傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ジェントルマンの憂鬱

 新しいパターンですね、と私は言った。彼は小首をかしげ、コーヒーをのみ、それから、どういうこと、と訊いた。間を置いたのは訊かなくても勝手に解説するのを待っていたのだろう。
 大量の同期がいるわけではないので、入社時期が近いと社内での距離感も近い。さして親しくなくても、半年や一年に一度はランチでもどうかと声がかかる。彼もそのひとりだ。それを見とがめられて、別の人から「つきあってるんですか」と訊かれたのは一度や二度ではない。彼はごく一部の女性職員にものすごく人気があるのだ。
 私は彼を見る。どうということはない男だと思う。私は彼に魅力を感じない。友だちでもない。だからひいき目もなにもなく、彼が少数の女たちから熱烈に好かれる理由を推測することができる。この男のふるまいには棘がない。他人への気遣いがとてもよくできる。私たちみんなにあるはずの、他人にとって不都合な部分がないみたいに見える。どこもかしこもやわらかな布で覆われているかのようだ。若いころからそうだった。ジェントルマン、と彼を好きな女性のひとりが言っていた。
 ジェントルマンは女性を口説かない。いつも女性のほうが彼に近づく。彼はそれにこたえる。彼は恋人にとてもやさしい—もちろん。彼とつきあう女性には共通点があった。情熱的で、感情豊かで、それをはっきりとおもてに出し、他者との関わりを強く求める。そういうタイプだ。
 関係の終わりかたも共通している。彼女たちに何らかの事情が判明し、その事情の難しさがゆえに、彼は彼女のためにさんざん苦労し、彼女に尽くし、そして刀折れ矢尽きて、やむなく別れるのだ。病気、精神の不安定、実は既婚者。そういった事情は毎回彼女の側にあり、彼は悲劇の主人公に見える。あまりに同じパターンが続くので、話を聞いている私はじゃっかん飽きて、数年前にこう尋ねた。もしかして、事情があってずっと一緒にいられないような相手をわざと選んでるんじゃないですか。そういうのが趣味なんじゃないですか。つまり、「外的困難を前に挫折する愛」フェチ、みたいな。
 彼がそれにどう応えたかは覚えていない。けれども今回の話はいつものパターンから外れていた。自分から振ったというのだ。ようやく明石さんが動いた、と私は言った。正直なところ私、明石さんは一生そうやって受け身な悲劇の王子さまをやってるんだろうなーって、ちょっと軽蔑してました。すみませんでした。謝罪します。それで、今回の彼女とはどうして別れることにしたんですか。
 前の彼女が、と彼は言った。どうしても僕に助けてほしいというから。電話番号は別れた時に削除したけど、Facebookで連絡が来て、入院中なのに旦那さんは相変わらずぜんぜん助けてくれないというんだ。僕が行くしかない。そうやって前の彼女が心に引っかかっているうちは新しい彼女なんか作るべきじゃなかったんだ。
 は?と私は言った。彼はわずかに眉をひそめた。取り消します、と私は言った。さっきの謝罪、取り消します。私の明石さんに対する軽蔑は昂進しました。
 ねえ明石さん、明石さんのことジェントルマンだって言う人がいるんですよ。私はそうは思わない。明石さんはただただ受け身で、自分の感情に責任をもって行動しないだけです。自分の欲望を把握して叶えるのをさぼって、相手の欲望を先回りして叶えて必要とされて、それでいい気分になっているだけです。
 私は思うんだけど、そういうのって、自分の感情がよくわかっていない人がやることなんですよ。自分の感情をほったらかしにしてるから、感情豊かな恋人を作ってなんとなくいい気分になる。相手に向かいあって感情をやりとりすることができないから、悲劇的な理由があると好都合。今回は彼女の側に悲劇的な事情がなかったから前カノの話に乗っかったんでしょ。前カノとはある意味お似合いだから好きにすりゃあいいですけど、新しい彼女はかわいそう。
 前の彼女とやましいことは何もない、でも前の彼女を放ってはおけない、そのために今の彼女を傷つけたくない、だから身を引く。このストーリー、ほんとひどいですね。明石さんは加害者なのに被害者みたいな顔して、しかもそれがやさしさによるものだという理屈をつけている。そんなのジェントルマンじゃない。ジェントルクズです。
 一方的にことばを並べたて、それから私は、彼を見る。さすがに苛ついているようだ。そうだよ、と私は思う。むかついたらむかついたって顔をしてむかつくって言え。そう思う。でも彼は言わない。腕時計を見る。そろそろ、と言う。昼休み終わりますね、と私も言う。立ち上がると彼はすでにいつもと同じく、穏やかなほほえみを浮かべている。

