですね、この部分、いわゆるエラですね、ここを削って、鼻を、幅・高さともに縮めて、二重の幅をすこしだけ広げ、目頭を切り込んで目と目も近づけます。いえいえ、整形じゃありません。メイクでできます。ほんとうです。でも、わたしはそういうのはおすすめしません。手間がかかりますし、だいいち、つまらない顔になります。

 つまらない顔、と私は言った。つまらない顔です、と女性はこたえた。生きている人間は、絵に描いたような造作であれば美しく見えるのではないんです。どこか崩れていて、その崩れかたが魅力になるんです。お客さまの場合は左右の目と眉の距離で抜け感が出ていますから、それを生かすことをおすすめします。一般に欠点とされる特徴を強調したほうが魅力が増すケースはざらです。女優さんだって完全な顔なんかしてません。目は大きければよいのではないし、鼻は高ければよいのではない。同時に、バランスが取れていればよいというものでもないのです。そんなに簡単なら、毎日お客さまに化粧をしているわたしは退屈で絶望してしまいますよ。

 なるほど、と思った。それから十数年ぶりに、モデルちゃんのことを思い出した。

 モデルちゃんというのはもちろんあだ名で、顔だちがあまりに整っているために、誰かが影でそう言いだしたのだった。職業ファッションモデルではなくて、「模範」「模型」というようなニュアンスで、だから職業名の「モデル」とはアクセントがちがう。

 モデルちゃんは私の大学の同級生で、語学のクラスが同じで、あとはとくに接点がなかった。口をきいたこともほとんどない。それでも誰かがあだ名をささやくのが耳に入るくらいには有名な学生だった。正面から見ても斜めから見ても横から見ても絵に描いたような美人顔で、たとえば「彼女の顔を修正せよ」と言われたら困る、と私も思った。直すところが見当たらないのだ。

 絵に描いたような模範的な顔、でも絵に描いたような顔の女の子がいいかっていったら、それはまた別の話。男の子のひとりがそう言っていた。モデルちゃんは完璧な顔してるけど、完璧じゃないのにモデルちゃんより人気がある女の子は何人もいる。内面はこのさい無視して、完全に外見だけの話として。えっと、外見と内面をそこまで明確に切り分けられるかって言われたら、無理なんだけど、とりあえずそれは措いといて、ずっと見ていたい顔とか何度も見たい顔って、模範的な造作じゃないんだよね、実は。それに気づいたのは、もちろんモデルちゃんを見てるから。目に入れば、おお、相変わらず人形みたいだ、と思う。でもそれだけ。

 もとの顔立ちが黄金比で、その上に薄化粧を重ねた、直すところの見当たらない人が来たら、どうやって接客しますか。化粧品カウンターで、私はそう訊いてみた。そんな人はいません、と美容部員はこたえた。生物ですから、かならずアンバランスなところはあります。それを見せないようなメイクをなさっているのだと思います。薄化粧に見せるなんてテクニックとしては初歩です。その顔がお好みならいいんですけど、何かご不満があっていらっしゃったのなら、まず、その方のお化粧をぜんぶ取らせていただいて、それからじっくり拝見します。そうすればかならず見つかります。その人にしかない、美しい欠点が。

明るい人の明るい理由

 あけましておめでとうございます。あ、アウトだ、これ。

 渡部さんがそう言い、私はあいまいに笑う。視界に入っている他の二人も、おそらく同じような表情をしている。私たちは社内読書部(会社非公式。活動内容・ときどき都合のついた者が集まってランチ会または飲み会を開き、本の話をする。要らなくなった本をやりとりする)の仲間だ。仕事の話より本の話をする、およそ会社の利益には貢献しない集団だけれども、本の話しかしないというルールはとくにないので、なんとなし個人的な話を聞いたりもする。もちろん、個人的な話をいっさいしない人もいる。

 仕事に関係のない本、とくに小説だとか、実用性を持たないとされている本を、大人になってもやたらと読んでいる人間は、おおむね性格がめんどくさい。率直な人、社交的な人、陽気な人もいるけれども、内面を開くと、なにがしか薄暗いものを抱えている。いいもん、と以前の会で誰かが言っていた。どうせわたしは暗い。にこにこして今ふうの格好して人生を謳歌しているそぶりをしていたって、ぱかっと開けばへんなどろどろしたものが入ってる。でもいい。暗い人間だから暗い小説を読んでたのしいんだよ、こんな楽しいことが楽しくなくなるなら明るくなんかならなくてぜんぜんかまわない。

