傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

屋根裏の奥の箱

 うん、今日は女子会だから、じゃあね。前を歩きながら夫と通話していた友人のせりふが私の横を過ぎ、雑踏に消えていく。私は首をかしげる。女ばかり三人で週末の夜を過ごすから女子会というのだろうけれど、そもそもどうして性別で区切るのかわからない。友だちはそれぞれ、またその組みあわせによって、話すことがちがう。そのちがいは性別より個人によるもののほうがずっと大きい。今日の三人なら口を開けば小説とマンガと映画の話、合間にふだんの生活についてのエピソード、それについての俯瞰的な意味づけ。あとは選挙が近いから、政治の話が入るだろう。
 食事のあいだの話はだいたい私の予想どおりだった。それなりに頻繁に会う友人であればなんとなし話題の分担をしているものだ。親密さの度合いが高ければなんでも話すというものではない。あまり親密でないからこそおそろしく個人的な話をするようなケースもある。
 そんなだから、友人がこう言ったときにはちょっと驚いた。その小説もそうだし、最近、毒親もの、多いよね、わたしの親もなんだけどさ。そうなんだーともうひとりが言い、私も、へえ、とかなんとか言った。予測していない話題が出たらとりあえずようすを見る。突っ込んで話したいのか、一側面だけを話したいのか、話題に出たコンテンツや何かと関係してポジションを明確にしたいのか。友人はオーブンで焼かれた子羊の骨をつかんで豪快に肉をかじり、フィンガーボールよりおしぼりが二枚あったほうがいいよね、といった。それから私たちの顔を見て話題を戻した。
 それでさ、フィクションでもノンフィクションでも、みんな、自分にとってマイナスになる親を切り離すのにすごい悩むじゃん。わたしはそれが不思議でならないの。もちろん、この親はどう考えてもダメな人だろ、っていうケースもあれば、極悪人じゃないけど相性が最悪なんだろうなっていうケースもある。でも、極悪でもそうじゃなくても、親っていうのは捨てたらだめだってみんな思ってるみたいなんだよね。捨てたらだめだし捨てたくない部分もある、とか、愛されたかったっていう未練があって思い切れない、とか。わたしそれがぜんぜんわかんないの。わたしは彼らのことをあんまり覚えていなくて、早いうちにきれいさっぱり捨てちゃったし、そのあと引きずってたのって、親に対する感情じゃなくて、「ほんとにひどい目に遭った、わたしは運が悪すぎる」とか「親がいないと人生ハードモードな日本社会つらい」みたいな恨みと怒りで、それすらわりと早く薄れちゃった。しかもわたし、おそらくなんにも悪いことしてない妹まで一緒にばっさり切り離して連絡とってないんだよ。そしてそれに対して何ら痛痒を感じないんだよ。それが不思議でさあ。わたしも本来は親きょうだいを捨てるのに葛藤しなきゃいけなかったんじゃないかなーって思うの、毒親もののコンテンツを見ると。
 もうひとりの同席者がテーブルの上の皿をずらして紙切れになにやら描いて彼女に手渡した。見ると昔のファンタジーに出てくるような古い木箱(簡単な線なのにそれとわかるのだ)があって、表面にはよろめく文字で「あいつらはひどいやつだ」と書いてあるのだった。きっと、こういう箱がある、と絵を描いた人が言う。あなたのなかの天井裏みたいなところに。箱は開かない、開かないほうが幸福だから。ただ表面の文字を見てあなたは了解する。そうか、あいつらはひどいんだな、って。それはあなたが七歳のときの字なの。それで、これが十歳のあなたが詰めた箱。これは十二歳のあなたが詰めた箱。あなたの天井裏には、こういうのがいっぱいあるの。だからあなたは彼らのことなんか考えなくてよくて、のらりくらりと幸福に暮らしていられるの。
 私は感心して口をはさんだ。そうだ、そういうことだよ、親を捨てて躊躇も未練もないのは、過去のあなたがそのための箱を残してくれたからだよ。いくつめかの箱には「妹はかまわない」とか書いてあって、その理由は、もうわからないし、わからなくていい。そして、なにも親がどうこうということはなくても、箱を置いた天井裏は誰にでもあるんだ。きっと私にも。そしてその中には、すごく美しいものも、すごく醜いものも、おそらくは入っている。でも私たちはそれを決して開かない。
 私たちの話を聞いていた彼女は、ほとんど無表情のまま、なんとなし愉快そうな気配になり、一度皿に置いた骨をもう一度つまんで、言った。それなら、箱の中には、わたしが殺したなにかの骨も、きっと残っているんだね。