僕のために泣いてくれ

 ねえ、マキノさんは、唐突な恋って知っている?つまり、相手のことをよく知らないのに、風景から浮かび上がるように誰かを見つけてしまうようなこと。そうしてその人がわたしの手を取ってくれるようなこと。

 私もそれなりの年月を生きているから、うん、そういうことは、あると知っているよ。私たちはある日、シャワーを浴びようとして奈落に落ちる。台所の扉をあけて炎に焼かれる。人生には稀にそういうことが起きる。意思も状況も関係なしに。

 たとえが不吉だなあ。でも、わたしは、溺れているし、身を焦がしているから、合っているのかしら。そう、半月前に、わたしにはそのようなことが起きたの。そしてわたしたちはできるかぎりの時間を一緒に過ごしているところなの。それでね、彼についてのほとんどあらゆる話を、たったの半月で聞いてしまっているの。生まれ育った家庭の複雑な事情とか、少年時代からの恋愛のひとつひとつとか、今でも解釈しきれない理不尽な経験とか、誰にどのように大切にされ誰にどのように傷つけられたかとか、そういうこと。わたしはそれを聞いてしくしくと泣くの。もちろん、すてきなことも多いけど、辛いことのほうがずっと多いお話だから。

 二週間で?うーん、それはまたずいぶんと、展開が早い。早いけど、ありえないことじゃない。恋は相手との境界線をあいまいにしてしまいたいという欲望を含むものだから。ただ、大人同士としては依存的すぎる。あ、さては、あなたよりさらにずっと若い相手なんだね?二十代終わりの大人と大学生、とか、いいよね、刹那的で風情がある。

    まさか。わたしは年下を相手にしたことって、ない。彼は年上。今年で四十。

 しじゅう!?まじで!?その人、だいじょうぶ?だいぶ退行してないか?うーん、でも、恋はときどき人を退行させて、今まで不足していたものを補わせたりするものでもあるからなあ。

 マキノさん、これから三十分くらい、いい?そう、ありがとう。あのね、わたし、ふられたんだけど。例の彼に。そう、一ヶ月。出会ったその日につきあいましょうと言い交わして、それで一ヶ月。あのさあ、まだ、寝てもいないんですけど。なんなの。前につきあってた女の人のことが引っかかっているうちは「やっぱりつきあえない」んですってよ。あれだけ人生の物語をぶちまけておいて。なんだよ、わたしはゴミ箱かよ。

 そうか、それはたいへんだったね。うん、彼はあなたを、ゴミ箱として使用したんだね。他人を無断でゴミ箱にしやがる人間はたまにいるんだよ。そういう人間にとって、話を聞かせる相手はカウンセラーや腕のいい客商売の人ではだめなんだ。お金を払って聞いてもらうのではゴミ箱にならないんだ。もちろんインターネットの向こうにいる知らない人とかでもだめ。感情をくれないから。自分の話を聞いて泣いてくれる人でなくてはならないの。だから他人の恋愛感情をそれに利用するの。下衆野郎だよ。私は性的行為なんかより、そのような感情的消費をこそ、ヤリ逃げと呼びたい。

 そう、まさに、それ。ヤリ逃げ。わたしは彼の人生に心を痛めた、彼の不運を嘆いた、彼にひどいことをした人たちをひとりひとり呪った。わたしは彼を、好きだから。彼はそれを取れるだけ取って、誠実ないい人みたいな顔で「前につきあっていた女性のことが引っかかっているうちは」なんて言ったんだ。その彼女とつきあってたのって、十年前だよ?たしかに泥沼だったみたいだけど、十年前だよ。なんなの。もしかしてあいつ十年こういうこと繰り返してきたんじゃないの?