 ところが、渡部さんは平気で、えっ、俺、鬱屈とか、ない、と言うのだった。たしかに渡部さんはたいてい機嫌がよく、たとえば多忙でも、いやあ参っちゃうねえ、などと言ってところどころでのらくらと気を抜き、多忙さに飲み込まれることがない。私は部署が違うのでよくは知らないのだけれども、彼の部下によれば「情緒がただごとでなく安定しており、それだけでも上司として貴重な人」だということだった。その気持ちはわかる。

 お若い頃からそうなんですか、と誰かが訊いた。いくらなんでも青春の蹉跌のひとつやふたつ、あったでしょう。ない、と渡部さんは断定した。俺も小説に出てくるような複雑怪奇な精神状態を味わってみたいと思う。でも、ない。寝て起きたらどうでもよくなるし、寝られなかったことはない。そのせりふを聞いてその場の全員が感嘆した。小学校から大学までサッカー部で、いじめられたこともひきこもったこともなく、適度にもて、友だちがたくさんいるような人間が大量に小説を読み続けているというのは、まったく意外なことだった。しかも、胸躍る冒険物語より、薄暗い、あるいは意味がつかみにくい作品を好むのだ。サッカー部で何の話してたんですかと誰かが訊くと、サッカーの話、と渡部さんはこたえた。そりゃあ、サッカー部で小説の話をするやつはいない。やはり、と誰かがつぶやいた。

 渡部さんは喪中だ。だから、あけましておめでとうございますという文言は本人の言うとおり「アウト」だ。形式上の喪中といってもいろいろあるけれども、渡部さんの場合はつい数ヶ月前に、仲の良かった弟さんが不慮の事故で亡くなったと聞いている。弟さんのエピソードはいくつか聞いたことがあって、もちろん会ったことはないけれども、痛ましいことだと、読書部のみんながおそらくは思っている。

 あけましておめでとうございますって、小正月までだよねえ。一昨日までだ。渡部さんがそう言い、全員がぐっとことばに詰まる。渡部さんはもりもりとごはんを食べ、それから、なに、と訊く。

 みんながためらい、それから誰かが、みんなが思っていることを口にしたほうがいいという結論に至って、そっと言う。いえ、渡部さん喪中じゃないですか、だから、年始のあいさつは誰も、しなかったんですけど。

 あ、と渡部さんはつぶやいた。忘れてた。

 渡部さんは薄情なのではない。どちらかというと人情がありあまっているように見える。家族が大好きで大切にしている。でも、弟さんのことは、忘れたのだ。死んだから。

 近しい人に死なれると、何かを持って行かれる、と私は思う。私たちは関係と感情の動物であり、親しい他者との境界線はよく見るとぼやけている。それを引きはがすと、自分の一部が「もっていかれる」。だから私たちは人に死なれると喪に服し、喪が明けてもぐずぐずと泣く。そう思っていた。

 私は渡部さんを見る。渡部さんはみんなに気を遣わせたことについてさわやかに礼を言い、その話題をすぱんと断ち切った。この人は「もっていかれない」。私はそう思って、すこし寒くなった。生きている人を愛する。死んだら愛さない。忘れる。正しいことだと思う。あまりに正しいものは恐怖の対象になる。誰もこの人の一部になることはできないのだ。誰も。

背泳ぎができるようになった話

 背泳ぎができないと思っていた。

 十九のとき、つきあいでプールに行ったら、予想に反してひどく楽しかった。すぐに競泳水着を買い(つきあいで行ったプールではひらひらしたのがついたセパレートの水着を着たのだけれど、本気で泳ぐためのものではないことは五分で理解した)、区民プールの常連になった。

 当時は平泳ぎしかできなかった。それに、疲れるのは嫌いだった。今でも嫌いだ。それだから、ただだらだらと、タイムも取らず、休憩も取らず、延々と泳いだ。しばらくそうしていると頭のなかまで水洗いしたようになり、「なにもかもどうでもいいや」という気分になる。この「どうでもいい」は投げやりな感覚ではない。「すべてがひとしく無価値であって、自分という存在は偶然に存在しており、それについて責任をとる必要はない。役に立ったり良いものであったりする必要もない」というような、ぼんやりとこころよく、うす明るくてふんわりとした感覚だ。さらに泳ぎつづけると「なにもかもどうでもいい」といった言語すら溶解し、一個の動物として呼吸をするだけの存在になる。