1/103の人間

 あの映画、観たよ、人工知能の、おもしろかった、チューリング・テストって教科書に載ってたよね、懐かしい。そうだっけ、学生時代とかよく覚えてるな、思えば遠くに来たもんだ。十数年後にもこうやってしゃべってるなんて、ねえ。まともに話す相手なんかそんなに増えないから、メンバー交代が少ないんだろ。そうかな、友だちが増えないのはあなたの性格の問題でしょ。
 友だちねえ。友だちを定義しろなんて言わないよね。言わない、自分でする、僕は思うんだけど、人は多くの会話を手持ちのカードを抜き出すみたいな処理で済ませている、相手のためにいちいち発話を創造しようとするのは稀なことで、その相手を僕は友だちと呼びたい。
 いい定義。ありがとう、それで、たいていの人は、友だちなんか求めていない、何らかの機能だけを求めている。あなたの世界観は殺伐としすぎてるよ。そんなことはない、僕はたいへんなロマンティストだ。ロマンティックの定義に多勢との齟齬があるよ。
 賭けをしよう。賭け?そう、人工知能ならぬ、人工無能で。ああ、なんだっけ、かんたんなプログラムで応答を決めるやつか。そう、初対面の人間との会話に特化したものを、趣味で作った。それを使って、わたしが初対面の人と話をするの?逆。逆?そう、きみは人として話す、相手に気に入られるように、感じよく話す、そしてその会話が人工無能で再現できるかを検証する。
 わあ、楽しそう。楽しそうだろ。わたしは女だから、しかるべき場にちょっと加工した写真を載せておけば、山ほど初対面の、ていうか対面すらしてない相手とテキストで話せると思うよ、そして個人と通信日時や方法なんかにかかわる文言を消した雑談のテキストを使って、あなたの指示のとおりに分析する、あなたには判定結果だけを話す。どう?
 そのシチュエーションで「人間」判定が下るのは二割、いや一割だろうな、大半の男は女にセックスと世話しかしか求めてないんだから、人間同士の会話なんか、しない。目的はそうだろうけど、少々の人間らしい会話はするでしょう、いくらなんでも。ともかく、やりとりする期間とルールを決めよう。
 倫理的にはOKかなあ。OKOK、きみはまじめに会話するんだし、気に入ったら会えばいい、まっとうなユーザだ、マルチ商法の勧誘とかがうようよしてるインターネットにあって健全そのものだ、相手の送信したテキストもきみしか見ない。その他の懸念事項としてはですね、結果が、わたしの会話能力に依存するのでは。もちろんする、でも、少なくともきみの発話は僕の人工無能じゃ追えない、それは断言できる。初対面同士でしょう、相手も同じようなものじゃないの。僕は、相手のほうがずっと、人工無能的だと予測する、なぜならきみのことを人間だと思っていないから、そうしてこの世界では、それが当たり前の態度だから。