 鋭いねえ。私は、そうだと思うな。そして彼はあなたと別れたくなんか実はないと思うな。一方的に感情的奉仕をしてくれる存在は貴重だから、十年のあいだに何人もいたわけじゃないはずだよ。つきあうという体裁を取らなくても自分のために泣いてくれるなら最高だから、そのためにあなたを試しているんだと思うよ。

 うん、そうだね。きっとそうだね。でも、彼はどうして、そんなひどいことを、おそらくひどいと意識せずに、やってしまうんだろう。何が彼をそうさせているんだろう。

 それはたしかに興味深いテーマだね。でもあなたはそれを気にして彼をかまってはいけないよ。それは彼の思う壺というものだよ。そんな下衆野郎のことは、もう放っておくのがいいよ。もちろん気持ちが残るのはあたりまえだけどね。

幸福に帰る

 重いでしょう、と彼女が言う。重いねと私はこたえる。ごめんねと彼女が言う。誰かに聞いてほしくて。ひとりじゃ受け止められなくて。
 こういう会話は何度目だろう、と私は思う。何十回もしたと思う。私は、人の話を聞くのが好きだ。何を聞いてもおもしろがっている。おもしろおかしい話じゃなくても、今日みたいに重苦しい話でも「おもしろい」。要するに他人をコンテンツだと思っているのだろう。不幸な話であっても、自分まで苦しくなることはない。その場では喉の奥からなんか上がってくるような感じがするけど、引きずらない。共感能力というものがあんまりないのかもしれない。
 けれども私はそのことを言わない。ちゃんと共感しているいい人みたいな顔をしている。善良で友情あふれるまともな人みたいな顔をしている。そのほうが得をする。友人だからといって自分の卑しいところまで見せる必要はない。そういう種類の嘘はほかにもいくつもついている。積極的な嘘ではなく、誤解を解かないという程度の、嘘。
 かまわないよと私は言う。私はあなたの配偶者と友だちになることはない。だからあなたの配偶者についてどういう話を聞いてもぜんぜん問題はない。受け止めきれない話を聞いたら私みたいに害のない相手に吐き出してすっきりするといいんだよ。あなただけじゃないよ。みんなそうやってバランスを取っているんだよ。
 そうねと彼女は言う。でもねえ、わたし、昔は、そうじゃなかった。好きな人が本人にはどうしようもない要因で過大な苦しみを負っているようなとき、わたしは、誰かに話してバランスを取ろうなんて思わなかった。バランスなんかどうでもよかった。一緒に苦しむことが愛だと思っていた。今でもそう思う。でもしない。夫の苦しみを一緒に苦しんで何もできなくなったりしない。仕事してごはんつくって食べて子どもの面倒みてお盆の帰省の手土産を買ってマンションの自治会の集会に出て、ねえ、わたしは、笑ったりもして、平気でいるの。
 彼女は平坦な声でそのように話して、それから、自分の発言に対する証拠のように、笑う。いつでも出力可能な、健全で歪みのないほほえみ。私たちはとうにそれを習得している。いいことですよと私はこたえる。私たちは自立した大人だから、必ず幸福な状態に帰ってくる。私は思うんだけど、不幸なままでいたら、自立はできない。地盤としての幸福をかためなければ私たちは自立することができなくて、その幸福は、誰かがいてくれるとか何かを持っているとか、そういうのではなくって、生きていることがだいたいいいことだという、確信みたいなものなんだ。
 私たちはもちろんいろんなものを手に入れるし、いろんなものを失う。昔は、すてきだと思った男の人に相手にされない程度のことでも世界が終わるような気がしたものだけれど、今はもちろん、そんなことはひとつの爪痕も残さない。世界は平常に運行される。些末なことだけじゃない。生きていれば思いもよらないことだって起きる。うつくしいことも、恐ろしいことも。人は病気になるし、死ぬこともある。私たちが誰かを愛したって、相手に何ができるわけでもない。愛したって病気になる。愛したって死ぬ。私たちは息がうまくできないような痛みを長く長く感じる。それでも、世界は終わらない。どれほど痛みを感じても、私たちは、幸福に戻るの。そこが私たちの帰るところなの。私たちの幸福は、もう、誰からもほんとうには奪われることがないの。
 私の長い宣言が終わると、彼女は息をついて、そうね、とつぶやいた。それはとても、いいことね。でもわたしは、そんなもの、投げ捨ててしまいたい。自治会役員なんて、手土産の調達なんて、部屋の掃除なんて、できなくなってしまいたい。娘を抱きしめて泣きわめいて過ごしたい。いつもどおり仕事をしているなんてばかみたいだと思う。動揺して仕事に支障をきたすのが愛情だと、どこかで思っている。こんな状況でもごはんがおいしいなんておかしいと思っている。幸福になんか帰りたくないと思っている。
 そうだね、と私は言う。自立した大人であることなんか、投げ捨ててしまいたいよね。私が無神経だったね。いいのよと彼女はこたえる。結局のところわたしは、何もかもうまくやりつづけるんだから。ちょっと拗ねてみたかっただけ。この人はやさしいなあと私は思う。大人になると、感情を吐き出すときにさえ、相手に気を遣う。そんなものこそ投げ捨ててくれたらいいのに、と思う。理解と共感に欠ける私を罵り、おまえはなにもわかっていないと言ってくれてかまわないのに。