 これは、と十九の私は思った。これは、とても、いいものだ。完全に頭を空にするというのはきっと必要なことなのだ。人間は動物でもあるのに、動物っぽくないところばかりで生きているほうがおかしいのだ。私たちは何らかの手段で一時的に情報を遮断し、自己の内部の言語を溶解させ、動物としての側面を取り戻す必要があるのだ。そう思った。

 走るのも嫌いではなかったし、走ることによっても「なにもかもどうでもいい」感が得られることは知っていた。けれども、走ることについてはささやかながら競技経験があったために、うっかりタイムを気にしたり、距離を稼ごうとしてしまう。つまり、走っているときの私は、何かを考えてしまう。それはそれで悪くないんだけど、頭がからっぽになる気持ちよさはない。それに、雨が降ると面倒だし、真冬は「なにもかもどうでもいい」スイッチが入るまで時間がかかる(たぶん、体温が上がるのに時間がかかるから)。その点、屋内プールにはなんの欠点もない。同じレーンで泳ぐ人々と自分のゴーグルさえまともなら、何ひとつ問題は起きない。

 そんなわけでだらだらと平泳ぎをし続けた。平泳ぎばかり十年近くしていると話すと親しい人たちはものすごく驚いた。どうしてそんなばかみたいなことができるのかと彼らは問い、完全なばかになるためにしているのだと私はこたえた。ゆったり泳ぐクロールもいいものですよとそのうちのひとりが言った。頭の別の部分が空になるかもしれない。

 それはいいなと思ってその人にクロールを習った。二十分でできるようになって、なんだそれは、と思った。教えるのが上手いのかと思って訊いたら、もともとできてた、とその人は言った。クロール用の腕の動かしかた、足の動かしかたをしていなかっただけで、言えばできるんだから、身体はもう学習済みだったんだと思う。一ヶ月に十キロ、少なめに見積もってこの十年近くで百キロメートル。それだけ平泳ぎをしていたらクロールなんか教わらなくてもできますよ。今のは「教えた」んじゃなくて「引っ張り出した」んだよ。

 そんなわけで、平泳ぎにクロールを織り交ぜて泳ぐことにした。私はクロールを気に入った。そうしてまた十年が過ぎた。バタフライには興味がなかった。疲れそうだからだ。私はスポーツにおいて極力疲れないことを望む。仕事で追い込まれると戦闘的な気分になっておおいに戦うけれども、スポーツではまったくその傾向がない。息切れとかしたくない。バタフライなんかぜったい息切れするし一生しなくて良い。

 ところで、リゾートホテルのプールというのはおかしな場所で、プールなのに本気で泳いでいる人はいない。本気で泳ぐための屋内プールがジムに併設されているホテルさえある。海が見える屋外の広いプールで、人々はてきとうに浮いたり沈んだりしている。

 ここにふさわしいのはゆったりした背泳ぎだ、と私は思った。私はできないけど、と思って、それから、十年前のことを思い出した。あれからさらに累計百キロは泳いでいる。それなら、教わる必要もないはずだ。そう思った。やってみた。あっけなく、できた。

 学習ってなんだろうな、と思う。メソッドを頭に入れて練習を繰りかえすのが、きっと効率的なんだろう。けれども、きっと誰にでも、私の「背泳ぎ」みたいなものは、ある。それを引っ張り出すことも、学習と呼んでいいのだと思う。私の「背泳ぎ」みたいなものを持ったまま気づかずにいる人は、きっといっぱいいるのだと思う。

アレルギーかもしれないので

 乾燥ですね。医師はそう言い、わたしは、はあ、とはい、の中間くらいの声を出す。それから尋ねる。病気じゃあないでしょうか。アレルギーとか。アレルギーはありえます、と医師は言う。とくに、職場や住居など、よく身を置く環境が変わって皮膚にこういう、乾燥性の疾患が出る方はいます。はあ、とわたしは言う。医師はそれをイエスと取り、淡々と説明を繰り出す。あなたの場合、ハウスダストの数値もそこそこ高いですからね。新しい環境の塵、埃、肌につくものに注意してください。保湿剤を出しておきます。