 発表します、まずはサンプル数、百人目指して、結果的に百三人。それらのうち、人工無能にできない発話を二回以上したのは?ふたり。ふたり!?なんかの間違いじゃないの?わたしもそう思った、でもたしかにそうなんだ、わたしの発話はかなりの割合で「人間」だったのに。きみに人間のように話す男は、百三分の二か。しかも一人は大量の自分語りを一方的にしてきたサンプル、つまり、初対面からの会話として成立する話を「人間らしく」したのは、ひとり。
 すごいな。うん、あなたの予測でさえ、二割はわたしと人間同士のコミュニケーションをしてくれる予定だったのにね。だから言っただろ、僕はロマンティストだって。
 ちなみに、百三分の一の人はぶっちぎりで大量に「人間らしい」発話をしたんだけど、だからってたいした話はしてないの、でもたしかに人間と話してる感じがした。たとえば?えっと、最初にカウントされたのは、「今日はビーサンで会社行きたかった」。ビーチサンダル?すごい雨の日で、水たまりに革靴を突っ込むなんて愚か者の所行だという、そういう意味、そのあと、豪雨のなかで傘を差すとか無意味だし、暑いし、浴びればいいじゃんっていう結論が出たの、その日。
 うん、ばかばかしい、相手から機能を引き出す目的で「雑談」する人は、そういう、些末で意味がなくて個人的な感覚にまつわることを、たぶん言わないんだろう。あのさ、今回の条件って、ちゃんと会話しようとすれば簡単にクリアできるし、人工無能じゃないほうの人工知能だってクリアしてくれるよね。そうだろうね、だからきみは、大半の相手から、人工物よりもずっと省エネルギーな対応しか、されなかったんだ、商品を受け取るためにお金を差し出すようなことばしか、受け取っていないんだ。

線形の報酬に関する問題、あるいは努力の正しい報われかたについて

 あの、わたしの、彼氏、マナブさんていうんですけど、サネヨシマナブさん。彼女がはにかんで言い、空中に文字を書く。サネヨシさん、と私は繰りかえす。ちかごろ私の部下の若い女性たちのあいだで交際している相手のフルネームを告げるという妙な流行があって、彼女もそれに倣ったらしかった。言いたくない者が気まずくならないよう気をつけているけれども、私に言うぶんには止めていない。おそらく生涯会わない人の姓と名を知るのは妙に可笑しかった。
 彼、わたしのこと、褒めてくれるんです、と彼女は言う。そうして彼がいかにすぐれた人物で、日々の重圧に耐え重要な仕事をしているか、滔々と話す。私はすこし違和感をおぼえる。この人が一度にこんなにたくさん話すのははじめてだ。ふたりだけで話すのがはじめてだからだろうか。一対一だとこういう人なのだろうか。
 なにかがおかしい、と思う。彼女のせりふは、断片だけ聞くと、惚気に聞こえる。本人も惚気だと思っているのだろう。けれども、惚気というのは、もっと散らかったものだ。理路整然とひとつの場所に向かうことはない。せいぜい「わたしはいかに愛されているか」という場に集約されるくらいで、だいたいは「相手の話をするだけでうれしいから話してしまう」というようなものだ。私の目の前の部下の話はそうじゃない。彼がいかにすぐれているか、もっと言うなら、彼女よりもいかにすぐれているか、という話をしている。