「尊い犠牲」候補の反乱

 わたしはその映画、気が進まないな。評判がいいのは知ってるけどね、うん、できがいい悪いじゃなくて、おもしろいおもしろくないじゃなくて、わたし、なんていうか、パニックものの映画、観たくないの、あんまり。怖いんじゃなくて、えっと、怖いのかな、怖いのかもしれないな、映画そのものが、じゃなくって。

 パニック映画の登場人物って、危機に際して真実の愛に目覚めたり、家族を守るために力を発揮したり、するじゃない?わたし、あれがだめなんだよね。そりゃあ、危機的状況で愛は燃え上がるんだろうし、家族の大切さも輝くんでしょうよ。そして彼らは危機を乗り越える。

 そういうの観ると、愛して愛されている人間が生き残るべきだというメッセージを、わたしは感じ取っちゃうんだよね。ほら、わたし、家族とかいないし、作る気もないし、ひとりで生きてひとりで死ぬつもり満々でしょ。そういう人間はただでさえ風当たりが強いんだよ、この国の人は無宗教だっていうけど嘘だよ、「家族教」信者が多数を占めてるよ、ぜったい。家族がない、作る気もないっていうだけで迫害されるんだから。迫害っていうのは比喩だけど、比喩じゃないギリギリの感じだよ、実のところ。

 いい年して家を借りるのにも職場を移るのにも保証人を要求されて、それが親族じゃないととやかく言われて、カネで保証人を引っぱってくればいいところを探せば今度は緊急連絡先とやらを要求されて、それが親族じゃないとまたなんか言われる。めんどくせえ。女だとよけいに、日常生活でもとやかく言われる。父か夫か子に属していないとまともじゃないとでも思ってるんじゃないのか。あいつらの中で父も夫も子もないわたしの人権は目減りしてるんじゃないのか。冗談じゃねえや。

 生みの親を愛さなくてなにが悪い。わたしが十代のころ「あなたも大人になればわかる」って言ってた連中に見せてやりたいよ、二十年後も同じように、いや、ますます確信をもって、親なんか愛せないですねと断言しているわたしを。「自分が親になればわかる」とか言うんだけどねそういう連中は。いいかげんにしろ。

 わたしは愛を否定するつもりはない。わたしだって誰も愛していないのではないし、もちろん、愛してなくたってぜんぜんいいと思う。どちらにしても、家族とその候補である恋人を愛として、それを必須とするような連中を、わたしはぜったいに肯定しない。