 まあねえ、と医師はつぶやいた。こういうのは、確定はあまりしませんよ。ご本人もひどくならなければ深く追求しない。保湿しておけばとりあえずマシになる。服に隠れて見えない場所だとみなさん「とりあえずようすを見ます」で済ませちゃいます。ええ、それでいいんです。はい、おだいじに。

 彼はその話を聞き、薬、塗ってあげようか、と言う。わたしは笑って断る。いいよ、お母さんじゃあるまいし。あなたのお母さんをやった覚えはないけどなあ、と彼は言い、わたしのグラスに水を足す。ほら、とわたしは思う。この男は、人が水を飲むタイミングまで、ほとんど無意識にはかっている。

 お母さん、というのは、わたしが意識的についた嘘のような比喩だ。この男の世話焼きは親の子に対するようなものではない。もっとよくないものだ。彼は自分と居るときに相手が不快に感じること、不便に感じることをスキャンし、ひとつひとつを丁寧に取り除く。空腹。寒さ。のどの乾き。言われたくないせりふ。不快に感じる音。

 やさしいからそうするのではない。この男は餌づけをしているのだ。わたしは知っている。そうやってゆっくりと手なづけた女がいつのまにか自分を必需品にすることが、この男の趣味だということを。自分に会えないと泣いて悲しむ女をどれだけ増やせるか。気が向いたときに呼ぶ相手をどれだけ快適に取り替えることができるか。それがこの男にとって、精神の安寧にかかわる重要な事項だということを。

 この男は「誰かに必要とされなければならない」と、脅迫的に思っている。仕事だけではだめだ。プライベートで、女から必要とされなければ。

 彼は数年前、当時の妻の側からの希望で離婚している。それは彼にとって許せないことだった。信じられないことだった。だから今、彼は女に必要とされなければならない。何度も何度も必要とされなければならない。いつも自分が捨てる側でいなければならない。そのために彼は女たちを湯水のように甘やかす。邪魔にならない程度に自立していて、話が退屈でない程度の気概があり、しかし内面の依存心を引きずりだせそうな女が、彼の好みだ。そういう女に快適さを与え、いい気分にさせ、ほどよいところで取り替える。

 わたしはそれらの事実を、彼と知りあって最初の三ヶ月で理解した。SNSで連絡をとってきた別の女にも会った。彼女は泣いていた。わたしはこの男のことで泣いたことはない。映画を観て泣くことはあっても、この男のために泣くつもりはない。

 わたしはほかの女たちとは違うのだと思っていた。わたしだけがこの男の正体を知っているのだと思っていた。この男の裏をかいて苦痛を与えられることなく楽しみだけを享受しているのだと思っていた。わたしだけがこの男の薄汚く弱い精神の構造を把握しているのだと思っていた。その優越感はとても、いいものだった。とても気持ちがよかった。だから半年も続けた。

 アレルギーってね、とわたしは言う。原因になる物質の摂取が積み重なって発症するんだって。その量は人によってちがうの。わたし、きっとなにかを摂取しすぎたんだと思うの。なんだろうね。

 彼は家を見渡す。塵や埃は彼の留守の間にロボット掃除機が吸いこみ、空気清浄機によって除去されている。わたしはにっこり笑い、彼の額にくちづける。それから言う。コンビニ行ってくる。

 コンビニエンスストアを通りすぎ、駅に着く。もともとあの男の家にはなにも置いていない。置くとほかの女が来たときに隠すのがたいへんだろうと思って気を遣ってあげたのだ。わたしもそれなりに彼を甘やかしていたのだ。そうして少しずつ、塵や埃のような何かを吸いつづけた。たぶん。

 ホームで電車を待ちながら彼のすべての連絡先を拒絶する設定をする。終電が近く、人々は華やいで、どこか倦んでいる。今このタイミングで彼とのかかわりをなくすつもりはなかった。けれども、玄関を出たその瞬間に「帰ろう」と思った。そうして駅に着いたころには二度と会う気がなくなっていた。

まず、ストレスを与えます

 そうしてそれを解消します。あたかもその人が「自分で解消させた」かのように。

 私はちょっと困惑し、一秒後にはすっかり感心して、口を半開きにしたまま、彼女のせりふの続きを待っていた。それから気づいた。あ、今のもですか。彼女はうっそりとほほえんでこたえた。ええ。いちばん短く体験していただきました。実際のゲームづくりではその感覚を螺旋状に配置してときどきどこかに穴をあけておきます。