 そう、と私は言う。はい、と彼女はうなずく。上気している。人は恋をするとそわそわするものだ。けれども彼女のそわそわには別のものもまじっている、と私は思う。口に出して恋人と自分のあいだの序列を確認しなければならない、何かが。私はできるだけ軽く言う。そんな立派な人だと、私だったらちょっと気が抜けないなあ、ずぼらだから。そうなんですか、と彼女は目を見開いてみせる。そんなふうに見えませんけど。でも仕事ができる人ってそうかもしれませんね。
 謙遜も相づちも省略して私は言う。叱られちゃいそうだなあ、そういう人と一緒にいたら。叱られちゃうんです、と彼女は言う。わたし、料理もろくにしたことなくって、世の中のこと知らないし、彼、なんでも教えてくれるんです。そう、と私はこたえる。はい、と彼女はうなずく。私は言う。それで、褒めてくれるんですね、彼は、あなたが、彼に教えられたことを、うまくできたときに。
 はい、と彼女は言う。その声音はひときわ輝いていた。私はしばらく、彼女が褒めてもらった内容を聞いた。彼はいつも正しく彼女を導いていると彼女は信じているようだった。私が仕事上で指示したことを私生活でも適用して褒めらたという話が出るに至って、私は確信した。要注意だ、サネヨシ。
 私は彼女に指示を与える。私は彼女の上長だからだ。彼は彼女に指示を与える。おそらく彼にとって恋人は部下のようなものだからだ。教育し指示し正しく導くべき相手だからだ。そういう考えの人間は実はけっこういる。そしてそれにしたがうことに快楽を覚える彼女のような人間も。
 仕事には理不尽が内在している。努力をしても報われるとはかぎらない。自分の手に届かないところでひどい目に遭ったりする。上司がバカだったり、会社が舵取りを誤ったり、業界全体が傾いたり。コントロール不能なできごとにかこまれて私たちは仕事をしている。努力が正しく報われない世界にいる。
 彼女はいかにも勉強ができたであろうまじめな人で、まじめな子、と言いたいくらいの、ある種の幼さを感じさせた。先生の言うとおりにしていい成績を取っているような感じがした。それだから私は少しばかり彼女に申し訳ない気持ちでいた。仕事は受験勉強やダイエットみたいに(一時的にでも)線形に報われるものではないから。上司がバカなだけでひどい目に遭ったりするものだから。
 だから年若くまじめな彼女が「がんばれば報われる」恋愛を求めたのは私のせいでもあるのだ。上司である私や私の所属する会社や私がそのごくごく一部を担っている世界が、努力しただけ認めてくれる相手ではないから。けれども、と私は思う。努力が報われるなんて、嘘なんだよ。努力はみじめに足蹴にされて、それでも価値を持つものなんだよ。あなたはもう大人なのだから、誰かに褒められるために生きていてはいけないんだよ。恋人と自分のあいだに序列をつくる人間はだいたいろくなものじゃない。
 そう思う。でも言わない。今はきっと通じない。私は話しつづける彼女の笑顔を見る。いつも努力してその努力が報われて、だからとても幸福そうな、彼女の笑顔を。