 ねえ、フィクションの中の災厄でも人は死ぬでしょ、尊い犠牲とか出るでしょ。わたし、フィクションの多くが採用している価値観のなかでは、真っ先に尊い犠牲になっちゃう人だと思うんだ。だって、家族またはそれに準ずる者への愛の力で危機を乗り越える世界にあって、家族またはそれに準ずる者のない人間は危機を乗り越えられずに死ぬべき者でしょうよ。

 フィクションにあってわたしは、地震で逃げ遅れて最初に死ぬ人間、テロリストが見せしめに殺す人間、怪物の一撃目で潰される人間。どんなによくできたフィクションでも、自分がごみみたいに死ぬ「愛に目覚めない人間」として処理されるであろう世界を、娯楽としてわざわざ摂取する必要はないよ。わたしは彼らの世界では、テロリストの人質になった大勢の人々のあいだからてきとうに選ばれて頭に紙袋をかぶせられてカメラの前で頭を打ち抜かれる役回りの人間なんだから。

 たかが映画、たかが小説、でも、それが受けるのは、みんなの中にある価値観や願望を写しているからだとわたしは思う。多くの人が、危機にあっては愛に目覚めるべきだと思ってる。愛し愛されている者が生き残るべきだと思っている。家族のない人間は家族のある人間より価値が低いと思っている。おあいにくさま、わたしは、誰に愛されていなくても、生き残ってやる。

 わたしはわたしの命を誰にも格付けさせてやらない。他人がわたしを、愛し愛されていないから価値が低いと見積もっても、それを内面化してやるつもりはない。けれどもわたしは彼らの価値観に基づくせりふを大量に浴びてもまったく影響を受けないほどには強くはない。そういうものに接したらやっぱり気分が悪くなる。だから、主要な登場人物がにわかに愛に目覚めたり家族を思って危機を乗り越えたりするフィクションは、避けてるの。