 初対面で「ひきこもりです」というので、おうちで何をしているのかと訊いたら、ゲームを作っているのだという。

 スマホのゲームです。詳しくは言えないんですけど。ほとんどひとりでやってます。会社つくったからオフィス借りようかなって思ってシェアオフィス見に行ったらなんかみんな明るくて前向きで休日にバーベキューとか誘われそうでいやだなって思ってやめました。ゲーム関係の小さい会社ばかり入っているって聞いたから行ったのに。わたし、小さいころからゲームに逃げるしかなかった正統派のオタクなんで、目も合わせられないようなコミュ障が寄り集まって朝から晩までひとことも口をきかない殺伐としたシェアオフィスを期待してたんですよ。それがなんですか、どうしてイケメンが出てくるの。どうしてこだわりのコーヒー豆を手挽きしてにこやかに客に出すの。まじ無理だなって思って、だから、自分ひとりでオフィス構えられるまでは、仕事は、家でしようと思って。

 それでひきこもりだというのだった。たしかに、ひきこもってはいる。ただ、ずっと働いている。高校生の時分からプログラミングで食べる目処をつけ、いちおう行ってみた大学は二ヶ月で辞め、二度転職してちいさな会社をつくり、「えっと、それなりに、当ててる感じ」なのだそうだ。以前から独立したかったのかといえばとくにそうでもなく、「なんとなく」だという。

 報われる努力って、嗜好品じゃないですか。彼女はゆったりと、やさしい声で言う。

 贅沢な嗜好品、それも依存性の。わたしは、それを人にあげるのが、得意なの。ねえ、マキノさん、努力して、努力しただけ報われたことって、ありますか?あるなら初期値が高いんです。少なくともその分野に関しては。努力は高い初期値を高めるか、たいして高めないか、その程度のものです。線形に報われる努力って、ダイエットとか筋トレとか、それくらいしか、ないじゃないですか。しかもすぐ天井にぶつかる。それにハマれる人ばかりじゃない。だって、すぐに報われないもの。身体にも才能はあって、その初期値の低さがわたしたちをいらだたせる。無理をすればそれこそ倍返しです。身体は気むずかしい。わたしのほうが身体の機嫌をとってやらなきゃいけない。

 機嫌はとるよりとられたいでしょ。すぐに報われたいでしょ、毎日ちょっと気持ちよくなりたいでしょう。この世でいちばん強い麻薬は達成感です。でもわたしたちはめったに達成なんかさせてもらえない。わたしは、それをあげるの。手間暇かけず、お手元のスマホにお届けするの。最初はただで。せいぜい数百円で。ええ、もっと払いたい人もね、うふふ、いっぱいいますよ。いいじゃないですか。大人の趣味の範囲です。

 この世の苦痛に意味はないんです。神さまがお与えになったという人はいるけど、わたしには、神さまがいない。わたしは交通事故で鎖骨を折ったことがありますけど、もちろんその痛みに意味はなかった。病気にも意味はない。愛されないことにも意味はない。認められないことにも意味はない。わたしたちはただ意味もなく苦しむんです。

 でも、ゲームはそうじゃない。まず、ストレスが与えられます。ちいさな、適度な苦痛がある。それからそれは解消されます。電子データのご褒美つきで。でもほんとうにみんながほしいのはグラフィックや数字で出てくるご褒美じゃあないの。「自分であのストレスを解決した」という感覚なの。

 ねえ、マキノさん、わたしはほんとうにゲームが好きでした。正しく報われる努力、意味のある適度なストレス、無力じゃないわたし。

 ご自分の作っているゲームは好きですか。私が尋ねると彼女はほほえみ、愛着があるという意味では好きですが、とつぶやき、それから、首を横に振る。ゲームとして好きかといえば、わたしを気持ちよくしてくれるかといえば、答えはノーです。あのね、マキノさん。不安になりすぎない程度に想定の範囲内で、でも予測をすこし外れるのが、いちばん気持ちいいんです。だから自分で作ったものだと、そこまで気持ちよくなれないんです。

無駄のない生活

 の生活には無駄がない。

 朝は五時に起きる。ごく軽いストレッチと筋力トレーニングを済ませ、シャワーを浴び身支度をして部屋を出る。僕の住んでいるマンションでは二十四時間ゴミ出しを受け付けてくれるけれど、その恩恵にあずかっているのは僕というより、二週間に一度頼んでいる掃除の業者だ。