ごく普通の家族の話

 そうだこないだわたし養子に入ったの。うん、母が、わたしと妹ふたりに、死んだら貯金とかくれるっていうからさあ。そう、父の再婚相手。正確には再々婚相手。あ、そのあたり話してなかったっけ。
 わたし七歳で実母を亡くしてるの。わたしと上の妹を産んだ母ね。大きくなってから「母が」って言ってたのはだから、養母。父親がほんと色ぼけじじいでさあ、養母が来たのって私が高校生のときなの。父親が「この人と結婚するー」って連れてきたわけ。当時、上の妹が中学生で、すごいけんかしてた。
 うん、わたしたち、ぐれてもしょうがなかったと思うよ。継母二人目だもの。めんどくさいから、たいしてぐれなかったけど。ね、事実婚でいいじゃんって思うよね、でもぜんぶ法律婚なの。法律婚三回。親が恋愛したからっていちいち結婚して、離婚して、また別の人と結婚して、子どもはいい迷惑だよ。
 ひとりめの再婚相手?ああ、彼女はね、死別じゃなくて、ふつうに離婚したの。来てそんなに経たないうちにいなくなっちゃった。わたしがまだ小学生で、下の妹が保育園入ってすぐ。それでね、下の妹ってほかの誰とも血がつながってないの。最初の再婚相手の連れ子なの。再婚相手と前の旦那さんの子なの。父の子ではないの。よく考えたら再婚相手が出ていったのに下の妹がうちに残ったのはレアケースなんだろうけど、当時はぜんぜん疑問に思わなかった。
 継母が突然家を出て、わたしと上の妹が父に連れられて下の妹の保育園のお迎えに行って、四人で帰ってきて、父が言うの、とても残念なことに、お父さんはふられた、って。わたし、お父さんはだめだなーって思った。
 下の妹はしばらくお母さんを恋しがって泣いててかわいそうだった。上の妹と「お父さんが悪い」ってよく言ってた。お父さんがふられたせいで妹のお母さんがいなくなっちゃった、ひどい話だって。
 家事は、わたしたち、たいしてしてなかった。お手伝いくらい。近所のおばさん何人かにローテーションで家事を頼んでたんだ、父がお金を払って。もちろん父も家事をしてたし。おばあちゃんおじいちゃんもしょっちゅう来てくれてた。下の妹のお迎えとか、授業参観とか、三者面談とかに。わたしたちはほかの家の子とおんなじような生活をしてたと思う。子どもは学校行って遊んで、ちょっとお手伝いして、夜はぐうぐう眠るものだって、疑ったこと、なかった。
 うん、当たり前のことだよ。でも当たり前のことを当たり前にできる家庭ばかりではないよ。そのことはわたしもなんとなくわかってた。わたしたちをふつうの子ども、ふつうの三姉妹としていさせるために、周囲の大人たちがどれほどの工夫と労力をはらってくれたのか。小さな大人でも家事要員でも「難しい家庭の子」でもない、そこいらの子どもでいさせるために、どれだけの偏見を排除してくれたのか。
 父はしかたのない色ぼけで、幼い子どもに母親をつくってやりたいから再婚しようなんて発想はない。自分がしたいから結婚する。おかげで育児に向かない継母が来て連れ子を置いて出て行っちゃったり、子どもたちが思春期まっただなかに再々婚相手が来ちゃったり、する。実にいい迷惑だよ。
 わたしにとってはだから、親っていうのは、いつも、ちゃんと、自分の幸福を考えている人だった。子どものために犠牲になんかならない。わたしたちは「ふられた」って聞けば「お父さんだめすぎ」とか思って、それで、残ったみんなで家族を継続した。わたしは自分が父の仕事やなにかの邪魔になってるって思ったこと一回もなかった。今にして思えばそんなはずがないんだけど。下の妹が家からいなくなる想像もしなかった。子どもだからまだ血のつながりとか気にしてなかったのかな、とにかく、下の妹は家に来たんだからうちの子で、わたしたちとおんなじだった。
 そうそう、養子の話ね。下の妹が言うの、めんどくさい、って。お父さんの養子で、今度お母さんの養子にもなるなんて、めんどくさい。結婚するときにも説明がめんどくさそうでくらくらする。家族の関係をつくるのにたくさん書類がいるのって、変だよ。家族かどうかはわたしたちが決めることなのに、何で役所にとやかく言われなきゃいけないの。わたしたち夫婦です、親子です、姉妹です、わたしたち家族ですって言ったら、みんなが「そうですか」って言うのが当たり前なのに。ああ、めんどくさい。