 へえ、危機にあって愛に目覚めたり家族を守るために立ち上がったりしない映画?それなら、わたしも楽しめるかな。いいよ、観に行こう。

JR恵比寿駅23時36分の狼煙

 どうしてこんなところにいるんだろう。そう思う。自分も、向かいの人も。どうしてもこうしても、仕事上の必要がない相手を食事しようと言って呼び出したんだから、当たり前に適当なものを食ってるんだけど、お食事をしませんかという誘い文句の目的が食い物であるはずもない。その、食い物じゃない部分で思う。どうしてこんなところにいるんだろう。
 目の前の席を見る。女が座っている。楽しそうにふたことみこと話し、それから、目をそらす。そらしてもう一度、見る。ほんのすこしうつむく。ほほえむ。何かをかみ殺した口元。ひとつは食材だった動物。もうひとつは察してほしいせりふ。おそらく。
 楽しそうだな、と思う。楽しそうだし、なんだか不安定だ。そういう経験をしたことが、今までにないわけじゃないけど、思春期の病気みたいなもので、あとはだいたい相手をぼうっと見ていた。不思議だからだ。熱病の中にずっといるような人たちがこの世にはけっこういるのだ、と思う。熱病の記憶さえあいまいな中年になってもまだ、いちいちびっくりする。熱病の人をつぶさに見る機会がそれほど多くはないからかな。
 この人は若いから、と思う。でもそれは嘘だ。彼女は一回りも年下ではなくて、こちらはといえば、十年前どころか二十年前から「熱病」の覚えがない。だからたぶん人種がちがう。この人をどこかに連れていこうとすれば簡単なんだろうな、と思う。どうかすると彼女のほうから行きましょうと言うんじゃないだろうか。並んで歩きだすと距離が近い。身長差がちょうどいいな、と思う。極端に背丈があると、小さい人相手には何をするにもかがみこまなくてはならない。動作に邪魔が入るだけで目減りするくらいに衝動のエネルギー値が低いのか、と思う。情熱とかの持ち合わせがあんまりないんだ、年齢のせいだけではなくて。
 顔を離すと視界に彼女のかばんが入る。滑り落ちるのを途中で掴んで彼女の腕に戻す。ごめんなさいと彼女は言う。ごめんなさい、どきどきしちゃって全然だめ。せりふの途中で顔を上げたから語尾が掠れて消えた。耳があまりよくないと言ってあるから彼女はずっと、対面としては大きめの声に調整してくれていて、そういうところは好ましかった。でもそれは好ましいというだけのことだった。
 うらやましい、と思った。どきどきしたい。だめになりたい。まして全然だめになるってどんな感じがするんだろう。話し言葉なのにやけに文法の正確な、語彙の誤りのほとんどない(おそらくは声の調整と同じく、聞き取りが苦手なことに配慮してくれている結果としてよけいにその性質が強まっているのだと思う)この人が「全然だめ」と言う。その動揺が、うらやましかった。
 これは明確に年齢にともなうものだけれども、フィジカルな欲望はあまりない。だから女性に触れる動機は別にある。したいのではなくてできることを確認したいというたぐいの、たちの悪い欲望だ。ごめんなさい、と思う。ひどいことだ、と思う。学生の時分に、カントが「他者は手段ではなく目的でなければならない」と書いた本を読んで衝撃を受けたのに、二十何年経ってこのように接触している相手は明確に手段だ。つまり、自分はまだそこいらの女に好意を持たれることがある、ということを確認する、手段。ひどい話だ。相手に触れたいのではなく、どこまでも触れてかまわないと許可されることを確認したい。そのための手段が、彼女なのだった。
 「手段」が顔を上げる。意思をもった目がふたつ。顔は、きれいだ。多くの人がきれいだと言うような顔じゃなかったら「手段」として不十分だから、そういう相手じゃないとだめなんだ。でも強い意志は怖い。「手段」じゃない部分は怖い。怖いし便利じゃない。だから好きじゃない。
 まったく、ひどい話だ。というか、ひどいのは話じゃなくて、自分だ。改札の内側に押し込んだ女の後ろ姿をぼんやり見ながら、そう思う。女がくるりと振り返る。手を挙げる。手を振る。顔はもうわからない。顔がついているということくらいしかわからない距離が、彼女とのあいだに空いている。彼女は右の腕を垂直に上げ、手首から上だけを一度、ゆったりと回転させた。
 遠くの人に手を振るのはどうしてなんだろう。記号としてはものすごく下等だ。狼煙レベルに雑だ。見つけてほしいというならまだわかるけれども、これから別れる(しかも、なんならもう会わない)相手に手を振るのは、情報量としてゼロだ。ここにいます、という以上の情報がない。そう思う。でもやっぱり、自分でも手を挙げて、振る。狼煙。雑な信号。原初の記号。わたしはここにいます。