 電車に乗り、電車を降り、歩き、六時半にデスクに着く。当然ながら誰も居ない。駅から会社までの道のりにあるコンビニエンスストアで食事を仕入れ仕事をしながら胃に入れる。昼食と間食と一日分の飲み物もあるから、コンビニエンスストアの袋はけっこうな大きさになる。それをデスクの足下に置き、仕事をしながら消費する。

 するべきことはいくらでもある。自分自身の作業をしながら人を管理しているのだから、のんきに定時に来る人間は何をしているのか不思議だ。自分の担当する作業のクオリティは高く保つ。部下は必ず何か間違っている。それを見つける。直す。指示を出す。説諭する。

 そうこうするうちに人がやってくる。僕のもっとも生産的な時間が終わる。挨拶をしなければならないからだ。おはようございます。おはようございます。お疲れさまです。今日も冷えますね。あっという間に年末ですね。先週は二次会まで行かれたんですか。

 僕は話しかけるべき人間に話しかけ、話しかける必要のない人間には話しかけない。何か言われればなるべく早く終わるよう返事をする。すなわち、適度に愛想よく、穏当に、相手が早々に満足するように。話しかける必要のある人間は言うまでもなく、上長と直接の部下と業務上の依頼をする相手だ。

 視界の端を気味の悪い女が横切った。近ごろ僕と同じ規模のチームを率いるようになった女。向こうが僕を嫌っているのは露骨に顔に出てるからわかるけど、僕は嫌いというより気持ち悪い。足が大量にある虫とかに対する感覚に近い。普通いやだろ、そんなのが職場にうろうろしてたら。

 ほかにも嫌いな人間は何人かいる。そいつらが視界に入らないように配置を変更するには僕がこのフロアを取り仕切るしかない。上長はいつ引退するんだろう。そろそろ世代交代して僕あたりを上に持ってくるのが正しい判断だろう。実際、僕は例外的にいろいろ兼務しているのだし。

 僕はいつも笑顔だ。感じのいい笑顔、と元妻が言っていた。誰にとっても感じのいい、汎用的な、無感情の、笑顔。あなたそれ何種類持ってるの。一ダースはあるわよねえ。上手に使い分けるものよねえ。あのね、あなた、人はねえ、楽しいときに笑うの。忘れちゃったのかもしれないけど、楽しいときに笑ってたことだって、あなたには、あった。あったの。わたし、一緒に笑ってた。ねえ。聞いて。わたしの話を聞いて。

 僕は首を傾ける。頭をゆっくりと左斜め後ろに傾けると思考の中からよぶんなものが落ちて頭の中から落ちていくしくみになっている。そういうシステムは訓練でつくりあげることができる。だって、自分の頭の中なのだから。条件反射を何度も何度も繰りかえせばスイッチひとつで効率的に、頭の中も片づけることができる。物理的なゴミとちがって出す手間もない。誰かに燃やしてもらう必要もない。

 社屋が閉じる時間が迫る。僕は会社を出る。往路で使用するコンビニエンスストアとは道路をはさんで反対側の、別のチェーンのコンビニエンスストアに寄る。空腹であるような気がするときにはたいてい蛋白質が足りていないので、そのようなものを買う(野菜は昼食で過剰なまでに摂っている)。イートインコーナーで食べる。食べないこともある。いい年して三食も要らないだろうと思う。

 コンビニエンスストアを出る。路地に入る。誰かが通っているところをおよそ見たことのない路地だ。夜のコンビニエンスストアで必ず買うのは水と蒸留酒の小瓶だ。僕はまず安定剤を取り出す。ポケットから片手で個包装からぷちりと取り出すほどに慣れている。僕は安定したいんじゃない。もともと安定している。これ以上ないくらい安定している。安定剤は仕事モードの頭を「落とす」ためのものだ。効率の良い睡眠のためには徒歩を含めて四十分の通勤時間を無駄にするわけにはいかない。睡眠のスターターは安定剤と蒸留酒の小瓶およそ半分。摂取に必要な時間は五分。電車に乗る。最寄りの駅に着く。こちらにも「いつもの路地」がある。睡眠薬蒸留酒の残り半分を投下する。八分後には自室だ。時刻は午前零時近く。清潔を保つための夜のルーティンを終えるとベッドまでの距離を無限に感じる。今日も、と僕は思う。今日も無駄のない一日だった。