成熟と腐敗のあいだ

 中年の危機かな。そう言ってみると友人はなんとなし上を見る。中年男が若い女の子とつきあうのって、そう呼ばれるんじゃないの、と僕は尋ねる。俺まだいける、みたいな、そういう欲望。友人は、うぅん、というような、否定とも肯定とも取れない小声を返し、それから僕をながめまわして、地味だなあ、とつぶやいた。中年の危機にしては地味、近所の高校生にどうしようもなく恋をして突然からだを鍛えだしてムキムキになったりしてくれないと。
 現実はそんなにわかりやすくない、と僕は諭してやる。たいていの男は老いをおそれて女子高生に夢中になったりしない。ムキムキにもならない。ダイエットをする気にはなった。その程度。僕の言い分が途切れてたっぷり一秒あいてから、コーヒーカップに向けて発言しているみたいなようすのまま、友人は口をひらく。
 やっぱり、中年の危機じゃないよ。ある程度の成熟がないと観察されないものではあるけれど、少なくとも老いを恐れて若さにしがみつくようなかわいげのある事象じゃない。あなたの好きな女性は、若さだけを切りだされるほど若くはない。ただ不安定で、特定の部分が未熟なまま大きくなった人で、あなたに頼っている。彼女の幼さは、若さとは少しちがうものだよ。それに、あなたは彼女に夢中なのでもない。しがみつくように切実に求めているわけじゃない。どちらかというと、しがみつかれたいのでしょう。
 友人のせりふを最後まで聞いてやってから、僕は軽く、鼻で笑う。少しばかり気分を害している。この友人は、たいていの話はおもしろがって聞いて、価値判断を下さない。だから話し相手にするねうちがあるのに、今日はどうしたことか。たしかに僕は、いま好きな女の子とは別に、結婚して十年になる妻がいる。そして十年のあいだ、彼女がいなかったわけじゃない。目の前の友人はそういう話を聞いて、ふうん、と言っていた。僕にとってのこいつの価値はそこにある。職場や日常生活の場を共有している人間に知られたくない話ができること。男同士で話しているときの、武勇伝としてのあらすじ以上の内容は不要であるかのような空気の中ではしにくい、細かな描写ができること。そうして僕のしたことについて良いだの悪いだの言わないこと。女だけど女じゃない、もちろん男でもない、便利な話し相手。
 だから僕は近ごろできた新しい相手の話をしたのだ。会社の若い女の子が何かと僕に相談事をもちかけてきて、そのうちにずいぶんと親密になった。彼女はとても脆弱な人で、あまりいい環境にない。神経がむきだしになってるみたいに繊細だから、誰かがケアする必要がある。そのうちちゃんとした恋人ができるだろうけど、今は僕が頼りだというから、できることはするつもりでいる。そういう話をしたのだ。
 今日はずいぶんと倫理的だね、と僕は言う。私はいつだって倫理的だよと友人はこたえる。そしてその倫理に婚姻関係が加わったことはないよ、勝手にすればいいんだよ、法に触れるとわかっていてしているのだったら、そのほかの判断を下せる人間はどこにもいない、そう考えるのが、私の倫理だからさ。結婚していて別の女性と親しくなったからどうこうということじゃあないの。じゃあどういうことだという意味の僕の沈黙を受けて、友人はだらだらと話しだす。
 未熟な人間の、その未熟さばかりを撫でまわす行為って、なんといえばいいのかな、少なくとも、恋ではない。未熟さはいい、とてもいいものだ、すごく甘いものだよ。私だってそれくらい知ってる。未熟な人がひょんなことから自分を頼りにしたとき、どれだけいい気持ちがするか。見た目やなにかが自分にとって好ましい相手が、身も世もなく自分を頼りにしてくれたとき、どんな種類の快楽を感じるか。ちょっと頭がぼうっとするような、でも余裕があって冷静にふるまっている、あの感じ。
 頼られたいという欲望が満たされて、成熟した自分の優位性をいつも感じられて、そのくせ責任は発生しない。子どもに対するような責務はない、子どもより不都合が少ない、都合が悪いことは言い聞かせればしないでいてくれる。少なくともしばらくのあいだは。自分に余裕ができてからそういう人と恋愛っぽいことするのってすごく気持ちがいい、ずっとなめていたくなるみたいに甘い、そしてそれは、気持ちの悪いことだよ、自覚があったって、やるときはやっちゃうんだけどね。
 なんだ、同族嫌悪か。僕がそう返すと、友人はちょっと笑って、それから、はっきりと言った。気持ち悪い。