わたしたちの不合理な取っ手

 エスプレッソを考えたイタリア人は偉いですね。偉いですよね、こんなに美味しいんだものね。でもこのカップは最悪、あきらかに持ちにくい、とくに、取っ手の穴、圧倒的に、意味がない。たしかに、指は入らないですね。そう、指が入らないんだから、耳たぶみたいな形にしときゃいいじゃん、つまむしかないんだから。耳たぶ。そう、耳たぶ。ねえ、わたしたちふたりで耳たぶつまんでてばかみたいですよ。たしかに。わたしは少しイタリア人を擁護しようと思うんだけど、このカップの構造は、急いで飲むことをアフォードしているのではないですか。
 こうすると、重心が傾くから、こう?そう、取っ手をつまむでしょ、カップが取っ手の反対型に傾くでしょ、だから、さっと飲む。うん、飲んだ、事実として。ねえ、飲むでしょう、それを意図した形状なんじゃないの、深煎りの濃いコーヒーが酸化したら軽い地獄だし、少量で冷めやすいし。そうかなあ、あなたの説を採用するなら、エスプレッソカップはぐい飲みでいいことになる。ぐい飲み。そう、いらねえよ取っ手。どこまで取っ手が憎いんだよ。
 いや、憎んではいない、イタリア人は、ただ気づいていないだけなんだ、コーヒーのんで三百年とかだから、まだ気づいてないんだ、このカップに含まれる不合理さに。あと百年くらいで気づくわけか。そう、あと百年もすれば彼らは気づき、すべてのエスプレッソカップはぐい飲みになる、それを待とう。死ぬよ。死ぬね、あなたも死ぬ、不合理なエスプレッソカップを使い続けたままで死ぬ、でもいいんです、歴史とはそういうものなんだ、こんなものはなくなると思いながら見る視点が提供されたらそれでいいんです。
 コーヒーの歴史って三百年どころじゃないでしょ、もっと長いんじゃないの、昔アラブのえらいお坊さんが飲ませたんでしょ、恋を忘れたあわれな男に。その歌はまちがってて、坊さんが修行の眠気覚ましにしてたんだ、つまり、恋とか忘れる。年、とると、コーヒーなんかなくても、忘れるけど。そうだよ、忘れたらなんであわれなんだよ、そんなもん好きに忘れさせろ。
 思い出した?さあ、どうでしょう。もう一杯もらう?そうだね、あ、すみません、同じものください、彼女にも。ああ、アルコールというダウナー系ドラッグにカフェインというアッパー系を重ねるなんて、不良だ。そんなことはない、きわめてまじめです、あなた酔っぱらうと眠っちゃうみたいだから、コーヒーでも飲ませないと。わたしは、寝ちゃえばいいと思います。あのね、そういう年齢じゃないでしょう、おたがいに。年齢なんか関係ありません。じゃあ、性格、相手にちゃんと意識がないと困る、そういう性格だから、起きていてください。性格か、それじゃあしょうがないな、意識の清明を保ちましょう、あんまり自信ないけど。
 取っ手を貸してください、もう一度。はい、どうぞ、うふふ、人類にはいい取っ手がついていますね。全体に比して小さすぎるけどね。そうかな、じゅうぶんじゃないかな。この取っ手でかまわないのは、相手が協力的なときにかぎる。人類は協力的な相手の取っ手しかつかむべきではないよ。そうだけど、はじめはわからないから。確認すればいいじゃないですか、人類はそのために言語を獲得したのでしょう、意図せず生じる物理的な暴力を排除するために。政治や経済においてはね、でも個人には難しいこともある。そんなことありません、難しくなんかない、誰にでもできることです、言えばいいんです、何でも口に出して、確認すればいい、わたしは、します、もうお食事も終えたことですし、片手、空いてますよね、手をつないでも、いいですか。あなたには恥じらいというものがないのか。ありますよ、失礼な、いやではないのですね。どちらでもかまいません。えっ。手をつなぐことについては、ニュートラルです、あ、もちろん、相手による。
 わたしは、どちらでもよくないです、手をつないでいて、うれしいです。そうですか、何がそんなに可笑しいんですか。だって、手をつないでいいですかという質問に対して、ニュートラルって、ねえ。そうかな、手よりも、そのほかのほうが、いいと思うから、ああもう、何がそんなに可笑しいんですか。ねえ、コーヒー、冷めますよ。まったく、あなたのせいで、いろいろと困る。わたしのせいじゃ、ありません、わたしは、ちゃんと確認してるんだから、そこから先の問題は、あなたのせいです。じゃあ、アラブの坊さんが悪い。その歌の話は嘘じゃなかったの。嘘ですよ、もちろん。