親になったらわかること

 親になったらわかるって、言われるんですけど。若い部下が言う。彼は名を山田といい、たいへん優秀であって、しかしかなり繊細であり、私はよく彼の悩みごとなどを聞く。夜の、人のすくなくなったオフィスで、なんとなく開始した休憩の途中、複雑な家庭の事情を話して、そうして、山田さんは言う。親になったらわかるって、でも、今、わからないし、わかりたくないんです。

 職場の上司に言ってどうなるものでもないと、山田さんだってきっとわかっている。けれども言わないよりは言うほうがいい。たとえ聞いている私がぼんくらで、そのうえ親になったことがなく、総じてたいしたことが言えないにしても。

 私はぼそぼそとこたえる。親になるならないという問題ではないと思います。山田さんのご両親のおっしゃっていることは理不尽だと私は思います。そのようなご家庭は出て差し支えないのです。私はそう思います。山田さんがご両親に申し訳ないと思う必要はないと思います。

 「私はそう思います」が頻出するのは、私がこの種の問題に対して「立場が弱い」と感じているからだ。私は、親になったことがない。おそらく死ぬまでならない。二十代のうちに人生のもろもろを勘案し、子を持つのは自分には無理だなと思って、その選択肢を捨てた。その選択に後悔はない。ないけれども、子を持つ親である人が「親でなければわからない」といったとき、それがたとえ理不尽な内容だとしても、他の問題より反論する声が小さくなってしまう。

 子を産み育てることについて意見を持つことは誰でもしてよい。それに対して、内容に反論するのではなく、「産んでもいないくせに」「育ててもいないくせに」と非難して口を塞ぐ、この行為にはなんの正当性もない。出産も子育ても個別具体的なことで、経験しなければわからないこともあるだろうけれども、経験した者がみな同じことを感じるのでもない。まして「親になってもいないのだから○○をしろ」という物言いには一グラムの妥当性もない。言うなれば「働いたこともないくせに」と同じくらいむちゃくちゃな物言いだ。働いたことのない人間が労働について考えそれを口にして何が悪いのか。私は大学生の時分、たとえばアルバイト先のタイムカードの不正について指摘し、「アルバイトしかしたことのない、社会経験のない学生のくせに」と返ってきたら、平気で反論していた。

 そのような私であるのに、こと「産んだことがない」「育てたことがない」については、同じようにできない。この話題についてばかりは、世間という茫漠としたお化けの発する重苦しい諸々が、私のようなのんきでずうずうしい人間にもそれなりの効力をおよぼしているようだった。「親になってもいないくせに」と言われると、ほかのことでいつもそうしているように理屈を振りかざして応戦する元気が、どうにも湧いて出てこない。

 親になったらわかることはひとつですよ。すこし離れた席から声がして、私たちはそちらを見る。フルタイム復帰を果たした、三歳の子の母親だ。彼女は自分のコーヒーをいれ、それから私と若い部下の双方の肩を、ぽんとたたいた。彼女は私より年若く、私の部下であるけれど、ときどき保護者のようにふるまう。私はそれを、好きだ。彼女は言った。

 親になったらわかったの。わたしの親はわたしに感謝するといい、って。わたしの子じゃないですよ、わたしの親が、わたしに感謝すべきだなって。わたし、こんなに大きくなって、生きてて、元気で、だから、わたしの親は、わたしに感謝しているはずだ、って。孫の顔?それはね、両親とも、孫の顔を見られて、もちろんよろこんでますけど、湯水のようによろこんでますけど、それにわたしの仕事の成果も褒めちぎってくれますけど、そんなのは、おまけですよ、おまけ。

 ねえ、山田さん、マキノさん、わたし、親になったらよくわかりました。まっとうな親なら子が生まれてきただけで完全に報われるのだし、生きて大きくなってくれたら、あとはもう、なんだって、かまわないの。幸せでいてくれたら、毎日毎日、うれしくて楽しくてしかたないの。だからわたしは親孝行なの。わたしの子も。

 彼女は私の顔を見て、ついでのように言いそえた。あのね、わたしは、親になったから、誰にも非難されずに、こんな主張ができます。でもそれはほんとうはおかしいの。子がなくたって、子は生まれてくるだけでOKなんだって言えなければおかしいでしょう。でも今はとやかく言ううるさいやつらがいる。だからわたし、なるべく積極的に、あっちこっちで、そう言って回りますね。マキノさんのぶんまで。