「普通」審判への異議申し立て

 マキノさんのとこは女子が優秀だよね。あー、成果出てますよね。やっぱりリーダーが女の人だとやりやすいのか。うちの会社もね、もっと増えるといいですよね、あとに続いてくれると、うん。ええ、たしかに。ねえ。あとは彼、ほら、二年目の。山田くんか。そうそう、彼、伸びますよ、あれは期待できる。
 右も左も管理職ばかりで、全員が男だ。そういう場で私はおおむね、あいまいな顔をしてだまっている。よぶんなことは言わない。管理職会議ではしょっちゅう「女の人の意見も聞かないと」と言われて、いくら少数派だからって女の代表で会議に参加してるんじゃないや、と内心で愚痴をいって、でもそれくらいは許容しよう、と思う。思って、でも、居心地がいいわけでもないから、あと少なくとも一年は基本姿勢「伏せ」でようすをみるつもりでいる。そんななかで必要な発言ができるよう、できるかぎり根回ししている。いろんな場を使って心情的な味方をつくっている。
 言いたいことを言っているずうずうしい女、でもまあ許してやろう。これが彼らの、今のところの私に対する評価だ。たぶん。彼らに苦笑とともに許容されるために、私は「いいやつ」でいなければならない。私は彼らの前に出るとき、自分の印象を細心にコントロールする。ちょっとださくて、元気で、そこそこ役に立つ、そういう人間に見えるように。私はスカートの丈を調整する。私は化粧のしかたを選択する。私は姿勢に気を配る。私は声の出し方を変える。そのようにして私は生き残ってきた。
 でも山田くんは女子枠でしょ。あはは、たしかに。だねー。彼、そいうあれなんだ、やっぱり。え、知らないけど。ねえ。あはは。
 私は彼らの前で印象をコントロールしている。表情はもちろんそのなかに含まれる。私は彼らの前にあるとき、いつもいい人に見える顔をしている。けれども今は、そこから外れた。私は笑わなかった。笑うところではない。生存率が多少下がっても、笑うところではない。もちろん少しも可笑しくない。そしてそれ以上に、同調して笑うところではない。私は怒っている。みんなが笑っていることに対して怒っている。そのことを(できれば)「いいやつ」の範囲の中で、彼らに許容される形式で、伝達しなければならない。そう思う。
 私は部下を全員「さん」づけで呼び、敬語で話す。親しい先輩や後輩には言葉を崩すけれど、部下にはそうしない。そんなわけで今、管理職たちに笑われているのは山田さんだ。山田さんは新卒二年目にして頭角をあらわしている。山田さんは物腰やわらかで、いつも礼儀正しく、声が小さく、指先にまで神経を配っているような仕草をする。山田さんはごく自然に女子社員の集団と食事に行く。山田さんはなにも悪いことをしていない。山田さんは有為な人材だ。笑われるようなことなんかなにひとつだってしていない。
 だから私は笑わない。向かいの男が笑顔で私を見る。私の二期上の、そこそこ親しい先輩だ。ほんのすこしの時間、視線を合わせる。私は笑わない。可笑しくなんかない。その感情を、もちろん口をひらくことなく、きわめて消極的に、相手に伝える。笑い声はしだいにやみ、その場の話題は次へとうつる。
 彼らに悪意はない。少なくとも自分たちに悪意があるとは思っていない。「我が社ももっと女性管理職を増やすべきだ」と彼らは言う。「マキノさんには若い女性社員たちに範を見せてもらわないと」と言う。「女性の意見を聞こう」と彼らは言う。そうして、山田くんは女子枠じゃないの、と「冗談」を交わして、笑う。悪意はない。ただ意識下で見下しているのだ。山田さんが男のくせに男みたいでないところがあるから。そうして、男みたいでない男は女子カテゴリでしょ、という「冗談」を言い交わす。テレビに出ているオネエタレントは笑っていい対象だから、そこいらの男っぽくない男もおんなじように笑いものにしていいと、彼らは思っている。いや、思ってさえいない。ただ、笑ってもいい相手と認識して、それを意識にのぼらせたこともない。自分たちは「普通」で、そこから外れる者をジャッジできる。彼らはそのような認識の上に立っている。そして私は、彼らより弱い。彼らに遠慮し、ようすをうかがっている。
 強くなりたい、と私は思う。こういうときに、大きな声で、何がおかしい、と言い放つためだけにでも、強くなりたい。あなたがた、山田の何を笑っているんですか。山田が何か笑われるべきことをしましたか。そう訊くためだけにでも、この場でいちばん、強い人間になりたい。