僕の大嫌いなブス

 僕があの人を好きだったのはあの人がブスだったからだ。当の本人が、あっけなく、「きゅうりはみどりいろ」と言うみたいに、「わたしはブスだ」と言っていた。
 あの人は大学の先輩で、まわりにいつも誰かがいた。僕は馬鹿じゃない。趣味も悪くない。本だってけっこう読んでる。そして僕みたいな凡百の「馬鹿じゃない学生」が百人束になったって、あの人にはかなわなかった。
 僕の通っていたいけすかない大学では、馬鹿じゃないのはデフォルトで、そのうえでやたらと付加価値を示すのだった。その付加価値が容姿である者もたくさんいて、だから才色兼備系女子もごろごろしてたんだけど、あの人はそういう女子を取り巻きに従えた文化的女王さまみたいなものだった。僕はそのことがとても誇らしかった。僕はあの人のなんでもなかったけど。
 賢くてきれいな女の子たちがブスをとり囲んで話をしてもらいたがっていた。女の子の誰かがちょっと気の利いたことを言うと中央にいるブスがその女の子に何秒か笑いかける。すると女の子は嬉しそうに頬を染める。変な光景だ。
 あの人はただ頭がいいというのではなかった。もちろんいいんだけど、世の中には芸術を理解する才覚というものがあって、それは知能テストではかる能力とはまったく別のものだった。創作の能力ともちがう。文字で書かれたものであれビジュアルで示されたものであれ、そこから美しさの本質みたいなものをさっと取り上げてよどみなく言語化する能力だ。あの人には生まれつきそれが、髪の先から足の裏まで詰まっているように見えた。
 あの人はいつもへんな服を着ていた。正確には、服だけ見るとへんに見えるのにあの人が着ていると妙にしっくりくる服を着ていた。策を弄してすこしだけ仲良くなれたあと、そういう服ってどこで買うんですか、と訊いたら、たいそう軽蔑した顔になり(すべての表情が刺すような訴求力を持っている人で、わけても軽蔑の表情の威力はひとしおだった。その目で見られるともちろん腹立たしく、それから悪寒すれすれの、妙な気持ちよさがあった)、きみには似合わない、と言った。自分では着ませんけど、と僕は言った。見てて、すてきだなって。
 あの人は僕をはじめて見たみたいに上から下までさっと視線でスキャンし、それから、きみ、わたしが好きなの、と訊いた。はいと僕はこたえた。好きです。きみにその資格はないとあの人はあっけなく言った。きみみたいにきれいな男の子には。きみみたいにきれいで如才なくて何にも困ったことのない男の子には。
 きみはわたしの才能を好きだ。きみにはないものだから。そうしてわたしがブスだからそれをとっかかりにすればわたしのぜんぶが手に入ると思っている。わたしが美しかったらきみはわたしを好きにならない。きみは自分よりすぐれた者が好きなのに、どこもかしこも自分よりすぐれていては恋をすることができない。男だからかな。相手が自分より劣っていないと欲情できない男は多いよ、そういうフェチなんだろうね。趣味の問題だ。そしてわたしの趣味はそれに合わない。
 なにか反論はある、と訊かれて、いえ、と僕はこたえた。ありません。ぜんぶ合ってます、たぶん。自覚しなさいとあの人は言った。自分の欲望を自覚して、それを満たすような相手を探して、その人に合わせて取り繕いなさい。
 つまり僕は僕の浅ましい欲望の構造を丁寧に解説されたのだった。上品に見せている趣味が実は下手物食いだと暴かれたのだった。好きな人から。くやしいからあの人を取り巻いていたかわいい女の子のひとりとつきあった。僕が誰とつきあおうが、あの人にはどうでもいいことだけど。
 久しぶりにあの人のことを思い出したのは、つきあっている女の子が、先輩、結婚したんだって、と言ったからだ。結婚式の写真見る?先輩、きれいよ。
 僕はそれを見たくない。量産型の花嫁になるために厚塗りして「きれい」になったあの人なんか見たくない。どこかのくだらない男のために「取り繕った」顔なんか見たくない。僕があの人を好きだったのはあの人がブスのまま世界とわたりあっていたからだ。あの人は薄口のよくある顔を繕わないからブスなので、塗りたくってそこらへんのばかな男が好きなだせえ服を着たら別にブスじゃない。でもあの人は美意識過剰で、自分の顔が美しくないというだけで底なしの劣等感を持っていた。僕はそれを、自分が解消してあげられると思っていた。だから好きだった。すごく好きだった。もちろん今となってはむかつくだけの過去だ。僕はブスなんか嫌いだ。だから僕は、そんな写真は見ないし、それがこの世にあったこと自体、明日になったら忘れてやるんだ。