犬は老いても撫でれば喜ぶ

 いいよ、と彼は言う。苦笑している。子どもじゃないんだから。彼女は適切な返事を思いつかず、あいまいに笑う。手の位置なんて、ふだんは意識しない。だからすこし困って、だらりと垂らした。子はちかごろ夜に起きることがない。うちの子はもう赤ちゃんじゃないんだ、と思う。毎日二度も三度も夜中に起こされてそれはそれはたいへんだった。苛々することだってあったし、うんざりすることだってあった。それでも、過ぎてしまえばひどくいい時間だったように思えた。彼と彼女の視線を一身に集め、彼と彼女の腕にすっぽりとおさまり、口にするのは液体ばかりで、立って歩くこともことばを話すこともできなかった、彼らの息子の短い時間。
 その時間のなかで、彼らはたがいによく触れた。腕から腕へと子を受け渡し、ほ乳瓶やタオルを手渡し、ふたりして子をのぞきこんで、それから当たり前のように、頭や肩や背中に手を触れた。以前はどうたったかしら。彼女は記憶をさぐる。子が生まれる前はどうだったろう。いや、妊婦のおなかを触ったり歩くときに腕に手を添えるのはよくあることだ。そうじゃなくて、わたしたちが、ふたりきりであったころ。
 よく思い出せなかった。そんなに前のことではないのに、恋人たち、あるいは新婚の夫婦であったころの自分たちが、なんだかかすんでいるようだった。わたしたちがただの大人同士であったころ、と彼女は思う。わたしたちの関係が可逆的であったころ。たがいの意思だけがわたしたちの関係のよすがであったころ。わたしたちがたがいだけを愛しているという、簡単なお話のなかに住んでいたころ。
 少なくとも頭を撫でようとしてそれを断られたことは、なかった。彼女はそう思う。たぶん。それとも私はそもそも、そのように性的でない接触をあまりしていなかったのだろうか。相手を勇気づけるように、あるいはなぐさめるように(というほどの意思もなく、ただなんとなしに)、頭や肩や背に触れる、あるいは触れられることが、なかったのだろうか。今やそれは当たり前のように身についているけれども、彼にとってはそうでないようだった。いつのまにか、いいよ、と苦笑して退けるようなものになっていた。それは彼にとって、新生児が保育園に入るまでのあいだの、家庭内の戦友としてのふるまいだったのだろうか。それは期間限定のもので、期間が過ぎたら、もういらないものなのだろうか。特別な時期を過ぎたら、頭を撫でてもらいたくないのだろうか。なぜなら彼は、子どもではないから。
 よくない、と彼女は言う。そんなのって不当でしょう、どう考えても。そうかなと私はこたえる。人によるんじゃないかな、私も触れていいとわかった人ならやたらと撫でるけど、たいてい最初はぎょっとされるよ。慣れてくれる人と慣れてくれない人がいるよ。ハグ文化圏じゃないからねえ、日本。彼女はため息をついて首を振る。あのね、文化圏なんか、人と人とのあいだで作ればいいの。親しい人にいつどのように触るかなんて、誰かに決められることじゃないの。日本なんて放っておけばいいの。私は可笑しくなって、犬ならいいのに、と言う。みんなが犬ならいいのにね。犬は年をとって死ぬまで、撫でてやれば喜ぶよ。
 私は自分を、犬とたいして変わらない生き物だと思う。犬は鼻がよく、私は言語や火をつかう。それくらいしかちがうところがないような気がする。服を着るのとかは、しかたがなくしているので、できれば着ないほうがラクだと思う。服を着せられている犬を見るとちょっと気の毒に思う。せっかく、ほんものの犬なのに。
 食べものを得て夜露のかからないところで眠って、あとはそこいらを歩いていればだいたい幸せだ。知らない人が寄るとうなり、気に入った人が撫でると喜ぶ。嫌いなものにはかみつき、好きなものにはくっつく。好き嫌いは主ににおいで判別する。好きなものにしょっちゅうくっついていれば、それはそれは幸せだ。
 私にとって幸福はそのように簡単なもので、あとはおおむね、おまけだ。けれども、世界にはどうやらそのように感じない人のほうが多いようだと、ここ数年でようやく気づいた。人々の幸福はもっと複雑で、得体のしれないものであるようだった。みんな犬じゃないのだ。たとえば彼女の夫も。彼女はまだ憤慨している。子どもじゃなければ撫でなくていいなんて、まったくひどい話だ、と言う。私は心から同意して繰りかえす。みんなが犬ならいいのにね。